ページの本文へ

Hitachi
お問い合わせお問い合わせ

脱炭素化に向けた英国の取り組み

Professor Mary RyanProfessor Mary Ryan
Imperial College , Vice-Provost (Research and Education)
インペリアル・カレッジ・ロンドン教授。専門は材料工学ならびにナノテクノロジー。ナノスケール材料と,それらの材料内および環境間におけるナノスケール境界に関する学際的グループを率いる。オペランドアプローチの開発に精通し,シンクロトロン分野のナノスケール手法を開拓してきた。インペリアル・カレッジ・ロンドンと日立製作所の脱炭素化および自然気候ソリューションに関する共同研究センターのディレクターを務める。2015年,英国Royal Academy of Engineeringフェローに選出。Institute of Materials, Minerals & MiningおよびInstitute of Corrosionフェロー。Royal Society Armourers & Brasiers材料科学部門委員長。同分野での貢献により,CBE(大英帝国勲章,コマンダー)を授与された。

多くの国や地域が2050年あるいは2060年までのゼロカーボン,あるいは,カーボンニュートラルを達成すると宣言しています。欧州諸国は長年にわたって環境問題の重要性を主張し,具体的な政策やカーボンニュートラルのための資金提供スキームなどを通じて世界の脱炭素化をリードしてきました。カーボンニュートラルを実現するうえで重要なポイントはどこにあるのでしょうか。また,欧州の島国である英国の取り組みについて教えてください。

カーボンニュートラルという大きな目標の達成に向けて,欧州諸国はさまざまな政策や法律を定め,具体的な取り組みを続けています。しかし,2050年のカーボンニュートラル達成への道のりは複雑で,一つの方法ですべてを解決できるわけではありません。それぞれの国によっても戦略は大きく異なり,例えばドイツは太陽光に注力していますし,フランスはかねてより原子力に力を入れています。英国は島国ですので,洋上風力を活用しています。この洋上風力発電の規模は過去10年間に非常に大きくなり,現在,英国の配電網における洋上風力由来の電力は全体の50%に到達しました。これは大きな進歩ですが,カーボンニュートラル達成に向けてはまだ不十分であり,さらなる取り組みが求められます。

また,英国の配電網に供給される電力のうち約15%は原子力発電によるものですが,既存の原子力発電所が寿命を迎えようとしている中,安定的なエネルギー供給のために原子力発電所の新設が必要か否かについて現在議論されているところです。さらに,100%再生可能エネルギーへの移行にあたっては,配電インフラ(グリッド)の大幅なアップグレードが必要で,これも大きな課題となっています。これに対し,Imperial College LondonはG-PST(Global Power Systems Transformation Consortium)※)の一員として取り組んでいます。

2023年1月に英国の元エネルギー担当相Chris Skidmore氏が発表したMISSION ZERO - Independent Review of Net Zeroの中では,私たちが今後対応していかなければならない英国固有のさまざまな技術的課題が挙げられ,トランジション推進に向けた政策が提言されています。例えばビジネスの観点では,規制面を考慮しながら技術を開発・展開していくうえで,企業にはどのような計画が求められるのか,市民生活に関わるところでは,新築住宅にどのような基準を定め,既存住宅をどのように改修していくのか,というように,トランジションを支援する政策・枠組みについて言及しているほか,太陽光による電化,CCS(Carbon Capture and Storage)の活用,自然エネルギーの活用といった技術的優先課題についても触れられています。供給面では輸送,熱供給・暖房の完全電化も盛り込まれていますが,中にはどのようにして水素ベースの経済に移行するのか,といった問題もあります。また需要側については,いかに需要を抑えてシステムの効率を高めるかも課題です。

脱炭素社会の実現に向けてはこのようにさまざまな課題がありますが,脱炭素化の最終段階ではやはり何らかの形でCCSを活用することが必要で,炭素回収・貯留技術の進展が求められるでしょう。カーボンニュートラルな社会への移行を実現するには技術開発とイノベーションを加速し,地域社会を巻き込んで進めていく必要がありますが,そのためにはグローバル,かつ適切な資金供与やインセンティブも必要です。

