日立評論

モノづくりを助くる者たち

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日立評論

執筆者紹介

加藤 兼司

  • 日立製作所 グローバル渉外統括本部 産業政策本部

目次

創業者の言葉

「グローバルトレンドと日立の取り組み」と題したこの連載では,しばしば創業者・小平浪平や彼を支えた幹部たちの言葉を取り上げてきた。現に起きている事象を点で見てしまうと,大きな傾向,まさにトレンドを見誤るので,現れた事象に対する歴史的観点が必要である。

同様にトレンドへの日立の対応にも,深層底流に企業理念「優れた自主技術・製品の開発を通じて社会に貢献する」がある。それゆえに創業者たちの言葉を反芻してきた。

日立京大ラボ(正式名称:日立未来課題探索共同研究部門)の提言によれば,現代は三つの喪失に直面しつつある時代だという。三つの喪失とは「信じるものがなくなる」,「頼るものがなくなる」,「やることがなくなる」だ。「信じるものがなくなる」とは,資本主義の制度不全から今後の経済成長の不透明感が増加し,人間が未来を信じられなくなること。「頼るものがなくなる」とは,グローバル化の進展により,人々の国家への信頼が揺らぎ始めたこと。そして,「やることがなくなる」とは,AI(人工知能)やロボットなどの技術の発展により,人間のやるべきことがなくなってしまうかもしれないということだ。歴史を振り返ると,未来を信じられなくなったり,頼るものがなくなったりすると人々は宗教にすがる。近年,宗教が復権し,あるいは新たな紛争の種となっているのは,そうした時代の趨勢によるものであろう。

一企業の点でみれば,幸いなことに日立には創業者たちの優れた経営哲学があった。リーマンショック後の2009年3月期に約7,800億円の当期純損失を計上したときは言うまでもなく,日立では事あるごとに原点を振り返り,企業理念や日立創業の精神「和・誠・開拓者精神」を復唱してきた。実際,企業理念や日立創業の精神を踏まえ,日立グループの次なる成長に向けて,あるべき姿を示している日立グループ・ビジョンを体系化した日立グループ・アイデンティティは,社員研修などさまざまな場所で用いられ,日立の社員にはなじみ深い[1]

[1]日立グループ・アイデンティティ [1]日立グループ・アイデンティティ

日立の社長である東原敏昭は,『日立 統合報告書 2020』の中で,COVID-19の拡大に抗して「こんな時だからこそ,何か世の中の役に立てることがしたい」という社員の声を紹介し,自らの経験も踏まえて,誰かの役に立ちたい,社会に貢献したいという気持ちが社員の働くモチベーションになる旨を述べている。三つの喪失のときだからこそ,社会に貢献するという企業理念は,より強く日立の行動に影響するのではないだろうか。

創業を支えた巨人 久原房之助

[2]久原房之助 [2]久原房之助

小平は日立が企業として成長した要因を,勤勉誠実な仕事仲間がいたこと,久原房之助と鮎川義介の支援を得たこと,顧客から信愛されたことの三つを挙げている。久原房之助は,以前もこの連載で取り上げた,日立製作所の親会社であった久原鉱業所日立鉱山のオーナー経営者である[2]。鮎川は久原鉱業所を改組した日本産業の社長に就いた人物だ。一般には日産自動車の創業者として知られる。その二人は,どのように日立を支援したのか。日立の創業以前から振り返ってみたい。

小平は学生時代に方々の工場を見学して,日本の工業力の未熟さに驚き,いずれは日本の産業の旗振り役になりたいとの大志を抱いた。そして彼は東京帝国大学を卒業した1900年,藤田組に入社し,学生時代に実習した小坂鉱山に勤務する。小坂鉱山所有者の藤田組は,社主の藤田伝三郎,藤田鹿太郎,久原庄三郎の三兄弟による同族企業であった。そしてこの小坂鉱山の所長が久原庄三郎の長男・久原房之助であり,小平は久原と出会うことになる。

