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PORTRAITS 変化を歩む人 vol. 4PORTRAITS 変化を歩む人 vol. 4

岩嵜 正明さん
研究開発グループ 技師長 兼OSSテクノロジーラボラトリ長

Masaaki Iwasaki | 1958年12月福岡県福岡市生まれ。1981年九州工業大学 電子工学科卒。1983年九州大学大学院 総合理工学研究科 情報システム工学専攻 修士了, 同年日立製作所 中央研究所に入所。1993年システム開発研究所に異動。2017年より現職。
並列推論マシン、メインフレーム、超並列マシンCP-PACS(SR2201)、データセンター、NAS等のシステムソフトウェアの研究開発を経て、近年はクラウド関連の研究に従事。2008年、岡山大にて博士号取得。2015年〜2016年情報処理学会(IPSJ)理事、IPSJ会員、IEICE会員、IEEE CS会員など。

まだ見ぬ未来に好奇心が騒ぐ
未来に誘われし者の歩んだ跡が道になる

第5世代コンピューター、メインフレーム(大型汎用コンピューター)、超並列スパコン(スーパーコンピューター)、ファイルストレージ、そしてIoTプラットフォームLumada。
一見、1980年代から現在に至る、日立のIT事業の歩みを書き出したようだ。
実はこれは1人の研究者が歩んだ道のりでもある。
この怒濤の変化を歩んだ研究者こそが岩嵜正明さんだ。
メインストリートと謳われる道も、歩んでいる時点では足元さえ見えない。
どんなときも自分流で歩んだという彼が、
ITの進化という激浪の内側で、いったい何を考え、どのように仕事を形づくってきたのか。
変遷の内側を覗きながら、その極意を伺いたい。

自らの好奇心で時代を突き進む

「自分の歩んだ道のりを『変化』とはあまり捉えていませんね。
ただ自分がやりたいと思えるものを思う通りにやってきた。それだけですよ。」

小さなころから興味を持った物へはわき目もふらず没頭するタイプだった。
ただおもしろがるだけではなく、対象の構造や仕組みにまで遡って本質的に捉えようとする徹底ぶりに周囲は目を丸くした。

大学では電子工学科に入ったはずが、入学前のガイダンスで知った計算機センターにてプログラミング言語に出合い、授業開始前の1週間で習得してしまったという逸話も持つ。

「たいてい次にやる仕事は、前の仕事の反省からですね。これをこのままやり続けてもおもしろいことはない。こっちがきっとおもしろいと。」

心のアンテナが次の行先を指し示す。それに従い歩んできた。

岩嵜さんは大学院でOS(オペレーティングシステム)を研究した後、1983年日立製作所に入社。
中央研究所に配属され、現在のAI(Artificial Intelligence:人工知能)を先取りする国家プロジェクト「第5世代コンピューター」※)の開発に携わる。同期がこぞって志望する人気プロジェクトだったが、なぜかOS志望の岩嵜さんが抜擢された。

※)
電子管を用いた第1世代、トランジスタによる第2世代、大規模集積回路(LSI)の第3世代、超LSIで作った第4世代に続く次世代コンピューターの開発をめざして、1982年から通商産業省(現経済産業省)で計画され、音声・画像などの直接入力、自然言語による会話処理、学習・連想などの高い知能をもたせることなどが研究された。プロジェクトは1992年に終了した。

「おもしろかったですよ。最初は不満に思いながらも、入ってみると、ぜんぜん知らなかった論理型言語(Prolog)の並列処理システムを作ることができて、ラッキーでしたね。」

ところが自信がついてきた矢先、メインフレームの開発へと異動の命が下る。
反発しながらも事業部へ足を運んでみると、多くの人たちが困り果て顔色を失っていた。

銀行のメインフレームを構築する最重要案件。ソフトウェアだけでも数千人が携わっていた。顧客の性能要求に対し、プロセッサーを複数搭載することで応じる計画だったのだが、連動試験の段階になると、プロセッサーを増やしても性能が上がらない。それどころかプロセッサーを2台にすると性能が2分の1に、4台にすると4分の1になってしまった。納期があと半年後に迫っていた。