英国の脱炭素化政策は産業における熱利用と住宅における暖房の需要に重点を置いていますが,具体的にはどのような取り組みが行われているのでしょうか。

ウクライナでの戦争を受けてガスの価格が劇的に上昇し,国内の光熱費が高騰する中で,熱利用を行ううえではエネルギー安全保障や燃料の貧困(Fuel Poverty)という政治的な視点が求められるようになりました。英国には,断熱性が低く熱効率の悪い家屋が多くありますが,こうした住宅で暖房のために広く利用されているのがガスボイラーです。これは脱炭素化を実現するうえで優先的に解決しなければならない重要な課題の一つであり,過去10年間にわたって住宅の断熱性改善のためのさまざまな施策が行われてきましたが,効果は限定的でした。これに対する一つの解として考えられているのが,ヒートポンプの活用です。ガスボイラーからよりエネルギー消費の少ないヒートポンプへの移行により,現在の住環境を維持しつつ,人々の生活とエネルギー需要の双方の改善が期待できます。英国政府は,より低いコストでヒートポンプを導入できるように支援を行っていますが,ヒートポンプ普及には大きな課題が二つあります。一つは,一般的に導入コストがガスボイラーに比べて高額であること。もう一つは,ヒートポンプの設置とメンテナンスに対応できる人財が不足しているということです。これに対し,民間のエネルギー企業では技能訓練に力を入れるなどして,ヒートポンプの導入費用をガスボイラーと同等に抑えるための取り組みが進められています。今後,新規の住宅建設に際してはガスボイラーを設置してはならないというふうに規制が設けられることで,新築住宅からヒートポンプへの移行が始まるのではないかと期待しています。

また,賃貸住宅を誰の責任で,誰の負担で変えていくのかということも議論の的になっています。これは社会・政治・経済にまたがる課題であり,カーボンニュートラルに向けた公平なトランジションのために政府,民間企業,個人の役割がそれぞれどうあるべきかということを,国民一人ひとりが考えなければなりません。なお,暖房用の水素の活用も議論はされていますが,これについては技術的・政策的な枠組みがまだ十分整っていないため,より長期的なスパンで取り組む必要があります。

また,産業における熱利用については,水素の活用や,鉄鋼生産のような重工業のCO2排出負荷をオフセットするCCSの活用拡大といった技術の革新が必要になるでしょう。

※)
システムオペレータやメーカー,電力事業者,標準化組織,研究機関などの知識を結集し,100%再生可能エネルギーによる世界の送電網の稼働をめざすコンソーシアム。

持続可能な社会のために今のあり方を問い直す

持続可能な社会の実現に向けては,CO2の排出削減だけでなく,生物多様性,フードロスの削減,教育といったさまざまな課題についても取り組んでいかなければならないとされています。こうした取り組みを進めていくうえで,今後,重要となるポイントは何でしょうか。

Imperial College Londonでは,Imperial Zero Pollution Initiativeという枠組みの下,炭素だけにフォーカスするのではなく,より広範な環境分野の問題を捉えるために研究・教育のあり方を変えていこうとしています。気候変動,生物多様性の損失,化学物質による汚染という地球環境の三大危機に立ち向かうためには,こうした課題を相互依存関係に着目した総合的なフレームワークで捉える,システム思考が必要です。その一環として,何を選択するのか,その選択によってどんな影響が生じるのかを常に考える必要があります。

例えば,ガソリン車を廃止してEV(Electric Vehicle)を利用するようになると,リチウム,コバルトの採掘により,世界のどこか別の場所で発生する汚染はどうなるのか。道路の利用とタイヤから発生する微粒子の問題はどうか。環境や人々の健康にどのような影響があるのか。大切なのは,移行にあたって本来意図しなかった影響が出る可能性を考慮することです。システム全体を捉えずに排気ガスやCO2排出量の削減だけを考えていると,別の形で環境を破壊する恐れがあるのです。

また,新技術の活用にあたって必要となるさまざまな資源の循環性についても課題があります。真にサステナブルな社会を実現するためには,限りある資源の利用,再利用を真剣に考えなければなりません。どのように資源のリサイクルを行い,社会の行動を変えていくかが重要です。

システムの中には必ず人間がいるということも,忘れてはならないポイントです。新技術の導入を検討するうえでは,人がその技術をどう受け入れるのか,受け入れないのか,個人あるいは集団としてどう関わっていくのかということが非常に重要です。持続可能で公平な脱炭素社会を実現するためには,社会全体の参画が必要不可欠だからです。

サステナブルな経済成長に向けては,従来の消費型経済的な個人・国家の行動をシフトさせ,環境汚染に対する個人,企業,国家の責任,そして成長のあり方を考え直す必要があります。

私たちの世界にはさまざまな課題が山積していますが,こうした課題は違う未来を構築するチャンスと捉え直すことができます。住みやすくクリーンな都市や,サステナブルでセキュアなエネルギーシステムをつくるために,すべてを考え直し,変えていく。それは,未来を設計するということに他なりません。その過程には破壊的な創造もあるかもしれませんが,それが最終的には人々のより健康で豊かな生活と,環境の保護につながると期待しています。

現在のことを考えるだけではなく,未来を見据えて循環経済・循環するビジネスを生み出し,真に持続可能な世界を実現していく必要があるということですね。本日はありがとうございました。