ページの本文へ

Hitachi
お問い合わせお問い合わせ

INSPIRATIONS 社会イノベーションをめぐる対話 vol.06INSPIRATIONS 社会イノベーションをめぐる対話 vol.06

  • 唐沢 かおり
    東京大学大学院
    人文社会系研究科 社会文化研究専攻 教授
  • 山田 真治
    日立製作所
    研究開発グループ 基礎研究センタ センタ長

社会心理学者の唐沢かおり教授は、人間の「自己」や「道徳」の形成にとって極めて重要な存在である「他者」に対し、人がどのように評価し、どのように振る舞うのか、またそれが社会にどのような影響をもたらすのかという「対人認知」について研究している。こうした人間をより深く知るための研究は、「人間中心」の社会をめざすSociety 5.0の実現においても必要な視点である。
加速する社会イノベーションの中で対人認知がどのように変化していくのか、さまざまな社会課題解決に向けてどのような姿勢で臨むことが有効なのか、また、どのような取り組みが必要なのか。日立の基礎研究部門を率いる山田真治センタ長が聞いた。

唐沢 かおりKarasawa Kaori
1984年京都大学文学部哲学科卒業、1992年同大学院文学研究科博士課程満期退学。1992年 Ph.D. (University of California, Los Angeles, Department of Psychology)。1995年日本福祉大学情報社会科学部助教授、1999年6月名古屋大学情報文化学部助教授、2001年同環境学研究科助教授、2006年東京大学社会系研究科助教授、2010年より現職。
著書・共著は『なぜ心を読みすぎるのか みきわめと対人関係の心理学』 『幸せな高齢者としての生活』 『心と社会を科学する』『新 社会心理学 心と社会をつなぐ知の統合』 など。
山田 真治Yamada Shinji
1986年東京大学工学系大学院修士課程修了(合成化学)。 1995年米国ペンシルバニア大学工学系博士課程修了(材料科学)。 1998年日立製作所入社、日立研究所、中央研究所にてナノテクノロジー、電池、パワーエレクトロニクス、センシングシステム、量子コンピューティングなどに関わる研究開発および研究マネジメントに従事。2015年より現職。
Ph.D.、日本化学会会員。

幸福を客観的に測ることの意義

山田近年、GNH(Gross National Happiness:国民総幸福量)に代表されるように、世界的に幸福度やウェルビーイングが強く意識されるようになってきました。それはなぜだと思われますか。

唐沢一つには医療や教育、衣食住に対するニーズがある程度満たされて、社会全体として余裕が出てきたからでしょうね。一方で、豊かになるということは、欲望を解放することであり、次々に欲望を満たしていくその先に、どのようなハピネスに到達できるのか、関心が持たれているということかもしれません。

山田日立では、組織の活性度をハピネス度と呼んで、それを身体活動量に基づいて計測する技術とともに、組織活性化施策を提案するサービスを進めてきました。一方で、組織活性度に限らず個人の幸福度やQoL(Quality of Life)というのは多分に主観的かつ多義的なものですから、どこまで客観評価することが可能なのかという意見もありますね。当社のハピネス度に関しても、ある組織で得られた結果が必ずしも他の組織において蓋然的であるとは限らず、組織の業種やコミュニティの人間関係によって変わりうるということも分かってきました。

唐沢ここで想定しているのが、どういうハピネスなのかということですね。客観的に評価できるのは、生理指標や行動など計測可能なものに限られます。そのことをきちんと了解したうえで活用するのであれば構わないと思いますし、計測して、他の変数との関係を探ることも、健全な科学の方法論の一つだと思います。
ただハピネスや幸福というのは非常に広い概念なので、言葉が独り歩きしないように気をつける必要はあります。つまり、計測できないもの、測りきれないものにも関心を向けておく必要がある。計測可能なものの指標だけを上げることが自己目的化してしまうのは危険だと思います。

山田おっしゃる通りですね。もちろん、私たちがこうした非常に難しい研究に挑戦しているのは、世の中を良くしたいというモチベーションがあればこそですが、さらに言うなら、従来のアンケート調査やインタビューからは明らかにできなかった気づきを可視化することに意義があると考えているからです。

