ページの本文へ

Hitachi
お問い合わせお問い合わせ

Experts' Insights:社会イノベーションをめぐる考察ニューノーマルへ,自然・生命からの示唆アフターコロナ時代に求められる知のかたち

2020年12月1日

福岡 伸一

福岡 伸一

  • 分子生物学者・青山学院大学教授
  • 1959年東京生まれ。京都大学卒。ハーバード大学医学部博士研究員,京都大学助教授などを経て,2004年青山学院大学理工学部化学・生命科学科教授,2011年総合文化政策学部教授。米国ロックフェラー大学客員研究者兼任。農学博士。
  • サントリー学芸賞を受賞し,85万部を超えるベストセラーとなった『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書),『動的平衡』(木楽舎)など,“生命とは何か”を動的平衡論から問い直した著作を数多く発表。ほかに『世界は分けてもわからない』(講談社現代新書),『できそこないの男たち』(光文社新書),『生命の逆襲』(朝日新聞出版),『せいめいのはなし』(新潮社),『変わらないために変わり続ける』(文藝春秋),『福岡ハカセの本棚』(メディアファクトリー)『生命科学の静かなる革命』(インターナショナル新書),『新版 動的平衡』(小学館新書)など。対談集に『動的平衡ダイアローグ』(木楽舎),翻訳に『ドリトル先生航海記』(新潮社)などがある。

[聞き手]

武本 要

日立製作所
産業・流通ビジネスユニット
CLBO 兼 CTO

目次

ウイルスを撲滅できない理由

武本新型コロナウイルスが人類に常態の変化を促しています。われわれ日立はこの変化に対して,デジタルテクノロジーを活用し,モノやコトをコネクトすることで柔軟に対応していくことを提唱していますが,その際,従来のように統計学や物理学に基づいて最適化をめざすだけでは不十分だと考えています。アフターコロナ時代では,生物学や哲学,社会科学なども含めた幅広い視点を持ちながら,新常態(ニューノーマル)を考察する必要があるでしょう。

そこで本日は,自然・生命に関して造詣の深い福岡伸一先生に,生物学の観点からニューノーマルへのヒントを頂きたいと思っています。まずその前提として,私たちはウイルスや感染症をどう捉えればよいのか教えてください。

福岡ウイルスを人類の敵,目に見えない未知のエイリアンのように感じている方も多いと思いますが,生物学的に見ると,ウイルスは古くから私たち高等生物と共存してきた身近な存在です。しかしながら,その姿は電子顕微鏡でしか見ることができないほど極小で,細胞をサッカーボールにたとえると,ゴマ粒くらいの大きさしかありません。

生命を「自己複製を唯一無二の目的とするシステムである」と定義するなら,自らのコピーを増やし続けるウイルスは生物です。しかし,生命を「絶えず自らを壊しつつ,常に作り替えて,危うい一回性のバランスの上に立つ動的なシステム」,すなわち私が提唱している「動的平衡」の生命観に立てば,ウイルスは代謝も呼吸もしないので,無生物ということになります。つまりウイルスとは,生物と無生物の間に漂う奇妙な存在と言えます。

では,ウイルスはなぜ存在するのか―。ウイルスはその単純な構造から,生命の初源からあったと思われがちですが,実際は進化のプロセスを経て高等生物が出現した後に生まれました。というのも,もともとウイルスはわれわれの遺伝子の一部がちぎれ出たものなのです。私たちの身体の一部だったものが,ちょっと家出をしてさまよっている,というのがウイルスの正体です。

そして今日まで,高等生物とウイルスはある種の共生関係を保ってきました。実はウイルスがわれわれの身体に一方的に攻め込んでくるというより,むしろわれわれの方が積極的にウイルスを迎え入れるような挙動をします。細胞にはウイルスが接着しやすいレセプターが用意されていて,これらが出会うと,双方のタンパク質同士が強力に結合します。さらに細胞の別のタンパク質がウイルスに手を貸して,細胞の中に進入しやすいように導きます。宿主側も積極的にウイルスを歓迎しているというわけです。

なぜ,そのこのような仕組みがあるのかと言えば,生物学的に見れば,ウイルスが高等生物にとって有益だからでしょう。通常,遺伝情報は親から子へ,さらに孫へ垂直に伝達されます。一方,ウイルスは遺伝情報を個体から個体へ,ときには種を超えて運びます。つまり,親から子へと遺伝情報が受け継がれるのが進化のタテ糸だとすると,ウイルスは遺伝子情報を横向きに運搬する進化のヨコ糸の機能を果たしているのです。

