日立評論

計測技術が切り拓く最先端科学

物理学・バイオテクノロジーを発展に導くオープンイノベーション

ページの本文へ

Hitachi

日立評論

COVER STORY:ACTIVITIES

計測技術が切り拓く最先端科学

物理学・バイオテクノロジーを発展に導くオープンイノベーション

ハイライト

最先端の科学研究は,研究対象を可視化する高度な計測技術と関わりが深く,計測技術の発展が,科学史に残る重要な発見や新たな研究領域の開拓を支えてきたとも言える。

日立は,1989年に物理学やバイオテクノロジーの研究において世界を牽引するケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所内に研究所を設立し,約30年に及ぶ協力関係を築いてきた。産学連携のオープンイノベーションにより,基礎研究における多くの成果を挙げているが,その基盤に高度な計測技術があることは言うまでもない。

今回,キャベンディッシュ研究所のAndy Parker所長を訪ね,常に時代を切り拓いてきた同研究所の先端研究と計測技術の関わり,日立とのパートナーシップ,そして,未来を見据えた研究ビジョンについて聞いた。

目次

膨大なノイズの中から信号を検出

Andy Parker
ケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所所長,粒子物理学博士。弱い相互作用の特性を探る陽子反陽子衝突実験に先駆け,ニュートリノビームを用いて陽子の構造を探索。6年間にわたり,CERN(欧州原子核研究機構)にてLHC(Large Hadron Collider:大型ハドロン衝突型加速器)におけるATLAS検出器の粒子追跡システムのプロジェクトリーダーを務める。1989年,ケンブリッジ大学に拠点を移し,英国が主導するATLASのエレクトロニクス構築プロジェクトを率いた。大学間をまたぐ学際的プロジェクトをビッグデータ活用により支援する同大学eScience Centerのディレクターを兼任。研究分野は,物質の構造とその相互作用を含めた粒子物理学の「標準モデル」の根底の理解であり,超対称性粒子がLHCで検出できるという予測の検証と,マイクロブラックホールに関わる余剰次元理論に焦点を当てる。医療・セキュリティの分野への粒子物理学技術の導入に向け,多数のプロジェクトを手掛ける。2013年よりケンブリッジ大学物理学部長。間もなく着工するキャベンディッシュIIIの開発・建設責任者を務める。Ahren Innovation Capitalのサイエンスパートナー。

計測技術にはさまざまな種類がありますが,いずれも対象物を可視化するためには欠かせない技術であり,先端科学には高度な計測技術が不可欠となっています。私自身は,20年以上にわたってICT(Information and Communication Technology)ソリューションに関する研究に携わり,最近はIoT(Internet of Things)などのデジタル技術を活用した産業分野の最適化に取り組んでいます。デジタル技術による最適化において重要なのは,現実世界を数値として可視化し,把握して,モデル化することで,そのためにも計測技術は欠かせません。Parker先生のご専門分野でも計測技術は極めて重要だと思いますが。

Parkerそうですね。私の専門は素粒子物理学です。研究者としてのスタート地点はスイスのジュネーブにあるCERN(欧州原子核研究機構)で,ニュートリノ物理学を研究していました。今,後ろの壁に掛けてあるのは,泡箱によるニュートリノビームの写真です。ニュートリノ研究は,飛跡を観測するための計測技術とともに発展してきました。この泡箱による観察法はごく初期のもので,何千枚もの画像を1枚1枚手作業で調べるという,大変な労力と時間がかかっていました。

その後,ケンブリッジ大学に異動してきてから,LHC(Large Hadron Collider:大型ハドロン衝突型加速器)のATLAS(A Toroidal LHC Apparatus)実験に携わり,検出システムの開発責任者となりました。ATLAS検出器は,LHCで加速された2本の陽子ビームを衝突させ,発生する粒子を精密に測定する実験装置です。衝突点からは何千もの粒子が発生し,測定は25ナノ秒間で行わなければなりません。最終的に検出デバイスとそれを補助するエレクトロニクス技術が完成するまでに,約6年かかりました。

