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Innovators’ Legacy:先駆者たちの英知科学・技術史から探るイノベーションの萌芽[第3章]ローマ・ヘレニズム科学技術概説(Part3)

2022年12月20日

麻生川 静男

麻生川 静男

  • 1977年京都大学工学部卒業。1977年〜1978年ドイツミュンヘン工科大学短期留学。1980年京都大学大学院工学研究科修了,住友重機械工業株式会社入社。米国カーネギーメロン大学工学研究科に留学し,帰国後はシステム開発,ソフトウェア開発事業などに従事。徳島大学工学研究科後期博士課程修了。2000年に独立し,複数のITベンチャー企業で顧問を務め,カーネギーメロン大学日本校プログラムディレクター,京都大学産官学連携本部准教授を歴任。現在,リベラルアーツ研究家として講演活動や企業研修に携わる。著書に『本物の知性を磨く 社会人のリベラルアーツ』(祥伝社),『教養を極める読書術』(ビジネス社)など。インプレス社のWebメディア,IT Leadersに『麻生川静男の欧州ビジネスITトレンド』を連載中。博士(工学)。

デジタル技術の発達やビジネスのグローバル化,それに伴う企業活動の多国籍化を背景に,技術開発に携わるエンジニア・研究者にも分野を超えた幅広い視野と柔軟な思考が求められている。その中でも特に欠かせないのは,今日の社会のあり方から私たちの生活の隅々に至るまで,絶えずさまざまな変化をもたらし,大きな影響を与えている科学・技術なるものの本質を俯瞰的にとらえる視座であろう。

本連載では,リベラルアーツ研究家として多彩な啓発活動を展開している麻生川静男氏が,古代から近代へと至る世界の科学・技術史をひも解きながら,これからのイノベーションへの手がかりを探っていく。

目次

1. ローマ・ヘレニズムの技術

ドイツの大数学者のカントールはローマ人の特性について,「ローマ人の全精神的素質は,純粋科学とはまったく異なった分野に向けられていた」と指摘する。ダンネマンはこの言葉を『大自然科学史』で引用したあと,ローマ人は気質的に技術に向いていたとして,次のように述べている。「……ローマ人は芸術と科学の分野では,巨匠とならなかった。むしろ技術の開発が彼らの才能にも,彼らの要求にも適していた。彼らの事業の名残が,今日でも証明しているように,この分野において彼らは疑いもなくギリシア人を追い越した。」

ローマ人は純粋科学を好まず,プリニウス『博物誌』のような「百科全書的」な「博物的な自然科学」を好んだ。この傾向は技術でも見られ,ウィトルウィウスの『建築書』やフロンティヌスの『水道書』のような「百科全書的」な書が書き残された。ギリシャ人とローマ人は同じ分野でも知能の使い方が異なる。例えば,医学・医療の分野でいえばローマ人は人体に関する構造や臨床医学に興味がなかったが,公衆衛生には高い関心を持った。とりわけ水が重要だと考えた。それで,ローマには立派な上水道,下水道設備があった。また占領した地域のローマ軍のキャンプには病院を,また場所によっては公衆浴場を作った。

また建築についていえば,ギリシャ人はパルテノン神殿のような壮麗な建築物を好んだが,ローマ人の建築物は実用目的であった。ローマの水道建築の第一人者であるフロンティヌス(後述)は,ローマの水道建設を称えて,「人々のニーズに堂々と応えているこの水道を,無駄でしかないピラミッドや,有名ではあるが何の役にもたたないギリシャの建築物に比べて見よ」と,ギリシャ建築をけなした。

水道建築だけでなく,コロッセウムも結果的にはローマ人の生活の質的向上のためのものだということになる。しかし,歴史が示しているように,この傾向は極端にまで行きつき,貴族は庶民などまったく手の届かないド派手な享楽パーティに沈溺した。この様子はペトロニウスの小説『サテュリコン』の中のトリマルキオの饗宴や,アテナイオスの『食卓の賢人たち』で窺い知ることができる。