メインフレームに関しては素人だったが、技術幹部らの話を聞いていると、処理の順番や指示、制御のロジックがいけないようだとおぼろげに分かってきた。ここでにわかに好奇心のスイッチが入る。

ソフトウェアの動作データを入手。自ら分析プログラムを作り、連日深夜まで取り組んだ。効率的なプログラミング言語を用いることによって事業部では半年はかかると見込まれていた分析を、たった1週間で終え、問題点を割り出すことに成功した。みんなの顔色がみるみる蘇り、岩嵜さんはヒーローになった。

窮地を救った岩嵜さんにはすぐに次のミッションが待っていた。もし提案通りにソフトウェアを改修したら、今後どれくらいの性能が見込めるか。この事業の未来を託された。

学生時代、数学は苦手だったのだが、これも独自に数式モデルを作ることから始め、試行錯誤で取り組んだ。いつの間にかのめり込んでいた。
そして、2倍、4倍、8倍、16倍、……

見えてきたのは、性能の限界。岩嵜さんは絶句した。
ある段階で性能が飽和してしまうのだ。

研究を始めた時から、世界でいちばん速いコンピューターを作りたいと志していた。
だがしかし……。
幸か不幸か、誰よりも早くその限界を知ってしまったわけだ。

急速にコンピューターへの興味を失う。いっそ会社を辞めてしまおうかとも悩んだ。

そんな折に出合ったのが……、ゼロックス社の『J-Star』というワークステーション。
マウスで絵を描き、それをディスプレイで見ることができる。今聞くと当たり前のようだが、時は1987年。まだマックもウィンドウズも普及していない時代。革新的かつ画期的なコンピューターだった。

「コンピューターってこんな使い方が出来るんだ!!」

「性能」から「使い方」への発想転換。
それまで性能を上げることだけを追求してきた岩嵜さんにとって、まさに目から鱗だった。

「自分でもこういうことをやってみたい!」
コンピューターへの興味が、再び湧き上がった。

その後、アニメが描けるマックやイーサネット(LANネットワーク)から着想を得ながら、これからはネットワークを介して映像を観る時代が来るはずと予見。1989年、高品質のビデオ配信ができるような新時代のOSを構想する。

しかし、いったんは超並列コンピューターのOS開発を依頼され、しばらく専念した。メインフレームのように1つのコンピューターに複数のプロセッサーを搭載するのではなく、複数のコンピューターをつなげる「分散並列処理」の可能性を見極めることに触手が動いたのである。1990年から1993年のことだ。

が、開発プロジェクトが軌道に乗るとまたしても興味は薄れ、世界最高速コンピューターの座に達した1996年頃は、この超並列コンピューター「SR2201」に採用した最先端OSも含めて、既存のOSが抱える根本的な問題点の解決に取り組んでいた。

1994年に始めたその取り組みでは、実はその5年前に構想したネットワークを介して高品質なビデオ配信ができる新OSの実現をめざしていた。当時はビデオ配信事業の黎明期で多くの企業が取り組んでいたが、映像の品質を安定させられず、なかなか市場が立ち上がらない状況だった。

既存のOSは、コンピューターの中で仕事(イベント)が発生するたびにそれらを競争させ優先順位を逐一決めていたが、その仕組み(イベント駆動スケジューリング)では映像を安定して観ることができない。それに対し、映像を流すということは処理が周期的で見通しが利くのだから、あらかじめどのように処理するのかを調整し、周期的に駆動する仕組み(周期駆動スケジューリング)を実現すればいい。そう考えたのだ。

岩嵜さんのアイディアは見事に当たり、技術的には成功した。

しかし、映像の著作権制度など、いろいろな要因で、肝心の映像コンテンツを調達することができず、事業化は頓挫してしまう。このとき1999年。好奇心が時代を追い抜いてしまっていたのだ。