ATLASは現在に至るまでずっとCERNで使用されていますが,検出器はそれだけで価値を持つわけではなく,背後にサイエンスがあってこそ役立つものです。例えば,ヒッグス粒子の発見はその代表例です。このときのS/N(Signal-noise)比は10-10で,膨大なノイズの中から意味のある信号を見つけ出すことが求められました。かつての泡箱写真ではとても対応しきれなかったでしょう。

精密な検出が可能になるということは,検出できる信号の中にノイズも多く含まれるようになり,目的のものを特定することが難しくなるわけですね。

Parkerそのとおりです。ノイズの多い実験系で認識精度を向上する技術は極めて重要です。人間が重要なものとそれ以外のものを見極め,コンピュータに正しい例をパターン認識させ,ノイズから信号を取り出すように学習させます。地道ですが,計測技術の進歩には欠かせないことです。

物理学と生物学・医学を融合する新たな領域

[聞き手]
森 正勝
日立製作所 研究開発グループ 欧州社会イノベーション協創センタ センタ長 兼 Hitachi Europe Ltd., CTO
1994年日立製作所入社。先端ICTを活用した新ソリューション研究,生産技術研究,研究戦略立案などを担当し,2003年から2004年までUniversity of California, San Diego客員研究員を経て2018年より現職。欧州地域における研究開発取りまとめとして,社会イノベーション事業創生,先端技術研究開発に従事。情報処理学会,計測自動制御学会会員。

キャベンディッシュ研究所は物理学発祥の地として世界的に知られ,ノーベル賞受賞者も数多く輩出されていますね。

Parkerキャベンディッシュ研究所はもともと,基礎物理学というよりも産業に貢献する目的で設立されたため,常に社会の役に立つ発見をめざして研究を行ってきました。初代所長で電磁気学の祖と言われるジェームズ・クラーク・マクスウェルが定式化したマクスウェル方程式は,数え切れないほど多くの技術のベースとなっています。

ノーベル賞受賞者は2012年までに29名を数えます。その中には,電子を発見したジョゼフ・ジョン・トムソン,原子物理学を確立したアーネスト・ラザフォード,中性子を発見したジェームズ・チャドウィックなど,物理学の基礎を築いた科学者が含まれます。チャールズ・ウィルソンの発明した霧箱は,多くの検出システムの原点となりました。フランシス・クリックとジェームズ・ワトソンらによるDNA(Deoxyribonucleic Acid)二重らせん構造の発見も有名ですが,これは現在も広く用いられる分析技術の一つであるX線回折法を利用した構造解析によるものでした。

キャベンディッシュ研究所の歴史を振り返ると,物理学があらゆる学問領域に影響を及ぼし,産業の基礎となってきたことが分かります。2008年には,新たな研究領域としてPhysics of medicine(医学物理学)を設置されましたが,これはどのような目的からでしょうか。

Parkerキャベンディッシュ研究所では常に,一般的な学問の境界を越えた研究を行っています。Physics of medicineもその一つで,物理学と生物学や医学という異なる学問領域を融合・連携する研究です。

生物学や医学をさらに発展させるには,生体内において分子レベルで起きていることを,動的に観察し計測できるようにしなければなりません。物理学で用いられる計測技術は,生物学的プロセスに対しても高い有用性を発揮します。例えば,ラマン分光分析やマイクロ流体力学などを生体システムに適用すれば,生物学的プロセスを正確かつ効率よく測定することができます。理想はin vivo(生体内)で計測できるようにすることで,実際にそうした技術がいくつか実現され始めています。

このように物理学の計測技術を生物学の問題に応用することが,Physics of medicineの目的の一つです。また逆に,生体システムから物理学の新しい知見を得ることも期待しており,例えば,DNAを使ってナノスケールの構造体を形成するDNAオリガミや,高分子を利用したナノマシンなどを研究しています。ナノマシンは濃度に対する感受性が高く,目標とする場所に正確に届けることができます。また,ナノフォトニックデバイスは,生体内での1分子イメージングの実現に役立つかもしれません。DNAに作用する構造を作ることによって,新しい細胞を作製するなど,さまざまな可能性が開けてきます。

ケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所と研究活動の展示室Cavendish Laboratory, University of Cambridge

30年にわたって築いてきた信頼関係

連携という意味では,学問分野だけでなく組織の壁を越えたつながりも重要です。キャベンディッシュ研究所には,日立が基礎研究を推進する目的で1989年に設立した日立ケンブリッジ研究所(HCL:Hitachi Cambridge Laboratory)があり,約30年にわたるご支援を頂いています。この場をお借りして感謝申し上げます。

Parkerこちらこそ,研究の発展をお手伝いできてうれしく思います。

主な研究領域は量子コンピュータ,スピントロニクス,ナノフォトニクスなどで,現在,新しい領域も探索しています。キャベンディッシュ研究所との連携研究では,それぞれの得意な分野を融合させ,積極的にディスカッションを重ねる機会を設けることで,新しいアイデアや研究成果を生み出してきました。学生たちの存在も私たちにとって非常に大切であり,日立とケンブリッジ大学は産学連携の見本となるような協力関係を築くことができています。その成果は,『Nature』や『Physical Review』などの権威あるジャーナルに掲載された数々の論文が示しています。こうしたHCLの活動について,どのようにご覧になっていますか。

Parker産学連携はとても重要です。大学の研究活動は,社会から孤立したものや,企業の真のニーズから離れたものであってはいけないからです。私は,ケンブリッジに集まってくる優秀な学生たちに,現実から離れて実験室の片隅に座っているだけでいてほしくありません。学生の頃から企業と関わりを持ち,基礎研究から社会への応用までに何が起きているのかを実際に見ることは,とても価値があると考えています。

今日の学問では研究領域の細分化・専門化が進んでいます。一方で,社会課題もまた複雑化・多様化していることから,解決に向けて研究ノウハウ,技術,人財など,あらゆる面で広範なリソースが必要になっています。そのため,企業と大学,さらにはさまざまな関係者が連携して新しい技術やアイデアを生み出すオープンイノベーションの重要性が高まっています。ケンブリッジ大学と日立の継続的なパートナーシップの象徴であるHCLは,日立の研究開発部門が進めるオープンイノベーションの先進事例と言えますが,大学側からHCLあるいは日立グループへのご期待やご要望があれば,お聞かせいただけますか。

Parker私たちもオープンイノベーションの重要性は認識しています。先ほど言った学問分野の壁を取り払うことも,そのための取り組みの一つです。また,多くの提携企業の研究者との知の交流を促進するため,物理学における産学連携の拠点となるマクスウェルセンターを建設しました。

日立との30年にわたる協力関係は特別のものであると思っています。インターネットがこれだけ発展しても,実際に人が顔を合わせて議論する場が重要であることには変わりありません。大学のキャンパス内に研究所があることは,オープンイノベーションの大きな機会となります。

私の経験から言うと,オープンイノベーションの最大の障壁は知的所有権なのですが,信じられないことに日立との間では一度もそれに関わる問題が起きたことがありません。ケンブリッジ大学が革新的な研究に適した場所であるとされる理由の一つは,知的所有権に関する自由度が高いことです。私たちにとって重要なのは,社会で広く使われ,社会に貢献する発明です。せっかくの発明が金庫の中の数ページの書類によって使用できないことになるのは最悪の事態です。企業と大学がよく話し合うことで,こうした事態は避けられるでしょう。人と人との交流を通じて,互いの公正な立場を尊重する。こうした信頼関係を長く続けることはとても大切です。今後も,キャベンディッシュ研究所とHCLが協力して新たに開拓できる研究分野は数多くあると期待しています。

