日立評論

Human Co-becoming

超スマート社会を支える人間観の再定義

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日立評論

執筆者紹介

中島 隆博

  • 東京大学東洋文化研究所 教授
  • 2000年東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻表象文化論助教授,2014年より現職。専門は中国哲学,比較哲学。主な著書に『ヒューマニティーズ 哲学』(岩波書店,2009年),『共生のプラクシス』(東京大学出版会,2011年,和辻哲郎文化賞受賞),『思想としての言語』(岩波書店,2017年)など。

目次

理性に基づく近代的人間観の限界

日本政府が推進するSociety 5.0では,めざすべき社会像として「人間中心の超スマート社会」が掲げられている。「人間中心」を標榜するところに技術による従来型イノベーションの延長線では未来は開けないという発想が見てとれる。技術をより広い文脈の中に位置づけて,技術系・人文系が力を合わせて「人間」を問い直す機会になるだろう。

そもそも人間という概念は,西洋において人々が神から自由になっていく過程で生み出された「近代」の産物である。科学革命や産業革命を経て,「理性」を持っている人間は,神に代わって合理的判断によって社会や規範を支えることができると堅く信じられた。しかし,「神は死んだ」というニーチェの言葉にも表れるように,19世紀半ばに人間概念はすでに最高潮に達していたのだ。

そうした人間中心主義のもと,それまでリベラルアーツとして一つであった学問は「自然科学」と「人文科学」へと分化し,それぞれが飛躍的な発展を遂げる一方,両者に大きなギャップが生じ,人間概念はその間に陥落してしまう。

その悲惨な結果が20世紀の二度にわたる世界大戦だった。あのような凄惨な戦いを可能にしたのはテクノロジーの発展だけではない。ナチズムのようなイデオロギーも,近代的な人間理解やデモクラシーの延長線上にあることを忘れてはならない。戦争に勝利したアメリカが自国流のデモクラシーを世界で広めるために行っていることにしばしば軋轢や矛盾が伴うのも,特定の人間理解によることが大きい。

露呈しているのは,いわば人間概念の限界である。近代になって神に代わって登場したのは,実に神によく似た理性を正しく使う合理的な人間であったが,現実はそのように理想的な人間ばかりではないし,理性的な人間が不合理な結論を導くこともしばしばである。人間概念は息切れしたまま,現在も危機的状況にある。21世紀に入り世界各地で宗教が復興しているのも,再び神を求める限界状況の表れと言えるだろう。

今こそ人間という根本問題を本気で考え直さなければ,技術系にせよ人文系にせよ学問の先はない。こうした意味でも,人間を中心に据えたSociety 5.0は時宜に適った問いかけであり,両者が再び人間のあり方そのものを問い直す大きなチャンスと捉えることができる。

Human Co-becoming 来るべき社会の人間像

では来るべき社会の人間像とはどのようなものだろうか。それを問い直す手掛かりとして,現代社会を大きく規定し,人間概念が生まれる背景にもなった資本主義との関係を改めて振り返ってみたい。

近代資本主義の生みの親,アダム・スミスがその主著『国富論』(1776年)で示した人間観は,「労働する人間」あるいは「生産する人間」であった。驚くほど単純に見えるが,経済が富の「交換」によってのみ語られていた時代,生身の人間による労働が価値を生むという考えは,新たな人間概念の到来に道を開いただけでなく,現代に生きるわたしたちの中にも働くこと,つまり仕事を核とした人間観として深く入り込んでいる。

20世紀になると,労働・生産だけでなく「消費」がフォーカスされるようになる。消費においては「違いを生み出すこと」が肝要で,絶えず小さな差異を持った商品が作られては,広告宣伝によってそれを消費するよう欲望が掻き立てられる。

労働によって生産する「モノの資本主義」から,作られた差異を消費する「コトの資本主義」へ。それに伴い人間観も「労働する人間」から「消費する人間」へと変わっていく。節約に代わり消費が美徳となる価値の大転換が起こった。こうした資本主義のあり方は現在も続いている。

ここで注目すべきは労働する人間も消費する人間も,その根底に「所有」という概念があることだ。そして所有の中心には「自分」がいる。たくさんの物,貴重な物,価値ある情報を所有して自分が肥大化していく。所有こそが価値なのだ。ところが,所有する自分自体は何も変わらない。

ネットで検索して情報を得ること,あるいは素晴らしい体験を得ることは所有に属さないという考えもあるが,その先に何があるのかは甚だ疑問であり,所有の変形にすぎない。所有の文法に還元されない人間のあり方を問うべきなのだ。

今,わたしたちにとって本当に必要なのは「関与する(engagement)」ことではないだろうか。関与するとは自分が「変容する(becoming)」ことに通じていく。自分ではない他者,他なるものに変わっていくことでもある。所有したり検索で情報を得たりしても,それだけではその人は変わらない。他者や対象に深く関わることで,それらが自分を変容させることが必要である。それは他者と共に内奥を分かち合うようなインティマシー(親密)に基づいた関わり方や知のあり方であり,それこそがこれからの社会と人間を豊かにする。

ここから見えてくるのは,他者から切り離され独立した人間存在としての“Human being”ではなく,関与して変容する人間となる“Human becoming”である。さらには,人は独りでは人間になれない。他者が関与して初めて人間になるのであり,共に変わっていく方が豊かである。したがって,わたしたちは共に人間になっていく“Human Co-becoming”だと考えてみてはどうだろうか。

一人ひとりの人間が根底的に変容する可能性こそ,従来の未来像に欠けていた人間のチャンスである。このように人間そのものに価値を置く新たな資本主義のあり方を「人の資本主義」と呼びたい。

人のケイパビリティを高める投資と技術

僧侶が剃髪し袈裟を着る慣習も,かつて日本に存在した隠居という制度も,世俗ではないもの,あるいは老いに向き合う,自分ではない存在に変容するためのリチュアル(儀式的)な実践や装置だった。道元は『学道用心集』(1234年)で心を変える「参師聞法」と,身体を変える「功夫座禅」という二種の修行を論じ,特に前者の実践には他者である師(メンター)の存在が欠かせないと説いた。

アジア初のノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・センは,「現実の暮らしにおいて人々が実際に何ができるか」と問うことを「ケイパビリティ(capability)」という言葉で表した。例えば水のない地域に住む人々には自動販売機ではなく井戸を掘る技術を,部屋に閉じこもり孤立している人にはDVDよりも,自転車に乗る技術を身に着けられる方がケイパビリティを高めることになる。

テクノロジーは概して「快適」を生むことを重視するが,画一的な快適さは時として「野生の思考」を奪うものであり,ケイパビリティを高めることに必ずしもつながらない。そうではなく人間という生命体が生き生きと活躍し変容できる条件を技術でエンハンスメントしていくことが肝要である。人間は自らの生身の身体を生きる(所有ではない!)存在であり,計算で覆いきれないその隙間に喜びや苦しみ,そして何よりも「こころ」がある。ここに理系と文系の違いはない。社会イノベ―ションを担うエンジニアの皆さんにはアルゴリズムを超えるものに対する感覚を磨いてもらいたいと思う。

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