2019年3月
ヨーロッパを旅すると瀟洒な建物に彩られた街並みに,しばしば魅入ってしまう。殊に天空を貫くかのような尖塔と,華麗な装飾が施されたゴシック様式の建築物には圧倒される。内に足を踏み入れると,幾重ものアーチが折り重なる交差リブヴォールトの高い天井を見上げたまま,思わず時間を忘れる。
ゴシック建築はヨーロッパ中世12世紀後半より流行り始める。900年前に,よくぞこれほどまでに荘厳な建築を可能にしたものだと思う。しかし,実際にはしばしば崩落事故が起きていたようだ。そこで建築業者組合(ギルド)は,革新的な技術の自主規制を始める。規制が強まればイノベーションは止まるが,安全性には代えられない。
時代が流れルネサンス期に入ると戦乱の世となり,城郭建築などの軍事技術が発達する。こうした革新技術の担い手は,ギルドに属さないイノベーターたちである。彼らはインゲニアトール(ingeniator)と呼ばれた。現在のエンジニアの語源である。各国は競って彼らを雇い入れた。やがて都市国家ヴェネチアが,優秀なインゲニアトールを囲い込むため,発明に褒賞を与えるようになり,1474年にこれが制度化される。特許制度の始まりである。
特許・発明と言えばエジソンの名が頭に浮かぶが,彼を発明王たらしめたのは,単に特許の数だけではない。エジソンは,機器単体ではなくシステムに着目し,発明に着手するにあたって,過去の特許をことごとく調べたという。電球の開発を始めた彼は,発電から送・配電にいたる電力システム全体を構想し,システム構築に必要な特許を順次取得していった。
彼の犯した大きな過ちの一つは直流への固執である。ニコラ・テスラを擁し,交流電力を推進するウエスティングハウスと覇を競い,敗れたエジソンは経営の一線を退く。
エジソンに勝った人物は他にもいる。電話発明の栄誉を手にしたベルである。彼の妻は,聴覚障がい者であった。妻だけでなく,彼の母も聴覚障がい者であり,ベルの父も彼も,もともと聴覚障がい者をサポートする仕事に就いていた。音の伝わり方に関心を持ち,やがて電話発明に没頭した彼のモチベーションは,母や妻への愛に支えられていたのである。
実はエジソンにはもう一つ痛恨の出来事がある。彼は,電球の内側に付着する黒い煤に気がつき,その原因を探っていたが,やがてその研究を止めてしまう。
後年このエジソンの研究成果をベースに,マルコーニの無線会社の顧問を務めていたフレミングが真空管を発明する。真空管は無線通信の品質向上に大いに役立ち,マルコーニの無線システムは世界を席巻する。
マルコーニの無線システム普及の契機となったのは,1912年のタイタニック遭難事故である。当時,まだ無線機器搭載船舶の数は多くなかったが,タイタニックはマルコーニ製機器を搭載し,同社無線係が乗船していた。この無線係のSOS信号を,同社機器を搭載したカルパチヤ号が受信し,4時間掛けて救出に向かった。この事故の後1914年に「SOLAS条約:海上における人命の安全のための国際条約」が締結され,乗客50名以上の船舶への無線機器搭載が義務付けられた。
マルコーニの無線システム独占に,世界は安全保障上の危機感を覚えた。特に米海軍の艦船は,すべてマルコーニ製機器を搭載していたため,国際連盟を提唱し平和を希求したウィルソン大統領は,マルコーニ製品を抑制する規制を次々に敷いた。
後の大統領F・D・ルーズベルト海軍次官補は,米国マルコーニ社の株式をGEが取得できるよう奔走し,1919年GE資本の無線特許管理会社RCA(Radio Corp-oration of America)が誕生する。やがて,有力な無線特許を保持するAT&TがRCAに資本参加し,さらにウエスティングハウスも参加する。
余談だが,ニューヨークのデパートで,夜を徹してタイタニックの信号を受信したマルコーニ社無線係デヴィッド・サーノフは,後にRCA社長に上り詰め,同社を一流ラジオ・テレビメーカーへ育て上げ,メディア王と呼ばれるに至る。