多くの学生が活躍する日立ケンブリッジ研究所

科学と技術の革新を牽引する計測技術

これからも一緒に社会に役立つ研究をめざしていきたいですね。最後に,計測技術に関わる今後の研究ビジョンをお聞かせください。

Parkerまず計測技術に関して,私たちの研究テーマの大部分は基礎物理学に関連しています。いくつか例を挙げると,天文学では,宇宙の果てからきた1個の光子を計測し特性を決定するという,信じられないような研究を行っています。この分野で今後手がけていきたい研究テーマとしては,宇宙の起源の解明につながると期待される,宇宙マイクロ波背景放射の偏光観測も挙げられます。もっと日常生活に近いものには,量子計測があります。これは,スピントロニクスデバイスを制御する単原子や単一電子といった単一粒子の特性を計測する技術で,最終的には量子コンピュータにつながります。信頼性のある量子システムを構築することは簡単ではありませんが,私たちは,さまざまな半導体システムやレーザー光学を利用した量子ドット関連の研究なども行い,要素技術の開発に取り組んでいます。

生物学という切り口では,さきほど言ったようにin vivo での計測システムが必要です。生体システムは,さまざまな分子の複雑な相互作用によって成り立っています。例えば,生命活動を司る重要な原理の一つに,細胞内の化学物質の濃度勾配があります。これは動的な現象であるため,解明するためには,生体中にごくわずかな濃度で含まれる特定の物質を,生命活動を妨害することなく連続的に計測しなければなりません。それには,PET(Positron Emission Tomography:陽電子放射断層撮影),SPECT(Single Photon Emission Computed Tomography:単一光子放射断層撮影),MRI(Magnetic Resonance Imaging:磁気共鳴画像)のほか,最近注目されている単分子計測など,体外から生体を計測する技術を駆使する必要があります。赤外レーザー,超音波といったデバイスも併せて活用することで,生命現象を動的に計測することが可能になると考えています。また,動的な計測技術を今日の進歩した遺伝子操作技術と組み合わせることにより,新しい可能性も開けるでしょう。遺伝子操作が細胞レベルだけでなく全身に対してどのように作用するかを計測できるようになれば,遺伝子治療の発展にもつながります。

何か新しい発見をめざすとき,これまでよりも精密で正確な計測技術が必要となり,そのためには物理学などの新しい知見を反映した,より高度な技術が必要となる。つまり,計測技術が科学と技術の革新を牽引していると言えますね。

Parkerそう思います。新しい発見は新しい技術によってもたらされます。先ほど挙げたキャベンディッシュ研究所での成功例のほとんどは,まず先に計測技術の進歩があって成し遂げられました。

日立グループは社会イノベーション事業を通じて,さまざまな社会課題を解決したいと考えています。現実の社会が直面する問題を把握するためにも計測技術は重要であり,その発展をめざした研究を重ねる必要があると思っています。

それからもう1つ,新しい施設であるキャベンディッシュIIIについてもお聞かせください。2021年か2022年に完成する計画と伺っていますが。

Parkerはい,とても楽しみなプロジェクトで,建設作業はもう始まっています。およそ2,000人が収容でき,年間800〜900名の学部学生が,理論だけでなく実験技術や計測技術についても学ぶ施設となります。公共スペースには,講義室や研究に関する展示室などのほか,コミュニケーションに欠かせない,広いコーヒールームがあります。研究棟は複数に分かれ,各分野の研究室を集約します。例えば,低温物理学や低温計測関連の研究室,レーザー光学の計測設備,またクリーンルームは,無機電子工学用,有機電子工学用,検出機器などのアセンブリ用にそれぞれ用意します。物理学,化学,光工学などの一般実験室,さらにはケンブリッジの必需品である自転車のために,広大な駐輪場も設けます。

このプロジェクトは英国政府から7,500万ポンドの投資を受けており,英国内のすべての大学が,この中にあるすべての設備を使用できる決まりになっています。物理学のコミュニティを広げ,大学や企業のチャンスを拡大することで,受けた投資を社会に還元していかなければなりません。

新しい物理学の聖地が完成することを楽しみにしています。本日はありがとうございました。

Adobe Readerのダウンロード
PDF形式のファイルをご覧になるには、Adobe Systems Incorporated (アドビシステムズ社)のAdobe® Reader®が必要です。