唐沢一つの方法だけでなく、マルチメソッドで見て、総合的に理解していく姿勢はとても重要だと思います。

山田計測できるのはハピネスの一部であるとおっしゃったように、QoLやハピネスというのは、多くの要因の複雑な組み合わせでしょうし、環境や文化、世代によっても変わってくる部分がありますね。例えば、自分を取り巻く社会が、権威主義か平等主義か、個人主義か集団主義か、短期志向か長期志向かなどによって変わってくると思います。また、計測できるデータは、過去から現在までのものであり、その範囲で可視化しようとしているわけですが、今後は時間的な未来志向性やコアな普遍性を捉えることも課題だと考えています。

唐沢もちろん、健康であるとか、快適であるとか、良好な人間関係があるということは幸福につながるコアな要件で、それらはいずれの社会においても普遍性を持つものでしょう。ただし、それぞれの社会が持つさまざまなリソースや価値観の違いによって表層的に見えるものは変わってきます。つまりコアと表層の二層で見ていく必要があるということですね。

山田そうした多様性があるところが世界の面白さですからね。

社会課題解決において重要なカギを握る可視化技術

山田先ほど、簡単な処方箋などないというお話はありましたが、少子化や高齢化、地方の疲弊などさまざまな社会課題に対して、社会心理学はどのような貢献ができるとお考えですか。

 唐沢さまざまなことに貢献できると思っています。個人のものの考え方や感情、対人関係、集団のあり方、集団の中の規範、制度、文化など、これらはすべて社会心理学の対象であり、それぞれがどのように関わるのか、そのネットワークを理解して、解き明かしていくのが私たちの役割です。
例えば、何か課題を解決する際に、人の考えや行動を変える必要があれば、そのための環境設定や情報提示の仕方などについて、議論に役立つ素材は提示できると思います。現場で課題解決に向けて動いている方たちと一緒になって、総合的に考えていくことは、社会心理学者にとっても必要な営みです。実際に私自身、応用研究として、課題解決に向けた処方的研究を仲間とともに始めているところです。

山田それは心強いですね。そこでさっそくお尋ねしますが、例えば地方創生においては何を優先していくべきだとお考えですか。

唐沢地方創生で難しいことの一つに、ステークホルダーである住民が、確実な将来予測が難しい中で抱く不安をどうするのかということがあります。施策がもたらす結果は多岐に及び、良いことばかりではないかもしれません。そういう意味では、地方創生がもたらしうる可能性に関する全体像を可視化して、うまく提示することが重要だと思います。議論を支援するような可視化のためのツールがあれば、こちらを優先すればあちらはこうなるといった関係性が見えて、取り組むべきことの優先順位がつけやすくなると思うのです。

山田同感です。それはリスクマネジメントにも活用できますね。想定する施策に対する効果とリスクの関係性を示すことができれば、漠然とした安全神話を打開することにもつながり、より的確な判断ができると思います。
日立京大ラボで取り組んでいるAIを活用した政策提言では、有識者が作成した因果関係モデルに基づいて数万通りの未来シナリオのシミュレーションを行い、重要なシナリオの分岐の時期と要因を可視化することで、公共政策の立案に役立てています。日本全体の都市集中シナリオと地方分散シナリオに関する提言に続いて、文部科学省の高等教育政策で実施し、現在、長野県や岡山県真庭市の公共政策などに関して推進しています。
また、日立では、ステークホルダーのダイナミックな経済活動を可視化し、お客様とのワークショップなどを通じて、さまざまな要素を多角的に見える化することで、新規ビジネスの提案に結びつける日立独自の協創手法「NEXPERIENCE」の取り組みを積極的に進めています。例えば、ある街に鉄道を敷いた際の経済効果や渋滞解消効果を可視化し、事業価値を事前にシミュレートすることができます。今後は、多様な考え方を持つ多くのステークホルダーと取り組むことがますます重要になると考えています。