そう考えると,生命システムの一員としての役割を担うウイルスをすっかり消し去ったり,撲滅したりすることはできないわけですね。新型コロナウイルスについても,われわれは何とかしてこれを受け入れ,共生・共存していく道を探るほかないのです。

やみくもに恐れるより,「正しく畏れよ」

武本ウイルスと闘おうという姿勢は間違っているのでしょうか。

福岡ウイルスは自然の一部ですからね。そして,私たちにとって最も身近な自然は,自分自身の身体です。その両方の自然の間には,ある種の動的平衡,せめぎ合いの関係が成立しています。私たちにとってウイルスが遺伝情報を運んでくることは望ましいけれど,やたらと増殖されては困りますよね。そこで自然としての身体は免疫システムという精妙な仕組みを使って,ウイルスが増殖しないうちに排除しようとします。その警戒網をくぐり抜けて増殖するウイルスに対しては,今度は獲得免疫という第二陣が出動して,抗体をつくってウイルスを包囲します。包囲されたウイルスは,マクロファージというもう一つの免疫細胞に食べられて除去されます。つまり健康な免疫システムを備えている人はウイルスをうまくやり過ごして,軽症のまま回復できるのです。

したがって,ウイルスに対しては「正しく畏れる」ことが必要です。「恐れる」のでも,「怖れる」のでもなく,敬意をもって「畏れる」べきでしょう。もちろん手洗いや三密を避けることは大事ですが,過剰反応することなく,まずは自然であるウイルスを尊重しつつ,自分自身の自然である身体の免疫システムを信頼することが大切だと思います。

もっとも,パンデミックの只中にいるわれわれは,なかなか冷静な判断や評価はできません。ましてや重症者や死者が出ている中で,鳥瞰的な視点を持つのは難しい。しかし,やがては治療薬やワクチンも開発されるでしょうし,今回の騒動についても冷静な評価がなされるときがくるでしょう。現に私たちは新型コロナウイルスと同じような風邪症状をもたらすインフルエンザウイルスについては,そのワクチンや治療薬が必ずしも万能ではないことを認識したうえで共存し,社会活動を営んでいます。新型コロナウイルスについても,いずれは常在的なウイルスとして社会の中の一定のリスクとして受容していくことになると思います。

アフターコロナ時代に不可欠なリテラシーとは

武本しかしなぜ,これほど新型コロナウイルスは騒がれることになったのでしょうか。

福岡それは,「新型」と冠した名前にも一因があります。新型インフルエンザや新型ヤコブ病などもそうですが,新型と付いたことで,未知の病気の襲来に人々が驚いて過剰反応してしまったのです。しかも,グローバリゼーションによって急速にウイルスが拡散したうえ,PCR(Polymerase Chain Reaction)検査の普及により,あっという間に感染地図を描けるようになったことも,人々を恐怖へ陥れました。つまり,情報によってパニックが引き起こされるという「インフォデミック」が起きてしまったのです。これはもはや人災と言うほかありません。

武本おっしゃるように,情報過多の時代にあって,情報を正確に伝える/正しく受け取るということの重要性を突きつけられました。ネーミング一つとっても,重要な役割を果たすわけですね。情報を正当に取捨選択する仕組み自体を整備していく必要がありそうです。

福岡そうですね。特に今回は,エビデンスのないエピソード的なデータが次々に出てきて,錯綜しました。そして,そのにわか情報が瞬く間に拡散して人々が振り回された。悪貨が良貨を駆逐するように,ニセ情報やセンセーショナルな情報ほど拡散されやすいものです。つまり,「正しく畏れる」というのは,ウイルスに限った話ではなくて,情報についても言えるわけです。情報を発信したり受け取ったりする側のリテラシーの向上と,それを支えるテクノロジーが必要だと思います。

その前提として重要になるのが,「自分自身を疑う」という知的な態度です。何らかのバイアスによってその情報を信じようとしているのではないかと,常に自分自身を疑う懐疑的な態度が不可欠です。そして,自分自身を疑う態度を身に付けるためには,幼い頃から,人の言うことをやたらと鵜呑みしないという,知的態度を養うべきでしょう。さらに,アフターコロナ時代においては,もし自分が間違えていたら,すぐに間違いを正すという知的な謙虚さも求められています。自己懐疑と誠実さこそが,これからの情報社会を生き抜いていくうえでの重要なリテラシーになるだろうと思っています。

