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Experts' Insights:社会イノベーションをめぐる考察制御の先にある,真の「利他」を実現するために他者の声に耳を傾け,真摯に出会う

2022年9月13日

伊藤 亜紗

伊藤 亜紗

  • 東京工業大学 科学技術創成研究院 未来の人類研究センター長 兼 リベラルアーツ研究教育院教授
  • 2010年,東京大学大学院人文社会系研究科基礎文化研究美学芸術学専門分野を単位取得のうえ,退学。同年,同大学にて博士号を取得(文学)。学術振興会特別研究員を経て,2013年に東京工業大学リベラルアーツセンター准教授に着任。2016年4月より現職。主な著書に『目の見えないアスリートの身体論』(潮出版,2016年),『どもる体』(医学書院,2018年),『記憶する体』(春秋社,2019年),『手の倫理』(講談社,2020年)など。

地球環境問題をはじめとする社会課題の解決や人々のQoL向上を経営理念に掲げる企業が急増している。こうした世界的潮流の中,日立はプラネタリーバウンダリーとウェルビーイングを社会の最重要課題として掲げている。

人類的テーマを掲げた活動を推進し,社会に貢献するうえで,忘れてはならない視点とは何か。そして,その下での技術者のあり方とは。身体性や障がいを手掛かりとした横断的研究を通じて「倫理」や「利他」,「多様性」を探索する東京工業大学未来の人類研究センターの伊藤亜紗センター長に話を聞いた。

目次

誰かの役に立てることは奇跡

近年,社会課題の解決や人々のQoL(Quality of Life)向上を掲げる企業が増加しています。営利組織である企業がウェルビーイングを追求する今日の社会的トレンドを,どのようにご覧になっていますか。

SDGs(Sustainable Development Goals)をはじめ,環境問題やウェルビーイングなど,人類的な問いについて考えることは非常に重要です。ただ一方で,そのような社会的トレンドに対しては常に警戒心を持つようにしています。

英国のオックスフォード大学の先生方は,「大学は国よりも古くから存在する」と言って,国や省庁が何を言おうと簡単には動こうとしないところがあります。自分たちは「良識の府」であるという自覚がとても強いのです。私たち大学の本来の役割は無自覚に社会的な潮流に追従することではなく,それを問い直すことであり,それこそがリベラルアーツではないかと思っています。しかし近年は,国立大学も経営的な視点が強化されており,国と産業界両方の意向を伺いながらでないと運営が成り立ちません。独立性がどこまで確保できるのかというと難しいのが現実です。

また,地球規模の課題解決を掲げながら,多くの企業が近視眼的に物事を見てしまっているのではないか,それがいつも気になります。例えば,エコバッグを売ることはSDGsへの貢献に必ずしもつながりません。むしろ環境を破壊してしまっていることさえあります。問題の全体像を見ることなく,自分の立場から限られた領域だけを見て,自社の技術や商品は社会の役に立っていると,自らの行為や正義を正当化するのは非常に危険です。

そもそも「自分のやったことが誰かのためになる」ということは,本来,かなり奇跡的なことだと言えます。そこには自分の行い以外の多くの要因,偶然的要素が必ず介在していると言っていいでしょう。例えば,水を濾過する高性能な繊維を開発した技術者が途上国に行きその繊維できれいに濾過した水を現地の人に飲んでもらったら,「まずい」と言われることもあります。「汚れてはいないけれど,おいしくない」ということです。また,国際開発の場面では,現場の人たちがいかに純粋な思いで現地の人たちと奮闘したとしても,それが日本のODA(Official Development Assistance)であれば,学校建設などで日本企業への発注が条件になってしまう場合もあります。果たしてそれが本当に現地のためになっているのか,そこには大きな葛藤があるわけです。

現場でユーザーと接する人たちは日々痛感していることと思いますが,このように「相手のため」と一口に言っても,背後には考えなくてはならない問題が山積しています。

日立と同様,東京工業大学も「技術で社会を良くする」という理念を出発点にしていますが,技術で社会を良くするということは,私たちが想像する以上に多くの要因が絡み合う複雑なことなのです。

自分の行いが誰かのためになる,技術で社会を良くするということがいかに複雑かを考えるためのキーワードが,近年注目されている「利他」です。2020年,東京工業大学に「未来の人類研究センター」が設立された際,取り組むべき最初のテーマとして定められたのも「利他」でした。Aという行為がBのためになるということが起こったとき,その背後にはどんな出来事や要因があるのか,それを丁寧に見ていくことがセンターの活動の一つです。

自分のやったことが誰かのためになっていると思い込んでいる場合,相手を自分のシナリオの中に設定していることが多いのではないでしょうか。「自分の中の」善意や正義という枠組みの中で他者を転がすことは,時にその他者を支配することにもつながってしまいます。先ほど「危険」と言ったのはそのためです。

しかしながらリアルな他者は,自分の思い通りには動いてくれないし,喜んでもくれません。他者は自分の価値観の外側にいるのであり,取り巻く状況や環境,文化的背景もさまざまで,自分からは見えない部分を必ず持っています。相手が自然や生物であれば,なおのことです。自分基準のシナリオに留まっている限りそれらを捉えることはできません。また,本来的には自分の行為の結果も,他者をコントロールすることなどできないのです。

