日立評論

マイスター小平の遺産

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日立評論

執筆者紹介

加藤 兼司

  • 日立製作所 グローバル渉外統括本部 産業政策本部

目次

マイスターの時代

ヘッセの郷愁

[1]シュヴァーベン地方

『郷愁』,『車輪の下』など,文豪ヘルマン・ヘッセの作品にはよく職人が登場する。ヘッセは1877年にシュヴァーベン地方,現在のドイツのバーデン・ヴュルテンベルク州(BW州)カルプで生まれた[1]。この地方はマイスター文化の名残の中小企業ミッテルシュタントも多く,ダイムラーやロベルト・ボッシュといった起業家を輩出したモノづくりの里だ。現在もBW州は特許取得件数国内1位で,SAP社や工作機械メーカーのトルンプ社など大手メーカーが本社を構える。

ドイツでは12〜13世紀頃,手工業マイスターの同業者組合ツンフトが形成された。ツンフトは,キリスト教倫理に基づく「作った者の精神によってモノに魂が吹き込まれる」というモノづくり哲学を持ち,マイスターたちは徒弟育成,技術伝承,品質の厳格管理などの義務を負った。ゆえにマイスター数も制限され,余った職人は各地を遍歴した。のちに,遍歴はマイスター取得条件となる。

ヘッセが生まれた頃,ドイツにも産業革命が及んだ。彼の小説は,産業革命に飲み込まれる手工業への郷愁にあふれている。しかしマイスターたちはしたたかで,新技術を取り入れ手工業から工場へ活躍の場を広げた。当時のヴュルテンベルク王国商工局長官シュタインバイスは,産業革命に適応できる人財育成のため,徒弟が働きながら学校で学べる教育制度デュアルシステムを編み出す。

現在,マイスターはドイツの国家資格だ。マイスターには後進を育てる教育力,高品質を維持する技術力,事業を成長させる経営力,新たなモノを創り出す開発力が必要とされる。

小平浪平の遍歴と創業

[2]徒弟養成所の授業(1917年頃)

[3]製造現場に掲げられる高尾の言葉株式会社日立産機システム習志野事業所

日立の創業者・小平浪平は,ヘッセより3年早い1874(明治7)年生まれだ。小平は東京帝国大学を卒業後,小坂鉱山,広島水力電気株式会社,東京電燈株式会社を経て,1906年日立鉱山に入る。

「企業は人なり」をモットーとする小平は技術者育成を重視し,破格の待遇で高尾直三郎,馬場粂夫など帝大出身のエリート技術者を集めた。1910年,日立製作所創業と同時に徒弟養成所も設立する[2]。養成所は,全寮制で食事,衣服等は会社が支給し,知育・体育・徳育が重視され,実習は馬場が中心になり指導した。

1912年,倉田主税,安川第五郎などが入社する。倉田は後年,小平を継ぎ二代目社長となる。安川は,渡米してウエスティングハウスの見習工を経た後,鉱山用電気品メーカーの安川電機を興し,同社を世界有数のロボット・工作機械メーカーに育てた。

1920年,日立製作所は日立鉱山から独立し,株式会社となる。翌年,既に300余名の生徒を抱えた徒弟養成所の上級課程として,日立工手学校(校長:馬場)が設立された。工手学校は,昼間は工場作業,夕方は授業を行う日立型デュアルシステムだった。

養成所と工手学校はその後,幾度か変遷を経て日立工業専修学校(日専校)となる。日本の製造業の勃興期は職工不足であったため,実践的教育を受けた日専校生徒は,他社の垂涎の的だった。このため,しばしば卒業生が引き抜かれたが,小平は日本の工業力向上に資するとして意に介さなかった。

同年,後に副社長として産業機器事業を指揮する大西定彦が入社する。大西は,若手技術者を集め,四書五経の「格物致知」から取って「格致会」と名付けた勉強会を主催した。週1回の会合には若手に交じり,技術陣トップの馬場も欠かさず参加したという。

小平や創業メンバーのモノづくりへの情熱は,マイスターのそれに似る。高尾の言葉「打ち込め魂仕事の上に」は,現在も日立の多くの製造現場に掲げられている[3]

稼ぐ力を取り戻す

アゲンダ2010とIndustrie 4.0

小平が創業を志した頃,ヘッセの父ヨハネスが内村鑑三の『代表的日本人』をドイツ語に訳して出版した。この書で代表的日本人の一人に挙げられた上杉鷹山は,守旧派重臣を抑え,収益性の高い養蚕業を興すといった改革を断行し,零落した藩を再興した。

