将来に向けたイノベーション研究開発
1. 未来の都市
Society 5.0はウェルビーイングと人の嗜好の多様性を内包した参加型社会である。日立は,2025大阪・関西万博*「フューチャーライフ万博・未来の都市」事業にKDDI株式会社と協賛し,Society 5.0がめざす未来の都市の姿を展示する。
この万博展示に向け,研究開発グループは2023年8月に「未来社会プロジェクト」を組成し,KDDIとともに,CPS(Cyber Physical System)が支える未来の都市の生活シーンを検討してきた。未来の都市では,食事,健康,学習,移動,エネルギー利用,エンターテインメントのさまざまな分野において,CPSで収集・分析されるデータに基づき市民自身が複数の未来をシミュレートし,自身の意思を街づくりに反映していく。この未来の都市のコンセプトの実現には多様なステークホルダーの参画が必要であり,万博開催前の機運醸成期からコンセプトを発信している。
今後,万博を大きな機会として,万博に来場する市民,事業者,公共団体との議論を通じて,街づくりを起点とした統合的な視点から都市横断的な未来の都市ソリューションを協創していく。
2. サプライチェーンにおけるグローバル製造拠点のリスクを可視化するデジタルオブザーバトリ
2050年のレジリエントな社会の実現に向けて,サプライチェーンを題材に,社会・経済活動のデータ観測とその利活⽤による潜在的なリスクの把握・予兆発⾒・回避に関する共同研究を,東京大学と推進している。
研究開発グループでは,本共同研究で取り組む各リスク領域における拠点への影響リスクと,企業内データの調達情報をひも付けて分析する取り組みを行っている。サプライチェーンリスクの把握には,調達部品の製造拠点情報が重要であるが,契約やヒアリングで把握できる情報は限定的であった。そこで,ISO(International Organization for Standardization)認証情報※)や企業情報に関するオープンデータを利活用し,生成AI(Artificial Intelligence)を用いることでグローバル製造拠点を高精度に推定するディープインサイト推定技術を開発している。本技術により,地理的リスクから影響を受けるサプライチェーン拠点を特定し,タイムリーに事前事後の対策を講じることが可能となる。
今後,日立社内で本研究成果による実証を推進していき,社会・経済活動を支えるサプライチェーン安定化に貢献していく。
- ※)
- ISO認証情報は,各企業のホームページや公益財団法人日本適合性認定協会(JAB)のデータサービスに基づき入手し,JABデータの利活用は利用規約 1-7(https://www.jab.or.jp/guide/terms_of_use)に基づく。
3. シリコン量子ビットの寿命を100倍以上長く安定化させる操作技術
量子コンピュータによって実用的な計算を可能にするためには,100万量子ビット以上の規模が必要とされ,量子ビットの大規模集積化や,量子ビットを効率的に操作する技術,さらに誤り訂正の実装がカギとなる。日立が研究開発を進めるシリコン量子コンピュータは,量子ビットの大規模集積化に有利と期待される一方,半導体中の核スピンなどがノイズとなり,量子ビットが不安定になりやすく,量子アルゴリズムや誤り訂正の実装が難しいという課題があった。
これに対し,シリコン量子コンピュータの実用化に向けて,量子ビットを安定化できる量子ビット操作技術(CCD:Concatenated Continuous Driving)を開発した。本技術では,量子ビットの操作に用いるマイクロ波の位相を変調することで,半導体中のノイズをキャンセルし,量子ビットを安定化させる。本技術をシリコン量子コンピュータに適用した結果,量子ビットの寿命が100倍以上延伸することを実験的に確認した。量子ビットの大規模集積化に加え,量子アルゴリズムや誤り訂正の実装に向けた研究を加速し,量子コンピュータの早期実用化をめざす。
- ※)
- 本研究は,国立研究開発法人科学技術振興機構(JST:Japan Science and Technology Agency)「ムーンショット型研究開発事業」グラント番号「JPMJMS2065」の支援を受けたものである。
4. 脱炭素社会実現に貢献する水素製造システム
脱炭素社会実現に向け,水素燃料への関心が高まっている。水電解方式による水素製造はCO2を排出しないものの,大量の電力を消費する。この電力の調達コストを低減するためには,再生可能エネルギーの余剰電力発生時の安価な電力を市場調達することが有用である。一方で,電力調達計画と電力消費実績の差であるインバランスが生じると追加の調整コストを支払うことになるため,インバランス低減が不可欠である。
日立は,水電解装置の物理特性をモデル化し,詳細な電力調達量を算出する運用計画・リアルタイム制御機能を備えた水素製造システムを開発した。これにより,インバランスと水素製造コストの低減を可能とした。さらには,複数サイトにおいて蓄電池や燃料電池などの多様な設備の統合計画・制御にも適用可能である。