[3]竹内維彦(左)と小平浪平(右) [3]竹内維彦(左)と小平浪平(右)

またこの小坂鉱山には,小平の学生時代の親友である竹内維彦も赴任していた[3]。竹内が精錬の担当エンジニア,小平が精錬所用の発・送電の担当エンジニアという布陣であった。当時,久原は31歳,小平,竹内は26歳と年齢が近いこともあり,また山奥の鉱山という閉ざされた環境でもあったため,三人は上司と部下という関係を超えて強い信頼関係で結ばれたと言われる。小平はここで,止滝発電所をはじめ鉱山電化に必要な発電所・変電所の建設・増設,電気機械設備の発注・据付,送電線の架空工事など一切を請け負った。

1904年,藤田組内部の同族経営の亀裂から久原は鉱山所長を辞任することとなる。一方,小平は小坂鉱山を超える規模の大型プロジェクトである駒橋発電所建設に魅せられ,これに参画するため,やはり鉱山を退職することとなった。二人のための合同の送別会が開かれた。

胸に希望を抱いて大型発電所建設プロジェクトに馳せ参じた小平であったが,現場では外資メーカーから派遣された外国人エンジニアの言いなりにならざるを得ず,次第に不満を募らせた。そんな折の1906年,小平は久原から,新たに買収した日立鉱山の電化を手伝ってほしいと頼まれる。さらなる未来を信じて小平は,日立鉱山へと向かう。久原が命じた最初の仕事は,小坂にいる竹内維彦を日立鉱山に呼び寄せることであった。ここで再び久原,竹内,小平の三人が相まみえ,久原は鉱山経営全般,竹内が精錬事業,小平が電化事業を担うこととなる。

当時の鉱山開発・精錬事業には大規模な公害が伴った。以前のこの連載で取り上げたように,久原は精錬のばい煙などによる公害の削減に尽力した。他の有力鉱山が公害問題で地域住民と対立したのを尻目に,久原は地域との対話を推進し,ばい煙撲滅のため,さまざまな投資を実施した。近隣農地を詳らかに調査し,ばい煙の被害にあった農家に補償金を支払った。また農事試験場を設立し,ばい煙に強い植物を研究するなどした。農事試験場は,オオシマザクラがばい煙に強いことを発見し,ばい煙で山林を失った場所にオオシマザクラを植林した。また周辺の山々に高度気象観測所を設置し,観測気球を飛ばすなどして,煙の流れ,高高度の風向などを調査した。さらに彼は,ばい煙抑止の目的で三つの煙突を建設したが,いずれも失敗。しかし久原はあきらめず,気象観測データを基に,高さ約156 mの「大煙突」の建設を実行し,この煙突の稼働により煙害は激減した。こうした久原の環境重視,社会重視の企業姿勢が,小平に与えた影響は計り知れない。

久原は,地味な電気機械製造にはあまり関心がなかったと言われるが,小平に日立製作所の設立許可を与える一方で,設備機械の製造の場も起こしている。1907年,佃島にあった鉄工所を買収し,地名にちなんで佃島製作所と名付けた。佃島製作所では,空気圧縮機,送風機,起重機,渦巻きポンプ,ホイストなどが製作された。1912年に久原鉱業所が久原鉱業に改組されると,佃島製作所も日立製作所と同等の久原鉱業の事業部門に昇格した。1916年には手狭になった佃島を離れ,新たに土地を購入した亀戸に工場を新設し,佃島製作所亀戸工場と命名した。小平は電気機械と一般機械の総合製作経営の必要性とメリットを唱え,1918年に日立製作所と佃島製作所が統合すると,日立製作所日立工場と亀戸工場が誕生する。亀戸工場は,現在の株式会社日立産機システムの母体である。

1919年11月,日立工場が大火災に見舞われ施設の大半が焼失した。そして翌1920年3月には亀戸工場で火災が発生し,建設したばかりの電機工場が焼失した。しかし小平はめげることなく,陣頭指揮を執って復旧にあたったという。小平の未来を信じる力はいかばかりか。