この「コントロールできない」という感覚が「利他」にとって非常に核心的な感覚で,「自分のやったことが誰かの役に立っているなんて,簡単には言えないはずだ」と考えることが「利他」だと言えるでしょう。コントロールできないものといかに創造的に出会っていくか,それが「利他」にとってとても重要なポイントだと思います。

聞こえない声に耳を傾ける

自分の指標だけでは,相手が自分の行動をどのように受け止めるかは測れないということですね。自分の考えの及ばない部分をいかに想像できるかが課題となりそうです。

そのための一つのヒントとなるのが,東京工業大学建築学科(環境・社会理工学院 建築学系)の教授で,建築家ユニット「アトリエ・ワン」を共同主宰する塚本由晴さんの言葉です。

建築物をつくる行為は打ち合わせの連続であり,関係者すべてをテーブルに呼んで合意形成をしていくことだと彼は語っています。ここで関係者と言っているのは人間だけではなく,そこに生えている木々や,生息する虫や鳥,さらにはその土地で暮らしてきた死者やこれから生まれてくる人たちも含んでいます。自然や死者など,言葉を発することができない存在の声に耳を傾け,彼らがどうやったら合意形成のテーブルに着くことができるかを今生きている人間が共に考えていく。その中で構築される人間関係こそ,実は物理的な建築と同じくらい大事な建築なのだと。

また,リベラルアーツ研究教育院教授の中島岳志さんも,死者の声に耳を傾けることの重要性を指摘しています。「私たちは既に多くのものを先人である死者から受け取っているのであり,それを自覚することが亡くなった人を利他的な存在にする」と言うのです。

「今ここに存在しない他者と出会う」というと,私たち人文系の研究者だけで議論した場合,宗教的な問題に帰着してしまいそうですが,興味深いのは,理系の先生方とお話しているとそれが「センシング」の問題に置き換わるということです。理系の先生方はとにかくセンシングがお好きで,例えば雷の予兆など今まで捉えることができなかったものをセンシングできるようになると,ものすごくテンションが上がるんです(笑)。そしてそのとき,「サイレントボイスが聞こえた」と表現することがあるんですね。先ほどの話と異なり,あくまで対象を「制御」することが目的なのですが,彼らの心の底にあるのは「声が聞こえないからといって,ないことにしてはいけない」ということです。その感覚は非常に「利他」に近いと感じています。今年3月には,理系の先生の発案でサイレントボイスに焦点を当てたシンポジウムも開催されました。

聞こえない声に出会うためには,自分が囚われている枠を外していく必要があります。世間ではよくアンラーニングと言われていますが,企業研修などで散見する「何とか力」をつけてマッチョにパワーアップすることより,自分が囚われているものや組織の中にある不要なものを捨てていくことにこそ,より多くの学びがあるように思います。

未来の人類研究センターのリベラルアーツの研究会に,宇宙や系外生命を研究されている先生方が毎回参加してくださるのですが,それは,自分が囚われている生命のイメージの外側に出たいと常に考えているからです。自分が生命だと思っているものを探していたら絶対に見つからない。ある種の真理を追究するためには,自分のパースペクティブの外側に出なくてはならないのでしょう。

共感に基づかない「利他」の可能性

「利他」と同様に「ウェルビーイング」という言葉も近年,注目を集めています。

欧米と東アジア地域とでは捉え方に文化差があることをご存知でしょうか。特に日本人は何ごとに対しても,あまり「個」から発想しません。「私」の実現より,家族や友人など,自分以外の近しい人の可能性が実現することにより大きな喜びを感じる。「個」と「他者」の境界線が曖昧なところにたゆたっている状態が最もウェルビーイングが高いと,さまざまな調査から分かっています。

同様に,私たち日本人がイメージする「利他」とアメリカの「利他」はまったく違います。アメリカでは幸福や善を徹底的に数値化して「利他」に対しても効率性を求める傾向があります。どこにどのような名目で寄付をすれば最も効果的かを調べられるサイトが数多く存在し,検索すると簡単に最適な寄付先を絞り込むことができます。「利他」といっても,共感だけでは動かないのです。

このような話を聞くとぎょっとしてしまいますが,これはこれで良いところがあります。私たち日本人のように共感ベースで動いてしまうと,自分に近い人や自分に関連するものばかりに寄付をしてしまう。これでは自分が意識できていない,本当に困っている人や地球の危機的な問題に対してアプローチすることができません。数値化することによって初めて,自分の思い込みから脱却することができるのです。

「新しい贈与論」のような,新しい寄付の形を実験している団体もあります。毎月集めた会費をどこかに寄付するのですが,それも共感とは切り離して,「笑い」や「点」など「利他」とはまったく関係のないテーマを設定し,そこから連想される候補から,会員同士の投票によって寄付先を決めています。自分のお金の行き先をコントロールできない仕組みですが,自分の視野に入っていなかった寄付先も,説明を聞いていると自然といいなと思えたりもする。このように「与えている側」が変化することも「利他」にとって大切な要素ではないかと考えています。