「ピュシス対ロゴス」の構造を認識せよ

武本ニューノーマルを模索する際に,従来のようなSTEM(Science, Technology, Engineering and Mathematics)的な思考だけでなく,生命や生物学,福岡先生が提唱されている「動的平衡」の考え方が有用だと思っています。

福岡そのヒントとなるのが,「ピュシス対ロゴス」という考え方です。

先ほど私は,最も近くにある自然として,自分の身体があると述べました。この生命としての身体を,多くの人は自分の所有物のように感じていますが,実際には,決して自らの制御下に置くことはできません。私たちは,いつ生まれるのか,いつどんな病気になるのか,さらにどのように死ぬのかを知ることもコントロールすることもできない。自然というのは本来非常に気まぐれで予測がつかないし,制御できないものです。こうした本来の自然のあり様を,古代ギリシアでは,「ピュシス(physis)」と呼んでいました。

一方,自然をある程度コントロールし,衣食住を快適にし,予測可能なものとした唯一の生物がホモ・サピエンス,われわれ人間です。それが可能になったのは,人間が「ロゴス(logos)」,すなわち言葉や論理を生み出したからです。人間は言葉やロジック,アルゴリズム,テクノロジーなどを生み出して,文明社会を築いてきました。

ピュシスの唯一無二の目的は種の保存にあります。個体としての生命の価値は極端に小さく,個体は種の保存のツールでしかありません。しかし,人間はロゴスを生み出して,種全体の存続よりも,個々の生命体に価値を置きました。そして,基本的人権を与えるといった約束事をつくった。つまり,ピュシスとしての生命の外側に,法律や社会規範,道徳,宗教など,社会における約束や契約をロゴスとして築いたわけですね。こうして,人間はピュシスとロゴスの間を生きることになりました。

当然のことながら,何でもかんでもロゴスですくい取り,予測して,コントロールすることはできません。しかしながら,現代社会のAI(Artificial Intelligence)志向を見ると,極端なロゴス信仰に支配されているように感じます。私たちが本来の自然に生きている限り,人間の思考をすべてコンピュータに置き換えてシンギュラリティに到達することなど,到底不可能なはずです。ピュシスとしての生命は完全にロゴス化することはできないわけですから。

そう考えると,今回のコロナ禍は,あまりにもロゴス的になってしまった現代社会へピュシスが揺さぶりをかけてきた,と読み取ることもできるように思います。何でもロゴスの力で制御できるわけではないと,ピュシスが不意打ちの反撃を仕掛けてきたわけですね。

武本ピュシスにどう向き合えばよいのでしょうか。

福岡われわれの生命を含む自然を完全にコントロールすることはできない,ということを念頭に置くべきでしょう。もちろんある程度制御できる部分については,テクノロジーを使って制御し,便利にしていけばいい。ただし,そのテクノロジーは人間の能力を外側に拡張するために使われるものであって,人間の内部を制御するテクノロジーについては注意が必要です。

特に人間の生命をコントロールするような生殖テクノロジー,遺伝子の編集テクノロジーなどは十分に注意しなければなりません。なぜなら,それらはピュシスとしての生命体の気まぐれさや複雑さを,あまりにも単純化して機械論的に捉えているからです。迂闊に使うと,思わぬしっぺ返しを食らう可能性があります。

武本外部/内部という見方を持つことも大事ですね。薬ひとつとっても,用法を間違えれば危ないわけですから。

福岡そもそも薬というのは,ピュシスとしての生命をよい方向に導いてくれるものではありません。何かを阻害したり,遮断したりすることで身体を一瞬,違う状態にして痛みを忘れさせてくれたり,不快な症状を軽減してくれたりするだけで,根本から身体を治しているわけではありません。そうした介入に対して,ピュシスとしての身体,動的平衡としての生命は,それらを凌駕するように反応を変えてきます。だからずっと薬を飲み続けていると,その薬が効かなくなったり,副作用が起こったりするわけですね。