唐沢それは非常に重要な取り組みだと思います。一方で、可視化の際に、技術の導入による効果などは比較的簡単に示すことができても、コミュニティの人間関係をパラメーターとして組み込むことが難しいんですね。でも、暮らしやすさの面からいえば、むしろ後者の指標のほうが重要ですよね。そういう取り入れにくいものをいかに組み入れていくのかが、地方創生においてもカギを握っていると思います。
社会心理学だけではなく、文学や映画などの表象文化も参照しながら、人間関係のさまざまなパターンや行動のレパートリーを抽出したうえで、調査研究などで定量化したデータベースなどがあると、活用できるかもしれません。

山田なるほど、そういうパターンが分かれば、AIやロボットなどのエージェントの社会実装の際にも役立つように思います。地方創生などの社会課題を解決するためには、地域住民に納得していただいて社会的に受容されるように、心理的・文化的モデルに基づいた解釈性を持った可視化が必要だと考えており、そこが社会心理学者の方々に期待していることの一つです。

大学と企業に求められるこれからのオープンイノベーション

山田デジタル社会に向けて新たな社会設計が求められる中、人や社会に対して技術はどのように介入していくことが望ましいとお考えでしょうか。

唐沢介入で問題になるのは、介入によって、良くなったり得をする人がいる一方で、悪くなったり損をしたりする人が生じて、そのバランスが悪くなることですよね。これまでの話の繰り返しになりますが、やはり計画の際に公平性・公正性を常に意識しながら、多面的に見ていくことが重要だと思います。

山田先にご指摘いただいたように、効果と副作用を意識して、その両面をきちんと見ながら進めなければならないということですね。
社会に介入するということは、技術と人間の相互作用を介して、または人と人の対人認知に技術が介在して、人間に精神的・倫理的な影響を及ぼすことであり、あえて言えば、技術ではなく芸術・アートによって介入することが求められているように思います。リベラルアーツという言葉があるように、まさに人文・社会科学と自然科学の双方が必要であると考えています。
そのためには、やはりさまざまな知と経験を融合させていく必要があると考えていて、私たちも現在、大学との協創や自治体とのオープンイノベーションを通じて社会とつながることを積極的に進めています。その点について、アドバイスいただけますか。

唐沢企業も大学もそれぞれ違った形で知識を持っているわけで、それをうまく組み合わせて社会の幸福のために役立てていくことは非常に大事なことだと思っています。そのためには、互いに交流を深め、それぞれの取り組みを理解して、共同で取り組む「場」が必要だと思います。そもそも同じ研究者であっても、大学と企業ではカルチャーも違えば、持っている情報も違いますからね。いろいろ教えていただければと思っています。

山田現在、私たちが東京大学、京都大学、北海道大学などに共同研究拠点を開設させていただいているのは、大学には技術や人財をはじめとする、一企業には望めない素晴らしいイノベーションの資源があって、なおかつ公共性があり社会とつながっているからなんです。従来の産学連携とは異なり、現在から将来にわたる社会課題を探すところから始めて、ソリューション創生、社会イノベーションを広いエコシステムで協創ができると考えています。
共同研究拠点にいる研究者たちの実感として、人間同士の共同の「場」があるからこそ相互作用の中からイノベーションが創発するように思います。人間中心のSociety 5.0をめざすのであれば、まず産学連携の「場」から人間中心にすべきであるということですね。

唐沢産学連携が、目的が明確な相互利益に根ざしたつきあいではなく、組織を越えて人と人がつながる場になることによって、これまでとは違う成果が生まれてくるように思います。
企業の方々が社会心理学の知見を求めてこられることがあるのですが、その場限りの意見交換に終わってしまうことがあります。それだけでは寂しいですよね(笑)。共に何かをつくる際に、雑談など、一見、無駄に思えるようなやり取りや対話の中からアイデアが浮かぶこともあります。そういう無駄を厭わずにつきあえるような関係性を築いていけるといいですね。

山田おっしゃる通りですね。日立ではこういった活動に対して協創という言葉をよく使っています。私たちも同じ思いで新たな産学連携にチャレンジしていきますので、ぜひ、今後もよろしくお願いいたします。本日はありがとうございました。