その後も、自身も会社もまったく未経験だったインターネットビジネスの事業開発、日立のITビジネスを牽引するストレージシステム事業の中核を担うファイルストレージの開発など、自身の興味と好奇心の矛先を次々と変化させながら歩み続けてきた。

大胆に切り捨て、選択をしてこそ前に進める

「岩嵜流だね」「岩嵜君らしい設計だね」と言われることがよくある。
どこが?と尋ねると、「大胆に切り捨てる」ところだという。

プログラミングにも人柄は出るらしい。

「あれもこれもみんなの意見を聞き入れて、寄せ集めにすることはしません。全体を見渡して矛盾するもの、一緒にやったら上手くいかないものは切り捨てる。どんなに頼まれても、矛盾点をない交ぜにせず、きっぱりと断ります。」

どうしても自分で判断できないときは2案を上司に持っていく。
両立できない2つの矛盾点を明らかにし、どちらか切り捨てる選択を迫る。

「お前はいつも短刀を突き付けるように白黒を求めてくるよな。」
上司からはよくそんな皮肉を言われた。
「……でもそこがお前の良いところだ。」
幸い、それに対して曖昧な返事をした上司はひとりもいなかった。

自ら決断し物事の白黒をつけるには勇気が必要だ。しかし組織の論理で、選択をしなかったり先延ばしにしたりすることも少なくない。プログラミングの世界でも1度承認を得ると、不要になった機能がそのまま放置されがちだ。
「そうするとシステム(プログラム)の中にだんだんゴミが溜まってくるんです。次第にどこが本当に重要か分からなくなって、誰も手を付けられないものになってしまう。」

選択をしなければ先に進めない。岩嵜さんはまっすぐに語る。

現在アーキテクチャの取りまとめ役を務めるIoTプラットフォームLumadaにも積年の思いがある。

ITもオープン化の時代になり、ビジネス環境は一変した。
一世を風靡したコンピューター関連のハードウェア事業は縮小し、ソフトウェア事業がグローバルに戦う最後の主戦場となって残った。今度は全社を挙げてそこに注力、全力投球していく本気を感じている。

その共通基盤としてのIoTプラットフォームLumadaを整え、他社のサービスやオープンソースなど活用できるものは活用し、そこに日立の実業の知恵を活かして付加価値を生み出していく。

これは日立のサービス事業へのシフトを意味するという。
まさに「どう使うか」が肝となる。

「これだけ大きな組織を、いかにしてまったく異なるスキームに転換していくのか。それが今、私の使命であり、最大の興味です。オープンソースの時代、変化が前提であるものを取り入れながら、社会インフラシステムとして安定稼働させていくことは世界中の誰もまだできていません。」

一方で、あらゆる面でコンピューターが欠かせない社会を築いたとして、未来を懸念する。人間自身の力だけでは、もはや拡張し続けてきたシステムを制御し、社会生活を営むことはできない。

人口が減少し、従来のような大幅な経済成長は期待できない未来社会にあっても、成長期に作ったさまざまなシステムの保守・メンテナンスは不可欠だ。
古代ローマは、都市の建設には成功したものの、衰退期にそれを維持できなくなり、滅んでしまったと言われる。

「将来にわたって持続可能な社会にしていくためには、それを支える私たちの技術・サービス、さらに私たち日立自身も持続可能な存在であることが求められます。それを実現するのがLumadaですが、運用・更新していく人たちの世代交代も含めて、サステナビリティということを最優先に考えたシステムとして作っていかなければなりません。」

岩嵜さんの展望の大きさに、創業者小平浪平の「人生百年に満たざれど、千年後を憂う」という言葉を思い出す。

だがその難題に向きあい続けることは、到底一人ではできない。
それを担う若い世代が育ってくれることが、唯一の可能性だ。

「今までは何でも自分でやりすぎたという反省もあります。近頃は自分で解答を書かず、若手にやらせてみるんですよ。すると、自分が思い描いていたものとは違う解を持ってくる者がいる。そういうことが大切だし素晴らしいと、頼もしく思っています。」