2. ローマの技術3分野

ローマの技術分野は広大なのでとてもすべてを紹介しきれない。本稿では(1)戦争,(2)建築・土木,(3)生活用品,の三つの分野に絞って述べよう。

(1)戦争

ローマは建国当初は小さな町であったが,戦争に継ぐ戦争で領土を拡大し,ヨーロッパから北アフリカ,中東にまで進出した。戦争に勝ち続けることができたのは何も精神論で「頑張って勝ちました」というだけでなく,強力な戦争道具を持っていたからだ。つまり,強力な戦争道具を製造する技術がローマの勝利に大きく貢献したのである。共和制時代(ざっくりいって,紀元前まで)のローマ軍の強さの秘密は,ローマ市民であった兵士の強い愛国心にあった。戦争に勝つことで,莫大な財宝と数多くの奴隷を獲得できたので,コロッセウムのようなローマの大土木建築が可能となった。ただ,皮肉なことに戦争に勝って領土が拡大し,大規模な荘園が開発されるにつれて,ローマ軍の主力であった自作農が没落した。そして,帝政期になって傭兵や外国人兵士が増えるに従ってローマ軍は弱体化し,ローマ帝国の滅亡につながった。

さて,第2章Part 3のギリシャの技術の項でも述べたが,戦争に勝つには強力な戦争道具が必要だ。まずカエサルの『ガリア戦記』の記述を見てみよう。

紀元前57年にカエサルのローマ軍がアトゥアトゥキ族(Aduatuci)の村に進撃すると,彼らは砦を築いて立てこもった。そこで,カエサルは敵から少し離れた所に攻城用の重厚な高い塔を建設した。アトゥアトゥキ族は初め,重い塔など動かせるわけはないと嘲笑っていたが,カエサルがそれを彼らの陣地まで動かしてきたので,驚いてすぐさま降伏した。また,コブレンツ市付近のライン川に橋を建設した際は,深い所で9 mにも達するという川に,推定で長さ140〜400 m,幅7〜9 mもの橋をわずか10日間で完成させた。現代のゼネコンでもこう迅速には作れないだろう! ローマの土木技術の高さを象徴する一コマだ。

別の例では,紀元70年にローマ軍がエルサレムを陥落させた戦争の様子が,ユダヤ人の将軍・ヨセフスの『ユダヤ戦記』に書き記されている。エルサレムは分厚く高い城壁に囲まれて難攻不落と思われた。そこで,ローマ軍は「牡羊(Battering ram)」を持ってきて攻めた。これは船の帆柱ほどの大きさの槌で,先端に牡羊の形をした鉄の塊が付いていて,これで城壁を衝くと地震のように揺れる。何度か打たれると,どんなに堅固で分厚い城壁でも壊れないものはないという。学校で習う歴史では「何年に,どことどこが戦争をし,誰が勝った」などの知識を学ぶだけだが,こういう実際の記述から自分なりに歴史的事変の具体的イメージを持ってほしい。私はこれを「歴史のヴァーチャル体験」といっている。

(2)建築・土木

ローマの土木や建築としては道路,水道,橋などが有名だが,ローマ人のユニークな発明としては集合住宅,床暖房などが挙げられる。ギリシャと比べると,ローマは建築資材と建築要素に特徴がある。ギリシャでは自然石(大理石)を切り出し,積み重ねて大建築物を作ったが,ローマではレンガとローマン・コンクリートを発明した

このローマン・コンクリートの材料はナポリの近くで採れる天然のシリカ質粉末のPozzolana(ポッツォラーナ)で,これに石灰を混ぜると極めて強固なセメントになることをローマ人が発見した。おかげでローマでは自由な形状の構造物が可能となった。一番有名な例はローマに今なお聳えるパンテオン神殿(Pantheon)だろう。これはギリシャ愛好家で建築マニアのハドリアヌス帝が紀元128年に建設した。高さは43 m,内径も同じく43 mなので,球がスッポリと入るような形になっている。天井には明かり取りとして9 mの窓がある。これを見ると,「2,000年近くも強度が落ちないコンクリートを,果たして現代科学は作れるのだろうか」と疑問に思う。

また,レンガやコンクリートは建築費が安くできるので,壮麗な建築物だけでなく集合住宅の建設にも使われた。集合住宅は現在同様,庶民が暮らす数階建ての団地やマンションのような建物であるが,今なおローマのフォロ・ロマーノの一角にその遺構を見ることができる。