5. 地域の電力グリーン化に貢献する薄膜SOFCシステム
再生可能エネルギーへの注目の高まりに伴い,燃料電池,その中でも特に発電効率が高い固体酸化物形燃料電池(SOFC:Solid Oxide Fuel Cell)が,カーボンニュートラルを実現するための次世代の電力として期待されている。高発電効率のSOFCを分散電源システムに用いて普及させ,地域の電力のグリーン化を推進するためには,パワー密度の向上と動作温度の低減がカギであり,その実現のためには半導体技術を応用した薄膜SOFC技術が有力である。
従来型のSOFCでは数µm以上の厚さで形成されていた固体電解質層を,半導体技術を用いて1 µm未満に薄膜化することで,性能を決める固体電解質層の電気抵抗を低減することが可能である。その結果,従来型SOFCよりも低い動作温度において,より高いパワー密度1 W/cm2を得ることができる。薄膜SOFCは複数層が積層されたスタックに集積化することで,積層数に応じた出力が得られ,分散電源システムで使用できる。
6. CO2資源化に向けた反応中の触媒電極構造の可視化技術
気候変動や地球温暖化の要因となるCO2を資源として,有用物質へ直接変換を可能にする技術の開発を行っている。電気化学に基づく反応プロセスは,CO2を回収して有用化学原料へと変換する有望技術である。電気化学的なCO2資源化を効率よく進めるためには,電極触媒が特に重要な役割を果たす。しかしながら,電気化学反応中の電極触媒の状態は従来測定方法では分析できなかったため,反応による電極触媒の構造変化を考慮した材料設計が困難であった。
日立は,電気化学反応とX線計測を同時に行う電気化学セルを新たに開発し,放射光計測技術の一手法であるX線マイクロビームによる走査型蛍光X線顕微鏡と融合させることで,多孔質電極上部の電極触媒が,反応中に電極内部に分散してゆく様子を捉えることに成功した。
今後,電極触媒の反応性や耐久性向上を進め,電気化学反応によるCO2資源化技術の開発を推進し,持続可能なカーボンニュートラル社会の実現に貢献する。
7. Carbon Transformationに向けた合成バイオ技術
化学産業では,化石資源に代わるカーボンニュートラルな炭素源としてバイオマスやCO2に着目している。日立は,CO2を原料とした微生物によるモノづくりの実現をめざし,合成バイオ技術※1)の開発に取り組んでいる。
合成バイオ技術では,目的物質の生産性を高めるため,遺伝子組み換えやゲノム編集により微生物のゲノムを改変する。この一連の流れ[DBTL(Design,Build,Test,Learn)サイクル]を加速するための技術を,京都大学と共同で開発した※2)。本技術は,微生物の体内で進行する代謝反応をネットワーク構造で,実験における微生物の応答を確率的な数理モデルで,それぞれ表現する点に特徴があり,目的物質の生産性に影響する遺伝子をコンピュータ上で特定することができる。本技術をコハク酸の生産性向上を目的とした代謝設計へ適応した結果,コハク酸が増産する遺伝子改変を予測できることを確認できた。これにより,微生物によるモノづくりの課題であった,実験による試行錯誤の大幅な削減が期待できる。本技術のさらなる発展を通じて,カーボンニュートラルの実現をめざす。
- ※1)
- 細胞内の生合成経路(代謝経路)や遺伝子配列を人工的に設計し,生物に新たな機能を付与する技術分野。
- ※2)
- Hosoda, Shion, et al., “BayesianSSA: a Bayesian statistical model based on structural sensitivity analysis for predicting responses to enzyme perturbations in metabolic networks.” BMC bioinformatics 25.1, 297.(2024)
8. 世界初となる格子面それぞれの磁場観察の成功
カーボンニュートラル社会を実現する高機能材料,省エネルギーデバイスの開発や性能のさらなる改善に向け,それらの機能や性能の根幹となる原子レベルの電場や磁場を超高分解能で観察する技術が求められている。
日立は内閣府のプロジェクトで開発した原子分解能・ホログラフィー電子顕微鏡にデジタル技術を融合させ※1),これまで観察が困難であった磁性多層膜に代表される,構造や組成が複雑な試料の磁場を高分解能観察できる手法を開発し,世界で初めて格子面(原子が並ぶ面)それぞれの磁場観察に成功した※2)。本成果は,原子分解能を維持した電子線ホログラフィーの自動計測技術とデータ取得時に発生する微小なピントずれ(収差)を撮像後に自動補正するデジタル収差補正技術を開発することで達成した。これにより,試料の物性や電子デバイスの特性を大きく左右する,物質間の局所的な境界(界面)における原子層レベルでの磁場観察が初めて可能となった。
