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COVER STORY:FOREWORD

人のためのデジタル社会

村井 純

村井 純
慶應義塾大学 環境情報学部 教授
慶應義塾大学大学院 政策・メディア研究科 委員長
1984年慶應義塾大学大学院工学研究科博士課程を修了,工学博士。東京大学大型計算機センター助手,東京工業大学総合情報処理センター助手などを経て,現職。
1984年国内のインターネットの祖となった日本の大学間ネットワーク「JUNET」を設立。1988年インターネットに関する研究プロジェクト「WIDEプロジェクト」を発足。内閣IT総合戦略本部有識者本部員,内閣サイバーセキュリティセンターサイバーセキュリティ戦略本部本部員,IoT推進コンソーシアム会長。その他,各省庁委員会の主査や委員などを多数務め,国際学会でも活躍する。

2017年11月に湘南慶育病院という名前の病院が慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)の隣接地に開院した。隣接地といっても中高等部や環境情報学部,総合政策学部,大学院と看護医療学部の間に位置しているので,地元藤沢市とも連携してSFCとの共同研究を病院の理念として掲げていただいている。初代病院長である松本純夫先生と議論し,我が国の課題である在宅医療や遠隔医療への貢献を連携テーマの一つとして2年前から準備に取り組んでいた。我が国における少子高齢化や医療費の課題は深刻であり,在宅医療がその鍵の一つであることは議論の余地がない。しかしその深刻さは度を増しているので,デジタル技術によるイノベーション,いや,革命的な改善が要求されていることになる。そのためには,個人を主人公とした自律的な健康管理,家族やコミュニティと地域,医療や介護などが,病院などの専門施設と結んで連携する環境をインターネット上に構築する必要がある。このようなシステムの理想像には既に社会の中で一定のコンセンサスがあると考えている。

概要としては,ブロードバンドインターネットを前提として,主人公とその信頼を得る家族やヘルパー,介護師,看護師,医者などのコミュニティとコミュニケーションができて記録されていること。これらと,薬事,医事の専門者がデジタルデータとその共有によって主人公の健康のために作業可能な環境を構築することなどである。これを実現すればいいのならば,そのための基礎技術やサービスアプリケーションの体系はそろっている。家庭には健康をモニターするための,IoT(Internet of Things)デバイスとしての健康測定器,主人公とそのまわりのコミュニティの会話や活動を記録するソーシャルネットワーク,電子お薬手帳などの薬事系のデジタル記録,電子カルテや医療画像などのデジタル化とその管理,医療費支払いの電子支払いシステム,薬の配送システム,そして,病院への通院交通スマートシステム。理想の社会への要素はそろっているように見えながら,実現できていない。ここを突破するのがSociety 5.0の正念場だろう。

昨年12月から3月末まで湘南慶育病院と共同でプロトタイプの設計・開発と小さな実証実験を行った。医療従事者の使用する電子カルテと連携しているシステムに在宅患者とのコミュニケーションの機能を加え,遠隔対面の診療,患者宅のカメラ操作,在宅の健康測定機器の蓄積と共有,患者個人認証など,時間が許す限り詰め込んだ実装を行い,AMED(国立研究開発法人日本医療研究開発機構)準拠の実験倫理規定に従って30名の患者と担当医師の実験を経て,双方の側面での評価と調査を行った。実験の範囲は限定的だが,評価も上々で,医者からの貴重なアドバイスを集めることができ,通院と在宅の組み合わせを具体的にイメージできた患者も大きな期待を寄せてくれた。

しかし,社会の中で運用を展開するためにはたくさんのハードルがある。そもそも医療にとっての遠隔診療の診療報酬は緒についたばかり。これまでは遠隔医療がデジタル社会を前提に議論されていなかったのだから無理もない。私達の分野の主戦場であるスマートハウスとなった患者宅でも,今やIoT機器となった家庭の健康測定デバイスはデータ形式も通信形式もベンダーごとに独立していて標準化されていない。そもそも今回の医師との遠隔対話は高齢者を意識して家庭のテレビを利用しているが,スマートテレビにはスマートフォンのようなオープンな開発環境はない。家庭の電気,空調など患者の状態や移動を認識し観測できるデータはあるが,そのデータを共有できる環境はない。患者の健康が目的であっても,患者の生活のプライバシーとの関連の合意形成の方法は確立していない。薬事との関連での処方薬のやりとりを遠隔で機能的に行うための制度的な準備はできていない。そもそも多様なステークホルダーに正しく対価を支払う洗練された電子取引やマイクロ電子支払いの仕組みはまだ我が国には存在しない。

ただ,ここまでくれば,解くべき課題も具体化し解決のアクションが取れる。個人の健康に関する正しい生活のデータが病気になる前から分析でき,安全に共有できるとなれば,健康な社会には飛躍的に貢献するし,それを支える保険制度も抜本的に改善できる。

2017年に世界の人口の51.7%がインターネット利用者となった。我が国は既に83.5%である。インターネットを前提とした,デジタル社会が私達の生活に普遍的に貢献できる社会のイメージは情報の専門家でなくてもデザインできるようになった。これからは,多様な役割を持つ人が連携してこれからのデジタルテクノロジーが正しく機能できる,人のためのデジタル社会の構築が開始される。