これらの建物に多用されているのが,アーチとヴォールト(Vault)である。いずれも部材を曲線状に組み合わせることで,少ない部材で強度を確保する技法である。これらの技術は既に,メソポタミアやギリシャでも見られるが,広範囲の用途に使ったのはローマ人である。立体的な曲線部を持つ様式は,西洋の建築の面目を一新し,ローマ以降の建築物の基本的な構成要素となった。

貴族の家には床暖房が備えられることもあった。床暖房とは床下に高さ1 mぐらいの空間を作り,薪を燃やして温風で床を暖める,いってみれば朝鮮半島の伝統的なオンドルの大型版だ。一つの部屋だけでなく,複数の部屋も暖めるため,壁の隙間に温風を送るパイプを通した。また金に糸目をつけない富裕層の中には薪を燃やして温室を作り,冬の間に新鮮な野菜を栽培した人もいた。

スエトニスの『ローマ皇帝伝』では,皇帝アウグストゥスが「ローマをレンガの町から大理石の町に変えた」と自慢したと書かれているが,大理石は高価なので,骨格部分の構造はレンガで作り,表面だけ大理石で化粧した建築物も多い。こうした建築技術の進歩によってローマの市中に石造りの建物があふれた。ギリシャ建築では,建築物には装飾の一部として彫刻が置かれる。その影響を受けたローマでは多くの需要を満たすためギリシャ彫刻の名品のレプリカが多数作られて,さながらローマ市全体が野外博物館のようになった。元のギリシャ彫刻の多くが喪失してしまった今,これらのレプリカによって,われわれはギリシャ彫刻を知ることができる。

このようなローマの建築技術を集大成したのがウィトルウィウスの『建築書』だ。ウィトルウィウスは自身も建築家であり,ローマで数多くの建築物を建てている。建築の書といいながら,建築以外の技術,例えば水道,トンネル,水時計,起重機,戦争道具(カタパルトなど)についても記述されている。いわば技術の「百科全書」であり,当時の技術を知るには貴重な書物だ。これによって当時のローマ人の生活の様子をリアリティをもって知ることができる。

(a)実利的な目的をもった水道設備

日本は昔から雨が多く,良質の水に恵まれているので,川の水(表流水)や井戸水を使うことに抵抗感はなかった。しかしローマは湧き水を利用することにこだわった。それで,莫大な費用と労力を掛けて遠くから清冽な源泉の水を引いてきた。水道は防衛上の観点から地下に埋められた管が主体であったが,地上に見える部分では,渓谷を渡る水道橋がいくつか現存している。世界遺産のフランス・ニームの「ガール橋」が最も有名だろう。高さ48 m,橋の最大長さが250 m,川幅は150 mある。渓谷の地形が傾斜しているので橋は三段構造になっている。ローマから遠く離れたフランスでもこのような高度な建築物を造ることができたのは,高い技術をもったエンジニアがローマ帝国内に数多くいたからであると推測される。

さて,水道は延長が50 km以上にも上るものがいくつもあるが,勾配は平均的には1 km当たり25 cmぐらいなので,ほぼ水平だ。高度な測量技術がなければとても作れない。この高度な技術に関しては,紀元前1世紀のローマの行政官のフロンティヌスが,詳細な情報を『水道書』として書き残してくれている。それによると,ローマでは水道事業に携わっていた技術者だけで700名もいたという。ローマ帝国として,水道事業に相当力を入れていたことが分かる。また,水道建設だけではなく,保全事業や配水量にも言及している。水の使用量は皇帝用が2割,個人用が4割,公共用が4割だ。ローマ人は大量に引き入れた水を生活用水のためだけでなく,温泉やプールにも使った。さらに,皇帝のドミティアヌスはかつてコロッセウムで模擬海戦をさせた。あの広大な場所を水で満たし,軍艦を浮かべたことから,床が頑丈な防水仕様(water-proof)であったことが分かる。