エジソンが止めた研究から飛躍したマルコーニの特許を基に,エジソンが作ったGEと,電話開発で競ったベルのAT&Tと,電力システムで鎬を削ったウエスティングハウスが,RCAに共存して,無線に関するあらゆる特許を集約し,特許使用を希望する企業にライセンスするビジネスモデルを作った。これをパテントプールと言う。
日立では創業者の小平浪平が「発明は技術者の生命である」として社員の発明を奨励し,またエジソンが徹底的に特許を研究したように,小平も特許公報を買い集めて既存の発明を丁寧に研究したという。創業当初は,小平自身が特許出願などを担っていたが,会社規模が拡大するに従い,徐々に部下に任せるようになった。
やがて1917(大正6)年に児玉寛一が入社する。当初,彼は小型モータの開発に従事していたが,出願業務も担うようになる。徐々に出願件数も増え,1921年には助手の滑川清とともに特許専任となった。日立ではこの時を持って知財部門の創設としている。
児玉たちの業務は出願だけでなく,同年の特許法改正を契機として設計者へ特許の意義,知識の講義などの啓発活動にも及んでいる。
かつてヴェネチアがインゲニアトールのモチベーションを高めるために,発明に対する褒賞制度を用いたように,当時の日立でも特許などを取得した者への賞与支給を実施する奨励策を制度化している。また設計者だけでなく,一般社員のイノベーション奨励のため,特許取得には及ばない職場内のイノベーションを対象とした奨励策「考案賞与」を制度化し,さらに,小さな気付きによる改善提案には「気付賞与」,他人のイノベーションを意欲的に取り入れた者には「実施賞与」を与えるなど,イノベーション促進と人財育成の観点からさまざまな施策を打ち出してきた。
これら施策により,社員全員がイノベーションへの感覚を研ぎ澄まし,組織としてこれを尊ぶ企業文化が醸成された。そして,この文化が技術者のさらなるイノベーション意欲を育むこととなった。
以上のような気風・伝統は形を変えて今でも存続し,特許の技術イノベーションにとどまらず,社会貢献活動を含む幅広い分野で,全世界の日立社員を対象に展開されている。
エジソンやマルコーニなどが活躍した牧歌的な時代は,機器やシステム全体もまだ単純であったが,技術が複雑化した今日では,1社でシステム全体を担うことは不可能であり,複数のメーカーが開発した機器同士の互換性が担保される必要がある。そこで,知財戦略としての標準・規格が重要性を帯びるようになる。
近代的な意味での規格は革命期のフランスにまで遡ることができる。揺籃の時代に備えフランスではマスケット銃の大量生産と部品の互換性が重要視されるようになった。この部品互換性の考えが,独立後間もない米国に伝わり発展する。殊に西部劇映画でおなじみのコルト拳銃を開発したコルト社が,部品の標準化・互換性を進化させた。それだけでなく,コルト社から数多のエンジニアが育ち,米国中に標準化によるモノづくりが広まる。例えば,コルト社から巣立ったフランシス・プラットとエイモス・ホイットニーが設立した製造工場は,現在GE,ロールスロイスと並ぶ航空機エンジンメーカー,プラット&ホイットニーとして知られている。
米国の無線システム事業では,GEやAT&Tがパテントプールを活用し,競争から協調へとシフトした。だがパテントプールには大企業の寡占の可能性が付きまとう。現在でもGAFAの優位性に厳しい視線が浴びせられているが,米国は伝統的に大企業の寡占への警戒感が強い。
コンピュータが産業として勃興し,技術が複雑化するとさまざまな局面で米国企業は苦境に立たされるようになる。強いアメリカを宣言したロナルド・レーガンが大統領に就任すると,産業競争力強化のため矢継ぎ早にイノベーション奨励政策を発布する。1980年に施行されたバイドール法は産学連携を促進し,1982年施行のSBIR( Small Business Innovation Research program)はベンチャー興隆の基礎となった。1984年には国家共同研究法が成立し,それまで独占禁止法の厳格な運用により,2社以上の共同開発を禁止されていた米国企業が,息を吹き返し,オープンイノベーションが加速度的に進化する。
