2023年3月29日
デジタル技術の発達やビジネスのグローバル化,それに伴う企業活動の多国籍化を背景に,技術開発に携わるエンジニア・研究者にも分野を超えた幅広い視野と柔軟な思考が求められている。その中でも特に欠かせないのは,今日の社会のあり方から私たちの生活の隅々に至るまで,絶えずさまざまな変化をもたらし,大きな影響を与えている科学・技術なるものの本質を俯瞰的にとらえる視座であろう。
本連載では,リベラルアーツ研究家として多彩な啓発活動を展開している麻生川静男氏が,古代から近代へと至る世界の科学・技術史をひも解きながら,これからのイノベーションへの手がかりを探っていく。
日本で理解されている科学・技術史はひと言でいえば16世紀以降の近世ヨーロッパの科学・技術史だ。この時代には,ダ・ヴィンチ,ガリレオ,ニュートンなどの有名な科学者や技術者の名前が登場してくる。それ以前の科学者・技術者に関して知られている人は,ユークリッド,アルキメデスなどごく少数だ。理系の人間であっても古代や中世に関する科学・技術には知識も関心も持たない人間が多い。ただ,これは無理からぬところで,ごく最近に至るまで日本全体が古代や中世の科学技術に対して無関心であったからだ。
科学史研究の大御所である伊東俊太郎氏の『近代科学の源流』は1978年に出版されたが,はしがきには次のような文句が見える。
「従来の科学史の通常の叙述様式は,たいてい,ギリシアから一挙にルネサンスにとんでしまい,その間はいわゆる『暗黒時代』として無視されるか,せいぜい手短な消極的言及がなされるにとどまりました。(中略)西欧科学の性格を知るためには,単に,いわゆる『科学革命』以後の西欧科学をとりあげるだけでは不充分であるということです。」
伊東氏が指摘するように,日本ではほぼ17世紀の「科学革命」以降の西欧の科学技術だけが科学史として取り上げられるにすぎない。伊東氏は上の言葉に続いて古代の科学を知る必要性について次のように強調する。
「われわれが現在,当然の所与として扱っている西欧科学は,じつのところ,さらに幾世紀も遡ってギリシアやアラビアの知識の恩恵を受けながら,キリスト教西欧文化のなかで徐々に懐胎し発展してきたものなのです。それゆえ近代西欧科学の伝統や本質を根本的に知るためにはこうした源流にまで遡ることが必要と思われます。」
つまり,現代の科学・技術を深く知ろうとすれば,次の3点はぜひとも押さえておかないといけないということだ。
今回の連載では,科学・技術の発展をヨーロッパ古代のギリシャ,ローマ・ヘレニズムから始まり,イスラム(アラブ)を紹介した。伊東氏のいう(1),(2)を押さえたわけだ。ただ,(3)のヨーロッパの中世以降の発展や,日本やインド・東南アジアなどについては別の機会に紹介したい。
本稿では,いささか性急ではあるが,科学・技術発展および衰退の要因を探り,今後の日本の科学・技術の発展のために必要な要因を挙げてみたい。
イスラムは8世紀以降,ギリシャ科学の精華を引き継ぎ,世界最高の科学を誇った。しかるに,11世紀ごろから次第に力を失ってしまった。逆にヨーロッパは11世紀以降スペインやシシリー島でイスラム文化を吸収し,科学レベルを急速に伸長させて,近代科学文明を築いた。この経緯を見ると,科学の発展にはギリシャの科学精神(具体的には「原理・法則の追求」と健全な懐疑心)の受容と宗教から制約を受けないこと,つまり政教分離が必要だと分かる。
ギリシャ科学がシリアでシリア語に,またペルシャではペルシャ語に翻訳され,最終的にアラビア語に翻訳されたことでイスラム科学の基礎ができた。同様に,後にヨーロッパに科学が再興されたのも,やはりギリシャ科学がアラビア語からラテン語に翻訳されたことを契機とする。
その後,イスラム圏ではギリシャの文物に対する好奇心よりも宗教の力が勝ってきたために,イスラムの教えに反する思想は異端として排撃され,思想の自由が奪われ,科学が衰退した。これと同様のことは同じ一神教のキリスト教を信奉するヨーロッパにも起こったが,ヨーロッパはイスラムと異なり,12世紀にギリシャ思想が復活して以降,政教分離の世俗政権のおかげで「健全な懐疑心」が宗教の抑圧に屈することはなかった。このことから,科学興隆の大きな要因の一つが古代ギリシャ文明に源泉を持つ「健全な懐疑心」にあることが分かる。