生ビール論争と「生」に寄り添う姿勢

ところで,先生が最近注目している概念に「生」という言葉があるとお聞きしました。

「生」というのはすごく不思議な言葉で,「生チョコ」のように良い意味で使われることもあれば,「生半可」のように悪い意味に使われることもあります。つまり定まらない,不確定要素が強く,どちらにも転びうる状態のものを「生」と言っているんですね。その一回性みたいなものを商品化するのが近年流行りのレトリックなのだと思います。

少し前,「生」ビールという概念がどうやってできたのかを調べたことがありました。昔,ビールはビアガーデンで飲むもので,家で飲むものではありませんでした。なぜなら,家庭用のビールは劣化を防ぐため,酵母の活動を抑制するために加熱処理をしており,変な臭いがついて美味しくなかったからです。

それを変えようとしたA社はロケットの燃料を濾過する特殊なフィルターを使い,酵母やその他の雑菌を濾過することに成功しました。非加熱・酵母なしのビールを開発し,それを「生」ビールと言って売り出したのです。

それに反発したB社は,酵母が生きていなかったら「生」ではないと主張し,生きた酵母を扱うため,雑菌が入らないように生産工程を見直し,輸送専用の冷蔵車を作るなど流通も含めた大改革によって,酵母が生きている新しい生ビールを開発しました。それでも賞味期限は2週間と短かったため,お中元で大量にやり取りするビールをおいしく飲んでもらうために,ビール券という仕組みまで作りました。

生ビール論争と呼ばれたこの熾烈な戦いは,公正取引委員会が「生ビールは加熱していないもの」と定めたことにより決着したのですが,B社の「酵母のためならなんでもする」といった,生き物に寄り添う姿勢はある意味正しく,私はとても良いなと思っています。

今でも,生ものを買うとそれを優先しますよね。「今日はお刺身を買ったから早く家に帰ろう」とか。「生」というのは,変化しやすいものに寄り添う態度をこちら側に要求します。

自然や生物はもちろん,人間や人間同士のさまざまな会話,関係性もある意味「生」であり変化しやすいものです。この変化していくことを制御し過ぎない,そのまま変化し得るものとして寄り添い,付き合うことは非常に重要な姿勢だと思います。これは高齢者を介護するときの態度など,ケアにも通じる視点です。

一方で,それは不確定要素が大きいため,関わる自らも不安定な状況に立たざるを得ません。例えば,国会の想定問答のように用意した原稿を読むのではなく,相手の質問に答えてリアルタイムで応答すれば,考えがまとまらないまま話し始めなければならず,そこには必ずリスクが伴います。しかしそれが「出会っている」ことの意味であり,自分のシナリオに相手を設定するのではなく,「生」の相手に向き合い尊重することだと思うのです。

見えないものの声を聴くことや,「生」の相手に向き合って寄り添うなど,「利他」というのは私たちが思うより「受け身」なことだと言えるのかもしれません。

共に試行錯誤する力

近年,さまざまな観点から多様性の尊重が叫ばれています。伊藤先生は,「身体性」というテーマの下,さまざまな障がいを持つ方々と直接語り合い,共に行動するフィールドワークを実践されていますね。そうしたところから得られた知見や,それに基づき企業に期待することがあれば教えてください。

常に変化していく,すなわち「生」の人間関係にひとたび飛び込めば,自分のやり方やルールが通用しないことはいくらでも起こります。人と人が一緒にいるということは,実に問題だらけなのです。しかし,自分のやり方を変えなければならないときにこそ新しい気づきを得られるのであり,小さな問題を前にしたとき,人は自ずと創造性を発揮します。障がいの研究をしていて興味深いのは,障がいという要素が机の上に一つ置かれるだけで,誰もがクリエイティブにならざるを得ない状況が生まれるということです。

その意味でフィールドワークと称して対象を観察するより,友達になるくらいの感覚で人と関わり,共に何かをやってみる・作ってみることの中に,より多くのヒントや発見があると言えるでしょう。

このとき,いきなり正解を求めるのではなく,手を動かし,あれこれ工夫をしながら試行錯誤をしていく中で,その場その場での解・状況に応じた合理性を見つけていくことが大切です。それが「倫理」だと私は考えています。

新しい概念をつくると,それはすぐに「〇〇しなさい」という上からの命令,つまり「道徳」と化してしまいがちです。あちこちで耳にする「多様性」もそのようなものの一つで,言えば言うほど実体がなくなっているように感じます。このような形骸化に陥ることなく,技術で社会を良くすること,「利他」を実現していくためには,制御したいという欲望を一旦捨て,自分でないものの声に耳を傾ける,その場に応じた解を見つけていくために共に試行錯誤を続けていく,それ以外に方法はないのではないでしょうか。多くの企業の皆さんがこのことを頭の片隅に留めて,社会課題の解決に取り組んでいただけたら嬉しく思います。

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