もう一人の巨人 鮎川義介

[4]鮎川義介 [4]鮎川義介

さて,小平が感謝の念を捧げるもう一人の創業期の巨人が鮎川義介である[4]。なお鮎川の名前はいろいろな読み方をされるが,本人のローマ字署名などから,「あいかわよしすけ」が正しい読み方である。

鮎川は1880年山口県に生まれる。久原より11歳下だが,久原が鮎川の妹と結婚したため縁戚上は鮎川が義兄となる。維新の元勲・井上馨を縁戚に持つ彼は,東京帝国大学在学中は,井上の屋敷に寄寓した。井上におもねる政財界の大物を間近で目にした鮎川は,「金持ちにはならないが,大きな仕事はする。人がよく行い得ない,社会公益に役立つ方面を切り開く」という大志を抱いた。小平にも似る思いである。

ちなみに,彼の大学の卒業論文は,小坂鉱山におけるエッシャー・ウイス式水車の羽根の構造と性能について考察したものである。つまり,小平が小坂鉱山で据え付けた水車の研究をしたわけである。実際に小平は鮎川に資料を提供し,論文制作の指導も行っている。小平の方が年上でもあり,指導員でもあるから威張ってもよさそうなものだが,後年,鮎川の支援を日立成長の要因として感謝しているのだから,小平の人柄や二人の関係の濃さがうかがえる。

大学を卒業した鮎川は,現場作業を重視し,エンジニアとしてではなく,一徒弟として芝浦製作所に入社する。1年目は仕上げ工,2年目は機械,製造,板金,組立,鋳物などの工程の作業員として順に勤めあげた。勤務のかたわら,彼は2年間で東京近辺の約80の工場を見て回ったという。こうした職工稼業と工場見学で,当時の日本の工場の実情を知った鮎川が得た結論は,成功している企業の全部が全部,外国の模倣であるというものであった。実地に工場を見て回り,日本の工業力の未熟さを嘆くなど,やはり小平の学生時代を彷彿させるエピソードである。

小平と異なるのは,それならば外国企業で修行してやろうと海外に雄飛するところである。1905年に鮎川は渡米し,可鍛鋳鉄製造会社に,やはり職工として入社する。小柄だった鮎川には,米国での現場作業は厳しいものになったようだが,米国人との体格差を日本人の手先の器用さで挽回できると,かえって自信をつけた。

こうして2年の職工留学を終えた鮎川は,井上に帰国報告を行うとともに創業に向けた決意を語り,支援を依頼する。日立製作所が創業したのと同じ1910年,北九州に戸畑鋳物株式会社(のちに国産工業に社名変更)を設立する。

鮎川は社業を伸ばす一方で,帝国鋳物(現 日立金属若松),木津川製作所(現 日立金属桑名工場),安来製鋼所(現 日立金属安来工場),東亜電機製作所(のちの日立製作所戸塚工場)などを買収して経営の多角化も試みる。ことに自動車事業への進出を企図していた。鮎川が学んだエリー湖畔は米国有数の産業地帯であり,特に1900年代初頭はデトロイトにおいて自動車産業が勃興していた時代である。鮎川は米国自動車産業の隆盛を間近で見ていた。

まずは自動車製造に必要な部品関連事業の立ち上げをねらい,安来製鋼所(特殊鋼), 東亜電機製作所(電装品)などで事業を展開した。

[5]日産コンツェルン組織図(1937年6月) [5]日産コンツェルン組織図(1937年6月)

1920年代に入り,第一次大戦後の不況を迎えると,久原鉱業に低迷の兆しが見え始める。1928年に久原が責任をとって社長を辞任すると,後任に鮎川が推される。鮎川は久原鉱業を純粋な持株会社化して,名を日本産業に改めた(鉱業事業部門は日本鉱業となる)。また,コーポレートガバナンスの観点から久原鉱業の同族経営を問題視し,株式公開することで同社を旧弊が目立つ同族経営から脱皮させた。同年8月には,鮎川は日立製作所の会長にも就任する。こうして日立製作所は日本産業を持株会社とする日産コンツェルンの中核企業となった(なお小平は1929年に日立製作所社長に就任する)[5]