ヨーロッパの科学技術史をみると,古代は地中海周辺の国々に技術が栄えたが,ルネッサンス以降,イタリアを除いてはまったく見る影もなくなった。スペイン・ポルトガルと南米のブロックと,北部および中央ヨーロッパと北米のブロックの二つを比較してみよう。南米はスペインやポルトガルの伝統を引き継ぎ,科学や工学・農学のような技術を修めた人よりも法学を修めた人の方が社会的地位は高いといわれる。このような社会的風潮が結果的に科学や技術の発展を阻害したといえるだろう。結局科学の発展という観点から「手作業を軽視する文化に科学の発展はない!」と結論づけられる。
同様に,東洋の科学が停滞した原因の一つは,手作業や肉体労働を卑しんだことにある。例えばアラブでは,サニア・ハマディの『アラブ人の気質と性格』によると「手作業は蔑視され,伝統ある家庭では,卑しい仕事に従事して恥をさらすより,餓死した方がましと考えられている」とのことだ。
結局,これらの国々では観念重視・文字重視の立場から,詩文,法律を学ぶことが至高の学問と考えた結果,実証科学より,観念論・思弁を崇拝する伝統を形成し,その影響が現代にまで及んでいる。具体的には,イスラム社会においては,イスラム法学,インドにおいてはヴェーダ,中国・朝鮮においては朱子学が権威としてこの上なく崇められた。結局,権威重視,手作業軽視の社会では,実証主義的な科学精神が萎えてしまい,ついには技術も衰えた。
図1|『文明のなかの博物学』西村三郎 出典: http://mozubooks.com/?pid=102455294
科学や技術というのは,各文化圏や民族で発展の度合いがかなり異なっている。例えば,水,風はどこにでもあるが,それをどう捉えるか,という点に民族性が現れる。日本のように風流として捉えるか,西洋やイスラムのようにエネルギー源として捉えるかの差は大きい。科学・技術史的観点から日本の特性は「日本人は理念だけの議論は苦手で,常に実物ベースで議論する」といえる。つまり,日本では論理性の高い科学は発展しなかったが,実物ベースの技術は発展した(参照:『文明のなかの博物学』西村三郎)。
またもう一つの特徴としては,日本人の価値観と異なるものに対する適応性が低いということが挙げられる。中国人はアヒルやアリを上手に利用して生産性を高めていることを紹介した。同じような発想で,中近東や西洋では牧羊犬を上手に仕込んで家畜獣の管理に関する人間の手間を省いている。中国人や西洋人は動物の性質をよく理解してそれを利用する技術に長けている。日本は,動物だけでなく,朝鮮や東南アジアで失敗したように異民族統治も上手ではない。日本人の価値観が彼らにも通用すると過信したところに失敗の原因がある(台湾統治は成功したといわれる。確かに日本が善政を敷いたことは客観的事実としてはあるものの,当時の台湾人の中には日本統治に対する反発は根強くあったといわれる。その後,中華人民共和国成立後に大陸から逃亡してきた蒋介石の率いる外省人の統治があまりにも酷かったのでそれとの比較で日本が高く評価された,と考えた方が妥当ではないだろうか。)。
日本人は価値観の異なる民族とどう付き合っていくか,これが今後の日本が解決すべき課題の一つとなるはずだ。
図2|インプレス社 IT Leaders 「麻生川静男の欧州ビジネスITトレンド」 出典:https://it.impress.co.jp/category/c320063
第一章Part1では,「4.科学・技術史を学ぶ意義」で語学学習の必要性を次のように指摘した。
「本当の意味で世界のグローバル企業に成長するためには英語以外の語学(ドイツ語,フランス語,中国語,など)ができるエンジニアの育成が必要ということを理解する。」
現在のグローバル環境で,どうして英語だけでは不足するのか,私の考えでは次の三つの理由がある。初めの二つは,企業としての観点から,最後の一つは個人の観点からだ。
現在,多くの大学では,第二外国語は必修科目ではなくなっている。これにより,学生時代に英語以外の外国語を修得する機会がほぼなくなってしまった。しかし,ビジネス的にみれば逆にますます英語以外の外国語の修得のニーズは高まっている。とりわけ,今や日立グループ(以下,日立)はABBやGlobalLogicのような欧米の名門企業を買収し,熾烈なグローバル競争に自ら乗り込んでいる。この時,SiemensやPhilipsなどのヨーロッパに本拠を置くコングロマリット企業と決定的に違うのは,日立では,英語以外の言語,具体的にはドイツ語,フランス語(それに加えて,イタリア語,スペイン語)ができる幹部社員やエンジニアが極端に少ないことである。確かに仕事を進めていくうえで,「英語ができれば十分」と考えるかもしれないが,これは正しくない。