武本ピュシスとしての人間はそれだけ優秀ということですね。

福岡そうですね。生命の仕組みはたいへん優秀なので,単純な干渉を行うと,そのときは良くても,長い時間で見ると,悪い影響を与えることがあります。ピュシスをテクノロジーの対象として見るのは危ない。人間の移動を便利にするとか,コミュニケーションを円滑するといったテクノロジーならいいのですが,人間の生命の内部をテクノロジーで制御する際には十分に気をつけなければならないと思います。

ニューノーマルのカギを握るのは「利他」

武本私は,福岡先生が提唱されている「動的平衡」の考え方に最初に出会ったとき,腰が抜けるほど衝撃を受けたんです。動的平衡とは,絶え間ない流れの中で壊されつつ維持される秩序のことで,福岡先生は「生命とは動的平衡にある流れである」と捉えていらっしゃいます。つまり私たちは,絶えず分子レベルで壊してはつくり替えて,物質のレベルで常に入れ替わっているにもかかわらず,生命の営みを維持しています。それによって生命はエントロピーの法則に抗うことができるのだという。

この動的平衡の考え方の中で,重要なキーワードに「相補性」という言葉があります。分子レベルの相補的な相互作用が,生命活動の維持には欠かないということですね。あまり一般には知られていない言葉ですが,ニューノーマルを考える際の一つのヒントになるのではないかと感じました。

福岡そう,まさにコロナ禍は,生命系全体が動的平衡状態にあるということを教えてくれました。そして,その動的平衡を支えているのが相補性です。相補性とは,ジグソーパズルのピースのように,互いに他を支えつつ,他を利する関係性のことを言います。たとえ一つのピースが捨てられてしまっても,周りのピースがあれば,捨てられたピースの場所を保持することが可能ですよね。そうやって,秩序を守ることができる。同じように,生命は同時多発的にピース(分子)を入れ替え,更新しながら,エントロピーを増大させることなく,秩序を守っています。

これは,生態系全体にも言えることです。弱肉強食のように見える関係も一方的な搾取ではなく,実はある種の支え合いと均衡,つまり相補的な関係です。そして,ウイルスもまさに,この相補性の中にいる。冒頭で述べたように,ウイルスというのは自己複製だけをしている利己的な存在ではなく,高等生物に益をなす利他的な存在であり,まさに高等生物にとって相補的な存在だからです。

そこから導き出されるのは,英国の進化生物学者リチャード・ドーキンスが『利己的な遺伝子(The Selfish Gene)』の中で述べたような,自己複製だけを目的とする利己的な生命のあり方ではなく,他を利する「利他的共存」を生きる生命の姿です。ニューノーマルにおいても,この「利他」が一つのカギになります。

利他というと,自己犠牲やチャリティなどをイメージするかもしれませんが,そうではありません。自分が生きていくのに100必要なときに,そこから10を出せというのではなくて,余剰があるときに他に分け与えればいいのです。生命の動的平衡状態には常に揺らぎがあり,生産には浮き沈みがあります。ですから,110生産できたときに,余分の10を他に与えればいいということです。

実際に,生態系全体を見渡すと,利他的な行為は絶え間なく行われています。その最たるものが植物です。もし植物が自分の成長や種の保存のために必要な分しか光合成をしなければ,動物も土壌にいる微生物もミミズも,その葉や実の恩恵にあずかることはできません。そうやって植物は生産性が上がったときに,惜しげもなく葉や実を他の生物に分け与えているのです。

そう考えると,110得られたら,さらに120,120得られたら130を独り占めしようとするのは人間だけなのです。その性から解放されて,利他的に行動することがニューノーマルの一つの理念になるのではないかと思っています。

生命に倣うレジリエンシーの姿

武本福岡先生のご著書『世界は分けてもわからない』(講談社現代新書)の中で,生命をミクロな部分に分けなければ,その仕組みは解明できないけれど,すべての部分は他とつながっているので,そのつながりを見なければ生命の本質は見えないということをおっしゃっています。そのお考えの中心にあるのが,まさに「利他」ですね。

福岡その通りです。もちろん,世界の成り立ちを知るためには,各要素に分けて分析しなければわからないことがたくさんあります。基本的に科学も分けることで進歩してきました。しかし,分けたからといってすべてがわかるわけではなく,分けたものの間にはそれぞれ相互作用があり,それらは利他的な原則,相補性の原則に従って結びつき,機能しています。つまり,一度分けたものを,再び統合しながら世界を見なければ,その本質は決して理解できないわけですね。