また大浴場というのは,25〜50 mのプールや,温水,微温水やサウナのほかに,団らん室などもある一大レジャー施設である。カラカラ大浴場の建造には,労働者9,000人を投入して5年を要したといわれる。一度に1,600人が入浴できる大浴場だが,100年後,皇帝ディオクレティアヌスはさらに倍の3,200人が入れる大浴場を作った。大浴場には庶民だけでなく,貴族やさらには皇帝までもが入浴した。ゴシップ記事満載の『ローマ皇帝群像(アエリウス・スパルティアヌス)』には次のような記事が見える。

ある時,皇帝のハドリアヌスが入浴すると,見知った老兵士が背中を壁にこすりつけていた。どうしたのかと聞くと,老兵士は金がないので,背中を流してくれる奴隷を雇えないのだと愚痴った。ハドリアヌスは早速,老兵士に奴隷といくばくかの金を与えた。しばらくして,帝が浴場に行くと多くの老人が壁に背中をこすりつけていた。早速,ハドリアヌス帝は老人たち全部を呼び寄せ,お互いの背中をこするように言いつけた,という。

温泉が大好きなローマ人は,ヨーロッパ各地に遠征して,駐留する兵士のために温泉を掘った。現在もその跡がヨーロッパ各地に残っている(イギリスのバース,ドイツのバーデンバーデン,オーストリアのバーデン・バイ・ウィーン,ハンガリーのブタペストなど)。

このようにローマは,法の支配やローマ市民権という理念的なものだけでなく,庶民の実生活に密着した道路や水道という設備をローマ帝国の至るところに残した。それゆえ,ヨーロッパ人の生活に対するローマの影響力はギリシャよりはるかに大きい。残念なことに,ローマは水道,公衆衛生に熱心であったが,後の中世ヨーロッパではこういったことにはまったく無関心であった。

(3)生活用品

(a)ガラス

ローマの生活用品として後世に多大な恩恵をもたらしたのはガラスだ。ガラスは俗説ではフェニキア人の発明だといわれているが,紀元前数千年からエジプトにはあった。ガラスは当初,鋳物のように溶けたガラスを型に流し込んで製造していたが,シリア人が鉄の筒の先に溶けたガラスをつけ,吹いて膨らませる製造法を発明した。ローマではこの方法を大規模に採用して,生産高が従来の100倍から200倍ぐらいになった。同時に価格も劇的に下がり,庶民でもガラス器が買えるほど安くなったといわれる。というのも,それ以前はガラスは金とほとんど同じ価値であったようで,プリニウスには次のような話が見える。

「造営官のマルクス・スカウルスが財力を見せつけるために3階建ての仮設の劇場を作ったが,その時,合計360本の柱があり,1階の柱は高価なギリシャのヒュメトス産大理石,2階はガラス製,3階は木の上に金を貼りつけたものであった。とりわけ,ガラスの柱などは後世にも例のないほど法外な浪費だといわれた」(プリニウス『博物誌』36巻)

ローマではガラスを安価に製造するだけでなく,いろいろと化合物を入れて色ガラスを作り,それを組み合わせる技術を確立した。ガラスが安価に製造できることが,後にヨーロッパとイスラムで錬金術や化学が発達する一大要因となった。

(b)機械・メカニズム

ヘレニズム期とローマの技術で後世に大きな影響を与えたのが現在使われているメカニズム(機構)の発明だ。ギリシャ時代までにはてこ,車輪と車軸,滑車,くさび,ねじといった基本メカニズムは発明されていた。ヘレニズム期ではこれに加えて,スクリュー,カム,ラチェット,歯車のような動力伝達機構が発明された。これらの機構を組み合わせて大きな機械を作ったのがアルキメデスだ。とりわけ,紀元前214年にローマ軍がアルキメデスの住むシラクサを攻めてきた時に,大型クレーンなどでローマ軍を恐怖に陥れたことは,プルタルコスの『英雄伝』で有名な場面だ。アルキメデスは数学者,物理学者として超一流だが,エンジニアとしても超一流の万能人であった。