現在「EUの優等生」と言われるドイツも,1990年代は東西ドイツ統合により零落し,「欧州の病人」と呼ばれた。ドイツ社会民主党(SPD)のシュレーダー首相は,国力回復をめざして「アゲンダ2010」と呼ぶ政策を掲げる。

SPDはマルクスの旧友ラッサールが設立した労働団体を起源とし,伝統的に工場マイスター,職人等を支持層とする。19世紀半ばに諸国を遍歴した職人は,マルクス主義の伝播に一役買う。鉄血宰相ビスマルクは,これに対抗し,職人等労働者へ手厚い社会保障政策を敷いた。

アゲンダ2010は,ビスマルク以来の社会保障を見直し,長期失業者の給付金削減や職業斡旋強化等により経済回復を実現した。同時にミニジョブ等の低所得労働が増え,格差が拡大したため,SPD支持層の離反を招き,シュレーダー首相は任期半ばで政界を追われた。

SPDに代わり政権を握ったキリスト教民主同盟のメルケル首相が,製造業の成長戦略に据えたのが「Industrie 4.0」である。

Industrie 4.0の推進役は, SAP社の元CEOでドイツ工学アカデミー(acatech)前会長カガーマン教授とBOSCH社元副社長のダイス氏だ。この2人を共同議長に「スマート工場」,「人間と仕事」など五つの分科会が形成され,「戦略的イニシアティブ Industrie 4.0実施のための提言」と題するレポートが2013年に発行された。

ドイツ製造業の中核を成すのが,従業員500人未満,売上高5,000万ユーロ未満と定義されるミッテルシュタントだ。総じて,非上場・家族経営による長期視点の経営で,総資産利益率(ROA)が高い。また,高品質でニッチな分野に特化し,世界市場シェアの高い「隠れたチャンピオン」と呼ばれる企業も多い。加えてシュタインバイスに由来するBW州のシュタインバイス技術移転会社のように,積極的にミッテルシュタントに最新技術を提供する企業もある。

それでも近年の急速なデジタル技術進化や低コストの新興国との競争に対するドイツ製造業界の危機感は強く,ミッテルシュタントへのIndustrie 4.0普及が課題となっている。

Industrie 4.0が発表されて以来,世界中で製造業のデジタル化が話題になった。しかし,こうした言葉が流行る常として,「競合他社が導入したからウチも」といった,手段の目的化が見受けられる。デジタル化の目的を見定めた投資が重要だ。

日本の稼ぐ力

[4]各経営指標の計算式とROICツリー

[5]バリューシステムとバリューチェーン

日本でも1990年代以降,「失われた30年」などと言われたが,企業の稼ぐ力回復のため,近年ますます資本効率性重視の経営が注目されている。

2005年,EUは貸借対照表重視の国際会計基準(IFRS)適用を上場企業に義務化した。2014年,経済産業省の「持続的成長への競争力とインセンティブ〜企業と投資家の望ましい関係構築〜」プロジェクトが,最終報告書(通称:伊藤レポート)をまとめた。同レポートは,日本企業の短期思考が持続的成長の阻害要因と断じ,資本コストと自己資本利益率(ROE)を意識し,現場にROE指標を落とし込み,そのモチベーションを高め,中長期的なROE向上をめざすことを提言した。

また2017年には「未来投資戦略2017−Society 5.0の実現に向けた改革」が閣議決定され,東証株価指数上位500社のROAにつき,2025年までに欧米企業と遜色ない水準をめざすことを政府目標とした。

ROE,ROAに続き脚光を浴びる経営指標に,投下資本利益率(ROIC)がある。戦略論の大家マイケル・ポーター教授は,ROICを戦略立案で最も適切な指標と評価している。

現場のモチベーション向上の点では,ROIC構成要素を細かく分解し,自社のバリュードライバーを現場にまで落としこみ,その向上活動につなげるツール「ROICツリー」が定着すれば,現場の生産性向上(1人当たり生産台数向上,在庫削減,設備の効率活用など)が,具体的にどのドライバーに紐付くかが認識できる[4]。したがって,製造現場を例にとると,モノづくり力を高めたい現場と,稼ぐ力を強めたい経営層をつなぐことができる。また,各ドライバーがトレードオフの場合もあり,経営層はどのドライバーを改善するかを留意する必要がある。