それは生命だけでなく,AIテクノロジーなどもそうで,単に最適化や効率化をめざすだけでは不十分です。コロナ禍で露呈したように,エコシステムというのは余剰や余裕がなければ,厄災などによって簡単に破綻してしまう。だからこそ,これからのAIには,余剰があるところからうまく分配できるような,利他を促進するようなアルゴリズムを期待しているのです。

武本日立が取り組むデジタルトランスフォーメーションについても,要素のつながりや相補性,利他の考えをうまく取り入れていかなければならなりませんね。データ同士の関係性を見いだし,そこに意味を与えていくこと,「属性」を見抜くことがますます重要になります。

福岡先生は,近年では西田幾多郎の哲学についての著書を執筆されるなど,ロゴス(言葉)を巧みに操りながらも,ピュシスの世界へより迫ろうとされています。そうしたモノの見方を養い,またそれを人々に伝えるために,どういったことを心がけていらっしゃるのでしょうか。

福岡専門家になればなるほど,高い山に登って,鳥瞰的に物事を捉えがちです。しかし,これから学ぶ人にとっては,いきなり上から目線で物を言われてもなかなか理解できません。したがって私が心がけているのは,あたかも麓から山を登っていくかのように,自分が勉強してきたプロセスをよく覚えておいて,その時間軸に沿って物事を伝える姿勢です。そのためには,どの分野においても歴史を学ぶことが重要になります。

今,再び注目されているリベラル・アーツも,自分自身の時間軸を得るための術と言えます。リベラル・アーツとは,「自由になる技」という意味であり,単に知識を詰め込んだだけでは意味がありません。自らのうちに時間軸を持ちながら,知識を再編成していく必要がある。そうした学びの往復運動こそが,アフターコロナの時代には特に重要になると思います。

これは先述したようにソリューションやシステムについても言えることで,それぞれの部品(部分)のことを知り,それらの相互作用を理解したうえで,再び統合していかなければなりません。その際,どういった哲学によってソリューションがなされているのかが,今後,さらに問われることになるでしょう。

従来は,単位時間あたりの最大アウトプットといった工学的な最適化が重視されてきましたが,それだけでは不十分であることは既に述べました。例えば,生物学における最適化の場合は,単位時間が非常にロングスパンになります。時間や日の単位ではなく,年単位,あるいは何百万年単位になることさえあります。

また,一見,無駄に思えることが生存に役立つこともある。アリの中には必ず一定割合サボるアリがいるという話を聞いたことがあると思いますが,これは非効率に見えて,実は勤勉なアリだけだとコロニーはいずれ滅びてしまうのです。今回の厄災のように,100年に一度あるかないかのような事態が起こったときにも,遊軍のいる組織は強靭です。一見,非効率に思えるかもしれませんが,われわれは生きるピュシスであるわけですから,生命に範を求めることが,今後はますます重要になってくるのではないでしょうか。

武本まさに,生命に学ぶレジリエンシーの視点を併せ持つことが重要になるわけですね。本日はたいへん貴重なお話をしていただきまして,誠にありがとうございました。

インタビューを終えて

武本 要 武本 要 [聞き手]
日立製作所
産業・流通ビジネスユニット
CLBO 兼 CTO

福岡先生の書籍はどの本も非常にためになると同時に読みやすい。私のような生物学の門外漢でも「ふんふん」と読める。これはすごいことだと思っていました。そこで,「先生はなぜ多才なのでしょうか」と,少々失礼な質問をさせていただきました。「多才になろうと思っているわけではなく,自分の興味に従っているだけです」とのお答えでした。

福岡先生の興味とは何か――。インタビューが終わった後も考えました。私なりの理解ですが,40億年という膨大な年月をかけてつくり上げられてきた「生命」へのオマージュ(尊敬)がその源ではないかと思いました。

複雑で巧妙な生命の営みを理解したいという先生の情熱が,類まれなる考察や書籍として結実している。そしてその果実は,STEM全盛の現代において,非常に重要な示唆になっていると思います。私自身,日立の一員として微力ながらその教えを現実に活用し,よりよい社会の実現に寄与していきたいと思います。

Adobe Readerのダウンロード
PDF形式のファイルをご覧になるには、Adobe Systems Incorporated (アドビシステムズ社)のAdobe® Reader®が必要です。