欧州では1993年のEU(欧州連合)統合を契機に標準化の動きが加速する。これに先立つ1985年欧州委員会が,標準化に関する「ニューアプローチ」指令を発表し,これによりCEN(欧州標準化委員会)などが機能強化され,標準化への環境整備が整う。
無線システムにおけるマルコーニの活躍は前に述べたが,欧州の標準化でも携帯電話のGSM規格は外せない。元来アナログ式携帯電話の開発で日米に遅れを取っていた欧州は,EU統合を契機に日米企業に市場を独占される危機感からGSM方式の標準化を推進した。
マルコーニは無線基地局も端末も独占した。しかしGSMでは,普及に手間が掛かる携帯端末の仕様は徹底してオープン化する一方で,無線基地局・制御基地局など欧州メーカーが競争力を発揮する技術は,ほとんど公開されなかった。オープンイノベーションの時代の知財戦略では,自社の強みと弱みを丁寧に分析したオープン&クローズ戦略が重要である。
欧州は業界ごとに各国を代表するメーカーがひしめいているだけに,標準化には長けている。GSMだけでなく,鉄道システムに関わるRAMS,自動車の排ガス規制に関わるEURO,自動車ソフト開発に関わるAUTOSARなどはEU発の国際規格であり,中国・インドなどの新興超大国を上手く取り込んでいる。
サイバー法の世界的権威ローレンス・レッシグ教授によれば,人々の行動を制約する要素は,法・規範・市場・アーキテクチャの4つがあると言う。
法規制は,強すぎても弱すぎてもいけない。冒頭の中世のギルドのように安全性を重視して,革新技術を規制すべき場合もあるし,オープンイノベーションを促進するために1980〜1990年代に欧米がとった規制緩和が必要な場合もある。規範は社会的な倫理・道徳であり,ビジネス分野の規範ではSDGs(持続可能な開発目標)や日本が唱えるSociety 5.0なども含まれるであろう。市場は,シェアリングビジネスの普及により人々の行動がモノからコトへと移ってきた。アーキテクチャは,特にデータ駆動型社会にとって重要である。膨大なデータが取得できても,個々のデータの形式が異なれば,人々が期待する成果は得られない。それゆえに各データ間のインターオペラビリティの推進が必要である。
ダボス会議の運営元であるWEF(世界経済フォーラム)が2017年に設立したC4IR(第四次産業革命センター)は,第四次産業革命の時代にふさわしい法の確立とグローバルな普及を目的とした研究機関である。日立はその趣旨に共鳴して設立後まもなくパートナーとして,その活動に参画している。
規範については,日立はSDGsの17目標のうち,11目標を選定し,企業活動全体,あるいは事業活動を通じた貢献をめざしている。
市場がモノからコトへとシフトするのに応じて,日立では顧客のデジタルイノベーションを加速するソリューションLumadaを充実させてきた。プラットフォーム型ビジネスモデルで重要となるのが,オープン&クローズ戦略である。日立の場合は,AI(Artificial Intelligence:人工知能)などLumadaのコア技術となるBGIP(Background Intellectual Property)を確実に確保する一方で,データ分析の過程で創出されるFGIP(Foreground Intellectual Property)の利活用促進に向けて,顧客と柔軟に取り決めている。
インターオペラビリティの保障で重要なのは,やはり国際標準化である。日立では,国際標準に関わる団体IEC(国際電気標準会議 )やISO(国際標準化機構)の専門家委員会の国際議長を輩出している。
発明は技術者の生命であるとして,特許を重視した小平から始まった日立の知財戦略は,今や単に特許の取り扱いに留まらず,事業活動や社会貢献活動とも直結し,またIECやISOだけでなく新しく法規制に関わってきたWEF・C4IRなどとも連携するなど,誠に裾野の広いものへと発展している。
中世のギルド職人やルネサンス期のインゲニアトールたちは,知財を駆使して,数世紀を得た現在も残るイノベーションを育んだ。我々も知財を活用して,時空を超えたイノベーションを育む企業文化を創造したいと思う。