とりわけ買収したABBの配電部門はスイスのチューリヒに本社を置くので,現地(スイス)の公用語であるドイツ語とフランス語ができる社員の養成は必要だ。欧米のコングロマリット企業では,英語に加え,ドイツ語やフランス語でビジネスができるビジネスパーソンやエンジニアが数多く存在するので,英語以外の情報をいち早く入手できる。
現在,私はインプレス社のIT LeadersのWeb版に「麻生川静男の欧州ビジネスITトレンド」というコラムを連載している。IT関連情報と言えば,現在は圧倒的にアメリカの記事は多いが,私はドイツ語の記事を紹介している。当然のことながら,SAPやSiemensのような大企業はドイツ語だけでなく英語の記事も配信しているが,中小企業やローカルな話題はドイツ語だけでしか見られないような記事も多い。とりわけ,Industrie 4.0のようにドイツが主導している事項に関する記事では,ざっくりいって英語の記事はドイツ語の2割程度しかない。
現在は,自動翻訳ソフト(DeepL等)の助けを借りれば,読む労力はかなり省ける。また,オンラインの辞書も完備しているので,英語以外の言語を「ある程度」のレベルで修得することは,昔に比べるとかなり楽になった。つまり,英語が分かるレベルを10とすれば,ドイツ語やフランス語のようなヨーロッパ言語では2,あるいは3のレベルで原語による情報収集が可能となる。語学ドリルではなく,興味のある情報を読んで必要な外国語を修得してほしい。
しかし,企業として,また個人として一番外国語ができるありがたみを感じるのは,現地語を話すことによる人との交流ではないだろうか。私は学生時代,ドイツ語による留学試験に合格し,ドイツに留学できたおかげで,ドイツだけでなくヨーロッパ大陸におけるドイツ語の影響力の大きさをまざまざと体験することができた。またドイツの家庭にホームステイすることで,子どもに対する厳しい躾や,逆に子どもの強い自己主張に,ドイツ人の真の姿を知ることもできた。これらのことを考えると,確かに英語がドミナントな現在のグローバル社会では,功利的観点から英語以外の外国語を学ぶメリットが少ないのは事実だが,果たしてすべてを功利(メリット)から判断してよいのだろうか? 素晴らしい絵画を観たり,音楽を鑑賞したりすることには特段のメリットはないが,生活にうるおいを与えてくれる。それと同様,英語だけでなく,複数言語を学ぶと知的水準が広がり,精神的に豊かになれる。とりわけ,現地語ができることによる現地人との交流は,個人的にもまたビジネス的にも計り知れない恩恵をもたらす。
現代の日本では手を汚すことを「不潔,非衛生的」と忌避する意識が非常に強い。例えば,朝シャンや抗菌グッズなど極端な清潔好きの意識が日本全体に蔓延している。それだけでなく,街路樹や公園の樹木のみごとな枝ぶりが軒並み無惨に伐採されている。このような度を過ぎた清潔好き,日本的美意識に合わないものを排除しようとする意識が今後の日本の科学・技術の発展を阻害しているように思う。というのは,科学・技術というのは,ありのままの自然界の中での経験を通して進展するものなのに,そういう機会をことごとく奪ってしまっているからだ。
自然界のものだけでなく,人工物においても日本の現在の風潮は科学・技術の発展を阻害する。例えば,街中の自転車を見てみると,ざっとその三分の一はチェーンがさびていたり,スポークが緩んでいたり,タイヤの空気が足りていなかったりする,いわば欠陥車である。しかし,それでも乗り手は平気だ。こういう自転車に乗っていれば長持ちしないし,第一,走る効率もかなり悪いはずだ。それに気づかないというのは,機械に対してのいたわりの気持ちに欠けるからではないだろうか。当然,このような人の設計する機械は使い勝手がよくなさそうだと推測できる。
