2022年9月5日
デジタル技術の発達やビジネスのグローバル化,それに伴う企業活動の多国籍化を背景に,技術開発に携わるエンジニア・研究者にも分野を超えた幅広い視野と柔軟な思考が求められている。その中でも特に欠かせないのは,今日の社会のあり方から私たちの生活の隅々に至るまで,絶えずさまざまな変化をもたらし,大きな影響を与えている科学・技術なるものの本質を俯瞰的にとらえる視座であろう。
本連載では,リベラルアーツ研究家として多彩な啓発活動を展開している麻生川静男氏が,古代から近代へと至る世界の科学・技術史をひも解きながら,これからのイノベーションへの手がかりを探っていく。
現在,日本の大企業においては事業と人的資源の国際化が急速に進展している。日立グループにおいても,ABB社のパワーグリッド部門やGlobalLogic社など海外企業の買収を経て従業員の半数が外国人になり,従来の日本流のやり方だけでは通用しなくなっている。ここで重要なのは,多様な国籍を持つ従業員たちの考えの根本部分(以下,「文化のコア」と記す。)をつかむことだ。これは世の中では一般的に「異文化理解」や「ダイバーシティ理解」と呼ばれている。つまり,彼ら・彼女らが何を大切にしているのか,何に基づいて価値判断を下しているのかをしっかりと理解することが,互いの信頼感を高め,円滑なコミュニケーションを可能とするのである。
なぜ,文化のコアを掴むことが重要なのか。それは,文化の違いは個人の考え方の違いよりもずっと根深く,人々の根源的な考え方,行動様式を規定しているからだ。風習や人々の行動など,日本と諸外国の違いは極めて大きい。とりわけ,諸外国では宗教が暗黙の内に人々の行動規範を規定しているが,大多数の日本人は宗教を意識しないため,行動を規定する「絶対的な理念」に思いが至らない。
文化といえば,通常,文学,宗教,歴史,哲学,思想,芸術などのいわゆる人文系の分野に集中しがちであるが,現実的に人が社会生活を営むうえでは農業,工業,商業,運輸などの生産活動が必要であり,それを支えているのは科学・技術だ。したがって科学・技術史に触れることなしに社会や歴史は語れないはずであるが,学校の授業では,特に技術史に関してはほとんど取り上げられることがない。そのうえ,科学・技術の分野は幅広く,現在の理科系すべての学部,つまり理・工・医・薬・農にまたがるため,科学・技術の発展(科学・技術史)を概観しようと思った途端に,広大無辺の知識・情報の大海に溺れてしまう。ただ,(現在はそうでもないが)過去の科学・技術の多くは哲学や宗教のような理念的なものとは異なり,実物(tangible matter)があるため,具体的イメージが理解の助けとなる。ここでは,政治史主体の歴史からでは分からなかった各国・地域の文化のコアを,実物ベースの科学・技術史からつかんでみよう。
現在の日本の学校教育では科学・技術史に関する授業がほとんどないため,科学・技術に関して,私たちの知っている範囲は極めて限定的だ。さらに,科学・技術といえば近代の欧米のものに重きが置かれ,それ以外の地域や時代にあった科学・技術に関する知識が乏しいというのが実態であろう。これは,グローバルなビジネスに携わるうえで好ましい状態とは言えない。例えば,次のような質問に答えることはできるだろうか。(質問の答えは本稿の最後に示す。)
グローバルビジネスの現場で,このような質問が表立って出てくることは少ないであろうが,これらの質問について自分なりの答えを持っているのといないのとでは,クリティカルな決断を下さないといけない場面で大きな差となって表れてくる。しかし,これらの事柄は,大学の理系学部であっても,それぞれの専門科目に関連してトピック的に取り上げられるだけであり,とりわけ物理学・化学や工学のように近代のヨーロッパで大発展を遂げた学問領域に関しては,中国や日本などの東洋の貢献はまず触れられることはない。
科学・技術の進展と国民性の関連について,考えを巡らせてみてほしい。というのは,一国の産業の盛衰は国際環境にも大きく影響されるが,その国の人々の気質に強く依存しているからだ。過去,その国・地域の科学や技術がどのように伸びてきたかを知ることで,民族性を逆照射することができる。民族性はかなり慣性力が高いため,過去に示した性質はほとんどそのまま未来へと続くことが予測される。長期スパンで国の産業の発展を考えるには,科学史,技術史を学ぶことが必然であることが理解されよう。
さて,科学・技術史を理解するためには,当然のことながら各分野の細部を理解しなければならないが,同時に細部にとらわれてはならないと知っておく必要がある。この一見矛盾する意見に関して,ドイツの科学史の大家であるフリードリヒ・ダンネマンがその著書 『大自然科学史』の中で,ジグムント・ギュンターの言葉を引用している(図1参照)。
「ここで大切なのは,細かい知識でもないし,一つひとつの問題を研究することでもない。そうではなくて,大きな理念(イデー)や,このような理念のおかげで受けている成果について,一つのざっとした像を描くことが大切である。」(ジグムント・ギュンター)
日本の学校教育では細部まで正確に覚えることが重要だという意識が強いが,ギュンターが指摘するように科学・技術史を学ぶ際にはもっと大きな図(big picture)をとらえないといけない。つまり数々の研究や発明,工夫が出てきた背景をつかみ,なぜそのような活動がその時代に必要であったのか,あるいはどのようにして可能となったのかを,社会的,経済的,文化的背景も絡めて考えることが重要だ。
ドイツの技術史家のアルベルト・ノイブルガーは著書『古代技術』の中で,古代ギリシャ・ローマの技術を知る必要性について「古代の技術を知るものだけが,古代の精神を完全に理解することができる」と強調している(図2参照)。
これは,文化とは人々の実際の生活の中から生まれてくるものなので,生活実態を知らずして文化を理解することはできないという意味だ。こうした考えから,本連載では科学・技術の詳細な説明よりも理念や人々の考え方の説明に重点を置いて説明していきたい。
科学・技術の細部に関しては,個々の参考文献をあげるのでそれを参照していただきたい。科学・技術史を学ぶということは,科学・技術という狭い分野の知識を増やすためではなく,次のようなもっと大きな視点を得るためだと私は考えるからである。
(1)についてはこれまでの説明で了解してもらえたことだろう。(2)についてはジョージ・サートンの『科学の生命 ― 科学的ヒューマニズム』に詳しく記述されている。(3)については並外れた知性の持ち主でも,誤った推論をする事例が科学・技術史には数多く見える。例えば,万学の祖と言われたアリストテレスの真空非存在の理論や,近代理性の開拓者であるデカルトの渦動説など,高度な知性の持ち主でも間違った理論を唱えることはあり,これは,命題をいくら論理的に整合性をもって説明できても,必ずしも真理ではないということを意味する。この観点が理解できないと欧米文化の基本を成すキリスト教神学の意味も理解できない。
(4)については本連載の最後に理由を述べるので、それまで各自、自分なりの理由を考えておいて頂きたい。
ここまで,科学・技術史を学ぶことの意義に焦点を当てて説明した。最後に,前述の質問に対する答えも兼ねて,科学・技術史の発展の概略を示す。