- ※1)
- 本成果および本研究の一部は,最先端研究開発支援プログラム(FIRST)により日本学術振興会を通じた助成,およびJST CREST(JPMJCR 1664)の支援を受けたもので,国立大学法人九州大学,国立研究開発法人理化学研究所,有限会社HREM,国立研究開発法人産業技術総合研究所,国立研究開発法人物質・材料研究機構と共同で得られた成果である。
- ※2)
- T. Tanigaki et al., Nature 631, 521(2024)
9. バッテリーシェアリングによる農業の脱炭素と経済性の両立
日立北大ラボは岩見沢市,井関農機株式会社と連携し,地域産業の脱炭素と経済性両立をめざして,バッテリーシェアリングによる再生可能エネルギーの地産地消に向けた実証試験を開始した。
農業の経済性向上には高額なバッテリーを複数用途でシェアして稼働率を高めることが有効であり,本試験では電動農機に日立が開発した可搬AC/DC(Alternating Current/Direct Current)併用バッテリーを搭載することで,自立型ナノグリッド※)から得られる再生可能エネルギーをさまざまな農作業に活用することに取り組んでいる。
地元農業者の協力の下,農繁期の一時的な電力需要増加の課題を踏まえ,可搬AC/DC併用バッテリーを活用した農作業(花き農家の水まきポンプ動力)実証を行い,電力ピークを22%削減できることを確認した。
今後,日立の充放電計画最適化技術により,バッテリーの充放電・輸送・運用の効率化を図りながら,バッテリーを活用した地域エネルギーインフラを実現し,産業機器の電動化を通じて地域産業の脱炭素化をめざす。
(日立北大ラボ)
- ※)
- 太陽光や温泉付随ガスなどを活用した小規模な電力システム。
10. ハビタットイノベーション
日立東大ラボのハビタットイノベーションプロジェクトは,「Society 5.0実現に向けたビジョン創生」をミッションに設立された,日立と東京大学の共同研究プロジェクトである。日立東大ラボでは,スマートシティを「Society 5.0」を具体化する姿の一つと位置づけ,その将来像やアーキテクチャ,必須機能(キーファクター),実装方法について研究を進めている。
現在,Society 5.0の定義に立ち返り,Society 5.0型スマートシティが実現する社会像として,(1)都市のデータやIT技術を活用する場,(2)住民課題を解決し,ウェルビーイングを向上させる場,(3)サービスや生活のイノベーションを創出し,経済発展を続ける場,を抽出し,これらを持続的に実現する仕組みや方法論の具体化に取り組んでいる。また,2024年7月からは東京のスマートシティ化をテーマに「スマートシティ東京展」を主催し,これまでの研究成果を国内外に発信する活動も進めている。
今後は,Society 5.0型スマートシティの実装に向け,東京都などの関係者と連携しながら取り組みを進めていく。
(日立東大ラボ)
11. 多元価値の見える化
社会イノベーション事業を地域に展開する際には,従来の経済価値だけでなく,環境的・社会的価値といった多元的な視点が求められる。さらに,より良い地域づくりの実現や地域住民の主体的な地域活動を持続的なものにするために,施策によって生み出される地域の長期的な社会的・環境的変化である,社会的インパクトを評価することが重視されつつある。
こうしたニーズに応えるため,日立京大ラボでは施策と地域の社会的インパクトとの関係性を明確化し,地域における施策の重要性を定量的に評価できる技術を開発した。具体的には,人々の「好き/嫌い」や「良い/悪い」といった主観的な価値基準を用いることで,地域住民が受け入れやすく,必要と感じている施策かどうかを定量的に判断する。本技術を活用することで,自治体や地域企業の意思決定を支援し,地域社会の持続的発展に貢献していく。
(日立京大ラボ)
12. デザイン細胞開発プラットフォーム
キメラ抗原受容体(CAR:Chimeric Antigen Receptor)T細胞療法は,遺伝子を改変し治療につながる機能を付加した細胞(デザイン細胞)を用いた治療法である。CAR-T細胞は,従来治療困難であった難治性白血病やリンパ腫に対する画期的な治療法として2017年に米国で承認され,現在までに7製品が上市されている。この治療法は高い効果が期待できる一方で,高額な医療費,限定された適応疾患※)が課題であるとされている。
そこで日立神戸ラボでは,デザイン細胞の研究開発を加速するため,遺伝子配列生成AIとハイスループット細胞評価システムを組み合わせた「デザイン細胞開発プラットフォーム」を構築してきた。これまでに,AIにより生成した遺伝子配列の細胞機能を試験管内で評価し,既存品CAR-T細胞を上回る高いがん細胞傷害活性を示す新規配列を複数取得することに成功した。今後,動物の体内における効果を検証するとともに,顧客協創を通じてプラットフォームを強化していく。
(日立神戸ラボ)
- ※)
- 2024年12月現在,特定の血液がんのみ。