機械をいたわらず,修理しないということは,壊れたら,直ちに新品に取り替えるという発想が日本人の生活習慣として定着してしまっているからである。物に対する愛着があって初めて,修理するために必要なさまざまな技術的関心を持つことができる。例えば,接着するにはどのボンドがよいのか,同じ物がなければ代替品はないか,と探す。このような経験を積むことで,物質だけでなく,加工技術などの知識が増していく。これが最終的に国民全体の科学技術力を底上げする。現在社会の度を越した使い捨て文化や,遠隔地ですら翌日には荷物が届く宅配の過剰サービスなどはそういった経験をするチャンスをすべて奪ってしまっている。
アメリカでは現在も続々とイノベーターが育っている。その原因の一つは,アメリカの家に「ガレージ」があるからだと私は思う。日本人はガレージとは「車庫」と考えるが,アメリカで実際に暮らしてみるとガレージとは実は「工作室」だと分かる。ガレージには,必ず大工道具やペイント道具,はては万力,ガスバーナーまで一式がそろっていることすらある。日曜大工だけでなく,家を作ることも可能だ。実際,私がホームステイしていた家は何年もかけてゼロから自作したという。また別のホームステイ先では,住んでいる家の一部屋の天井をはがして数年がかりで自分たちで改造していた。
このように(中流以上の)アメリカ人の家庭には工作の道具が溢れている。一方,日本の平均的な家庭ではアメリカのように工作道具がそろっていることは極めて稀であろう。つまり,現在の日本では手作業で物を修理するという伝統がほとんどなくなってしまっているのだ。結局,この日米の環境の差,つまりガレージのあり/なしが,アメリカではイノベーターが続々と育つのに対して,日本では育たないという現状につながっていると私は考える。
世間では今後,日本の科学者・技術者を増やすにはSTEM(Science, Technology, Engineering and Mathematics)やDo-It-Yourselfのような素養が必要だというが,その前に生(ナマ)の自然界に触れ,自分で修理したりして人工物もいたわる気持ちを育てないといけない。残念ながら,現在の日本では手作業の重要性が顧みられることが少なく,実物に触れさせず,文字・視覚中心の教育をしているが,これでは最終的には工芸や技術,そして科学が衰退してしまうであろう。
科学・技術史というのは,科学的発見や技術的な発明の事項の羅列というのが通り相場であろう。しかし,何度も述べているように哲学・宗教・思想が科学・技術の進展に大きく関わっている。ニーダムは中国の科学・技術を論じる以前に,哲学や宗教のような思想面について綿密な調査をしている。内容的にはともかく,分量として,和訳されている11分冊のうち3冊が中国思想に関するものである。逆に考えると,われわれが西洋やイスラムの科学・技術を学ぶ時には,彼らの哲学や宗教についても調べる必要があるということになる。各文化圏の思想が科学・技術の発展/阻害に大きく関連するということに他ならない。実際,イスラム(アラブ)の科学者の中に哲学者あるいは医者を兼務している人もかなり多くいたことは本連載でも述べた。つまり,イスラム科学史を調べていくと必ず宗教(イスラム,キリスト教,ユダヤ教)との関連が登場してくる。残念ながら,現在の日本人にはこの観点が欠けているように思う。つまり,科学と宗教は「科学=物の学」,「宗教=心の学」というまったく別物であると考えてしまうのである。欧米やイスラムだけでなく,中国,朝鮮やインドの科学・技術史を学ぶ時には必ず思想面についても考察しなければいけない。
ところで,本連載では意図的に私の個人的学習経歴を書き入れた。これは,いろいろな本を読んだ結果,個人的な臭いのまったくしない,事実オンリーの文章よりも,人間の体臭が感じられるような方が印象に残ることを発見したからだ。例えば,夏目漱石の『私の個人主義』では,ロンドンでの実体験から漱石が自立意識を確立したことが書かれている。漱石の個人的な生々しい体験から,明治時代の日本人にとって実体のつかめなかったヨーロッパの「個人主義」を確実に自分のものとした感激が伝わってくる。あるいは,[第4章]イスラム科学技術概説(Part2)で紹介したイスラム科学史家の矢島氏の『科学史とともに五十年』を読むと,イスラム科学史を研究することがいかに困難であるか,また,そのために近年に至るまで私自身も含め日本人の多くが科学史におけるイスラムの貢献に無知であったかが非常によく分かる。
読者の皆さんが,今後,世界および日本の科学・技術史を自分の視点で捉え直すことで,科学・技術や産業の発展に関して自分なりの見識を持たれることを祈念して擱筆したい。