ところで,ポーター教授が考案した手法にバリューチェーンがある。似た言葉にサプライチェーンがあり,時折,混同されるが,サプライチェーンは製造業における「サプライヤー⇒メーカー⇒流通業者」間のモノの流れを表すのに対し,バリューチェーンは製造業に限らず,自社活動のバリュー源の探求と,他の活動との連動性を確認する手段である。在庫を削減するJIT(Just-in-Time)生産のようにサプライチェーン全体と連動する場合を,ポーター教授はバリューシステムと呼ぶ[5]

ポーター教授は,競争優位の戦略の基本要素として(1)差別化,(2)コストリーダーシップ,(3)集中化を挙げる。差別化は,他社の模倣を許さない高付加価値製品・サービス提供で,コストリーダーシップは,やはり他社の模倣を許さない低コスト製品・サービス提供だ。集中化は製品,顧客,地域などの特定領域に集中することで,限られた経営資源で高いリターンを獲得するものである。隠れたチャンピオンと呼ばれるミッテルシュタントは,ニッチな分野に特化することで,労働コストの高いドイツでモノづくりを行っても,高い利益を上げる。つまり,差別化と集中化を合わせた戦略をとっている。そしてポーター教授は,他社に模倣されにくい戦略の要諦は,そもそも他社に容易に模倣されないバリューチェーン構築にあるとする。

しかし,ROICツリーやバリューチェーンは,自社のバリュー源探求には有効だが,他社に真似されにくいバリュー源は,自社においても,個々の活動と全体の連動性の確認が容易ではない。この可視化に,現場機器ネットワークから取得するデータが有効だ。さらに,可視化されたバリュー源の強化にもデジタル技術が有効である。ここに,モノづくりのデジタル化の重要性がある。

力の源をつなぐ:日本とドイツをつなぐ,人と機械をつなぐ

『車輪の下』の主人公は精神を患って進学校を退学し,機械工徒弟となるが,そこでモノづくりの喜びを知る。また『郷愁』の主人公は,身体障がい者との共同生活により,癒しを得る。そこに描かれているのは,人と人,人と機械の適切な間柄の模索である。

日本とドイツが,同じ観点で協力を推進中だ。2015年の日独首脳会談でのIndustie 4.0等の協力推進合意を契機に,日独IoT連携共同プロジェクトが始まる。日立はこの枠組みの下でドイツの研究機関と共同研究に着手した。2018年にはSDGs(Sustainable Development Goals:持続可能な開発目標)達成を視野に,カガーマン教授に共同プロジェクトを提案した。プロジェクトはカガーマン教授をリーダー,日立の研究開発グループの主管研究長 野中洋一を共同リーダーに,acatech,SAP,日立,東京大学などの日独の産官学界からメンバーが集った。

現在,両国とも熟練作業者不足,作業者の高齢化等に直面し,人財の多様化が課題だ。今秋,発表された当プロジェクトの白書「Revitalizing Human-Machine Interaction for the Advancement of Society」には,SAPインドで始まった自閉症従業員の事例がある。白書は,自閉症従業員の集中力や論理的思考力がソフトウェア開発に高い貢献があったとする。こうした多様性対応には追加投資も必要だが,SAPは比較的短期に回収でき,またその利益は自社に加え,社会保障費節減や社会的一体感の醸成など,社会全体で享受できるとする。

[6]人と機械の相互作用の変遷

同白書は,多様な人と機械が相互に高めあう仕組みとして日立が提唱する「Multiverse Barrier Free」も紹介する。製造現場では,作業者の熟練度,年齢,さらに性別,人種が多様化し,同様に設備についても旧式の旋盤から最新鋭のロボットまで多様化が進んでいる。この点,多様な人と機械が得手不得手を互いに補って全体を最適化する柔軟な生産システムの事例を示し,誰もが働きやすく成長できる製造現場を作るために,人と機械が相互に高めあう仕組み「Multiverse Mediation」があると説明する。

17世紀前半,産業革命期の英国で,機械による雇用喪失を恐れた労働者がラッダイト運動を起こし,多くの機械を打ち壊した。遅れて産業革命が波及したドイツでは,マイスターたちが積極的に新技術を導入した。現代もAI(人工知能)やロボットによる雇用喪失の危機感は高いが,デジタルトランスフォーメーションはもはや不可避だ。したがって,Multiverse Mediationを積極的に推進し,より質の高い雇用を創出するべきである[6]

こうした日独協創による社会価値追求を可能にしたのは,作り手の魂をモノに込めるという両者に共通するモノづくり哲学である。

小平の遺した資産

日専校は,現在,文部科学省認定高等専修学校として,創業時のモノづくり精神を継承している。全寮制で,原則,寮費・学費無料を維持し,高校卒業資格も取得できる。実習は同校卒業生の技能五輪出場者等が指導し,2018年度卒業生90名のうち34名が,ジュニア・マイスター※1)最高ランクのゴールドを取得した。また卒業前の半年間は,入社予定先の日立グループ製造拠点で実習するなど実践的な技能を磨く日立型デュアルシステムを採用している。