日本産業の経営が回復軌道に乗った1933年,鮎川は同社が所有する日本鉱業と日立製作所の株式の一部を売却。これら売却益で得た資金で,自動車製造株式会社(翌年,日産自動車と改称)を設立した。さらにコーポレートガバナンス改革を推進し,鉱業部門は日本鉱業,工業部門は日立製作所,自動車部門は日産自動車,水産部門は日本水産など,主力事業分野ごとに支柱会社を定め,各支柱会社が各産業部門を統括管理する方式を導入した。1937年にはこの方式に伴い国産工業(旧 戸畑鋳物)が日立製作所に吸収された。

鮎川は小平に全幅の信頼を置き,日立製作所の経営に口を差し挟むことはあまりなかったと言うが,もとより似た志を持った両者は,その経営理念にも共感しあうところがあったであろう。

日立は創業期に久原と鮎川という二人の巨人によって支えられた。

With COVID-19時代の企業理念

現在に視点を戻すと,我々はCOVID-19禍の状態にある。頼れる巨人はいない。このCOVID-19禍の下で「リモート」,「非接触」,「自動化」の三つのキーワードが社会ニーズとして浮かび上がってくる。喪失の時代に深く迷い込んでしまいそうなキーワードであるが,東原は前掲書の中で,COVID-19でむしろ社会イノベーション事業のチャンスがあると述べている。産業界では,リモート・非接触・自動化による従業員の安全性確保と生産性向上の両立,サプライチェーン分断における事業継続性(BCP)といった課題が顕在化している。日立ではこうした産業界の課題,すなわち経営と現場,サプライチェーンといったバリューチェーン全体の間におけるギャップを「際(きわ)」の課題として捉えている。

ところで京都大学の山極壽一前総長は,東原との対談 [本誌特別増刊号Summer 2020,『BEYOND SMART LIFE 好奇心が駆動する社会』(日本経済新聞出版)]の中で,西洋近代思想の根幹を成す,いわばデジタルでゼロサムな世界の二元論に対し,日本の文化が「あいだ(間)」というものを大切にしてきたことを示し,あいだの思想がこれから重要になると述べている。そして人と人のあいだからイノベーションが生み出されると指摘する。

日立が際と捉えているものも,あいだを別の形で表現したものであろう。二元論ではなく,サイバー空間とリアル空間を自由に往来できるようデジタル技術でつなぎ,際,あるいはあいだに存在する課題の解決と経営視点での事業最適をめざした新たなシームレスソリューションを,日立は提供していく。

産業界では,労働者不足や人件費高騰,COVID-19による自動化ニーズの高まりを受けて,「人と設備によるモノづくり」から「人とロボットが協調したモノづくり」へのシフトが進んでいる。まさに「やることがなくなる」課題への挑戦である。そこで日立では現場と経営の際・あいだの課題への対応強化を念頭に,2019年にJRオートメーション社を買収するなど事業展開を加速している。その様子はかつて鮎川が積極果敢に企業買収した姿勢にも似る。もちろんこうした新たに仲間入りした企業との際・あいだをつなぐものは企業理念などの創業者たちの言葉である。

With COVID-19の時代,三つの喪失の時代にあっても,変わることなく創業者の理念を継承することが,大きなリスクをチャンスに変える鍵であると考える。

参考文献など

1)
宇田川勝:日産の創業者 鮎川義介,吉川弘文館(2017.2)
2)
北康利:日本を創った男たち はじめにまず“志”ありき,致知出版社(2012.3)
3)
日立京大ラボ:BEYOND SMART LIFE 好奇心が躍動する社会,日本経済新聞出版(2020.8)
4)
日立製作所:HITACHIの心,日立製作所(2007.7)
5)
日立製作所:日立事業発達史―100年の歩み―,日立製作所(2011.12)
6)
日立 統合報告書 2020,日立製作所(2020.10)