岩嵜さんが取り組んできた仕事
1983〜1986 並列推論マシン(国家プロジェクト:第5世代コンピューター)
当時は第5世代ブームで、並列推論マシン向けのConcurrent Prolog処理系の開発に従事。
1987〜1989 メインフレーム(銀行オンライン, 密結合マルチプロセッサー)
大手銀行・証券向けのマルチプロセッサー型オンラインシステムの開発プロジェクトに参加。性能低下の原因となっていた排他制御論理の不良を究明、対策案を提案し、当該プロジェクトを成功に導いた。
1989〜1991 分散並列OS “Orion”
超並列計算機開発の助走段階として、分散並列OSの原理検証と人材育成を目的に、基本ソフトウェアのプロトタイピングを実施。
1990〜1994 超並列計算機SR2201(筑波大CP-PACS)
日立初の分散メモリ型並列マシンの開発プロジェクトでOS開発を担当。当時、最先端のOSであったMachマイクロカーネル・ベースのOSF-1/MK-ADを採用し、世界初のリモートDMA方式を提案し製品化。同マシンは1996年の年間を通して、世界最高速となった。
1994〜2000 連続メディア処理向けOS - Tactix(ゼロからの新OS開発)
上記の超並列計算機プロジェクトで採用したマイクロカーネル方式OSの課題に着眼し、当時、学会・業界の主流であった同方式に異を唱えるマルチメディア処理向けOSの研究開発を提案。当時不可能と考えられていたイーサネット上での高品質ビデオの多チャンネル同時転送を可能とするなど、世界最先端の技術開発に成功。この時期の研究成果を博士論文にまとめ、2008年に学位取得。
2000〜2002 インターネット・データセンターの設計・構築・運用
ビジネス向けのインターネット事業を担う新会社(日立ネットビジネス)の立ち上げ要員として2年間の派遣。ここで、インターネット総研や伊藤忠テクノ・サイエンスの協力を得ながら、データセンター(DC)事業立ち上げを経験。また、ソフトウェアによるDC運用自動化(現在のSoftware Defined Data Centerにつながる)の潮流を把握。また、ラック社の協力を得ながら、ネットワークセキュリティの実践経験を積む。
2002〜2011 ファイルストレージ(NAS)
新設されたストレージ研究部の部長として、NASの開発に取り組む。
2012〜 クラウド・サービス・プラットフォーム
クラウドコンピューティングを中心とする新技術潮流の台頭、および、IT製品中心のSIソリューション事業終焉の兆候に危機感を強くし、研究対象領域を製品プラットフォームからサービス・プラットフォームへシフトし、現在に至る。
岩嵜さんに聞く、「変化を歩む極意」
人間の本質を鑑み、
今・未来の社会課題に対し何ができるのか。
自ら考え、手掛かりを蓄積させていく。

性能を競争する時代は終わりました。技術は世の中を良くしていくもの。だからこそ技術で何をしていくべきか、その何か=世の中の課題を、自ら探していく必要があります。

目の前の仕事や課題しか見えていないのは危惧すべき状態。ニュースや本などから他者の経験や意見を取り入れ、物事をいろいろな角度から見ることが大切です。

私はSFが好きでよく読んでいます。突拍子もないことが描かれていますが、描かれている人間の姿や本質はローマ時代の叙事詩や中世の文学作品と変わりません。世の中の出来事や課題は人間が引き起こすもの、しかもSFに描かれたほとんどは現実になっています。SFで描かれたような社会になったとき、人間の本質から問題をどのように考えていくべきか。その発想を得ています。ニュースも同じような視点で見ています。

このように人間の本質を鑑みながら、さまざまな情報リソースを蓄積させ、社会で起こっていることと技術をパターンマッチングさせていく。するとこの課題にはこの技術がマッチすると閃いてくる。そして「これって、おもしろい!」って思ったら……やりたくなるわけです。