二代目社長の倉田は,1960年の創業50周年を機に,高卒社員対象の企業内大学「日立工業専門学校(日工専,現 日立アカデミー 日工専研修)」を設立し,翌1961年には経営幹部人財育成を目的に「日立経営研修所」を設立するなど,マイスターに必要な経営力・技術力・開発力・教育力の向上に努めた。2019年4月,経営研修所とIT・OT(Operational Technology)等の中堅技術者教育機関を統合し,株式会社日立アカデミーが設立され,日専校,日工専とともに人財開発の礎を成している。

社員の自己研鑽も形を変えて継承されている。2006年,若手社員有志が勉強会「グローバル若手会」を立ち上げた。格致会に比べると名称が直截的だが,向上心は変わらない。現在,会員は約1,500人,Team Sunriseと名を変え,2019年2月に,自主的勉強会ながら日立製作所研究開発グループ,株式会社日立産機システムとの協創で,示温インクをテーマにアイデアソンを開催するなど,活動の幅をより拡大している。

大西が興した産業機器事業を継承したのが,この日立産機システムだ。同社は現在,マーキング・空気圧縮機・IoTプロダクト事業などをグローバルに展開している。また2018年には空気圧縮機の製造・販売を手掛けるサルエアー社が日立グループの一員となり,本年にはロボットSI事業を展開するJRオートメーション社が,日立に仲間入りする予定だ。新しい仲間の技術やリソースとLumadaのシナジーにより,日立は,現場と経営のタテの際(きわ)や,企業(サプライチェーン上の業務)のヨコの際,オープンイノベーションによるつながる場の提供で,異業種間の際などをつなぐソリューションを強化していく。

あるとき,高尾が小平の記念を残したいと提案したところ,彼は「日立が自分の論文であり記念である。他に何もいらない」と応えたという。

小平が遺した資産は時空をつないだ。

※1)
ジュニア・マイスター:公益社団法人全国工業高等学校長協会が,国家資格等を取得した工業高校生徒を表彰する制度。
※2)
本稿において,歴史的人物・故人については敬称を略した。

参考文献など

1)
荒木昇,他:ROIC経営,日本経済新聞出版社(2017.11)
2)
荒木昇:稼ぐ力を現すROICの活用,KPMG Insight Vol22(2017.1)
3)
岩本晃一:インダストリー4.0,日刊工業新聞社(2015.7)
4)
内村鑑三(鈴木範久 訳):代表的日本人,岩波文庫(1995.7)
5)
加藤勝美:技術王国日立を作った男 創業者小平浪平伝,PHP研究所(1985. 11)
6)
河田信,他:ものづくりの生産性革命,中央経済社(2019.4)
7)
熊谷徹:日本の製造業はIoT先進国ドイツに学べ,洋泉社(2017.5)
8)
熊谷徹:ドイツ中興の祖ゲアハルト・シュレーダー,日経BP社(2014.4)
9)
経済産業省 経済産業政策局 企業会計室:企業会計制度をめぐる動向(2015.10)
10)
田中洋子:ドイツ企業社会の形成と変容,MINERVA人文・社会科学叢書(2001.12)
11)
永野博:ドイツに学ぶ科学技術政策,近代科学社(2016.1)
12)
浜本隆志:モノが語るドイツ精神,新潮社(2005.9)
13)
ヘルマン・ヘッセ(高橋健二 訳):郷愁,新潮文庫(1956.9)
14)
ヘルマン・ヘッセ(高橋健二 訳):車輪の下,新潮文庫(1951.12)
15)
マイケル・E・ポーター(竹内弘高 監訳):新版競争戦略論T,ダイヤモンド社(2018.7)
16)
マイケル・E・ポーター(土岐坤,他 訳):競争優位の戦略,ダイヤモンド社(1985.12)
17)
前澤朋子:ヘルマン・ヘッセの職人観に見る自律と共生−ドイツ地域力の考察(2016)
18)
Henning Kagermann, Yoichi Nonaka:Revitalizing Human-Machine Interaction for the Advancement of Society,acatech DISCUSSION(2019.9)
19)
野村直秀:ビジネスのグローバル化がIFRSを生んだ,(2019年10月参照)
20)
ドイツニュースダイジェスト:世界が認めるスペシャリストを育てるドイツのマイスター制度,(2019年11月参照)