日本では室町末期に時計が入ってきてから,刀鍛冶職人が自力で時計の構造を理解し,数多くの和時計を製造した。その後,和時計で培った技術を応用して各種のからくり人形を制作したが,このような遊び心のおもちゃはギリシャにもあった。紀元前3世紀にクテシビウスは蒸気圧や水圧の仕組みを利用した消防用や揚水用のポンプの模型を作った。その後,ビザンティンのフィロンやアレクサンドリアのヘロンなどが各種のからくり機械を製造した。例えば,ヘロンは蒸気タービンの模型を作った。しかし,これらはいずれもおもちゃの域を出ず,本格的な産業機械にはならなかった。その理由の一つに奴隷制度が考えられる。戦争によって大量に安価な労働力となる奴隷を獲得できたのでわざわざ動力源を作る必要がなかったからだといわれる。しかし,本質的には当時の技術力では大きな動力を出すのに必要な精密加工ができず,また高品質の金属部品を作れなかったことが最大の理由であろうと私には思える。

ただ,彼ら(クテシビウス,フィロン,ヘロン)の機構学的なアイデアは,近世のルネサンス期にギリシャ文明が再評価されるとともに,レオナルド・ダ・ヴィンチなどの技術者によって熱心に研究された。現在,ヘロンの考案したメカニズムを解説した本(英語,ドイツ語)は容易に入手できる。またWeb上でも英語の本は公開されている。図が多く入っていて,見ているだけでも楽しめる本だ。先人たちの豊かな発想力を味わってみてほしい。

当時の高度な技術レベルを証拠立てる機械が1901年にエーゲ海のアンティキテラの近くで沈没船から引き揚げられた。「アンティキテラの機械」と名付けられたこの機械は,精巧に加工された多数の歯車が複雑に組み合わされていて,天体運行を計算する機械だと推測されている。これ一つだけでも,当時の金属加工技術と組み立て技術の高さが分かる。

総じて,ローマは科学の発展にはほとんど寄与しなかったが,技術面ではガラス製造と大土木建築に才能を発揮した。日本同様,ローマ人は本質的に実利思考の強い傾向があるといえる。

参考文献

[40]
(再掲)『古代のエンジニアリング ギリシャ・ローマ時代の技術と文化』,ランデルス(久納孝彦,宮城多孝仁・訳),地人書館(1995)
[61]
『ガリア戦記』カエサル(近山金次・訳),岩波書店(1942)
戦記としてではなく,戦争道具や土木関係の項目を拾い読みしてみよう。ローマ人のエンジニアとしての優秀さが至るところに見られる。同じヨーロッパといっても,地中海とそれ以外の地では戦争の仕方,戦争道具を作る技術力に天地を隔絶するぐらいの大きな差があったことが分かる。
[62]
『ユダヤ戦記』フラウィウス・ヨセフス(秦剛平・訳),筑摩書房(2002)
ヨセフスはユダヤの祭司の家に生まれた知識人で,紀元後66年から始まったローマ軍との戦いで陥落したエルサレムでユダヤ軍の司令官だった。エルサレムの堅固な城壁をめぐる熾烈な戦いの描写を読んでいるととても正常な精神ではいられないぐらい強烈な読後感が残る。ローマ軍の戦争道具の凄さをこれほど思い知らせてくれる本もないだろう。
[63]
『ウィトルーウィウス 建築書(普及版)』,ウィトルーウィウス(森田慶一・訳),東海大学出版会(1979)
本書を読むと,建築用語の多くがギリシャ語であることが分かる。つまり,建築の基本構造はギリシャ人が決めたということだ。この点が理解できると,欧米の歴史的建造物の多くがギリシャ様式の柱を持つ意味が分かるであろう。絵画が二次元の美の象徴とすれば,建築は三次元の美の象徴である。
[64]
『古代のローマ水道―フロンティヌスの『水道書』とその世界』,今井宏,原書房(1987)
筆者(今井氏)はフロンティヌスの『水道書』にどっぷりと魅せられて,文献調査だけでなく,実際のローマの水道の遺跡を調査し,この本を書いた。『水道書』の全訳も含んでいて,筆者の熱意が結晶し,ローマの水道に関するかぎり,これ一冊だけですべてが分かる立派な本だ。
[65]
『ガラスの道』,由水常雄,中央公論新社,(2011)
主として工芸ガラスの変遷を扱った本であるにもかかわらず,歴史的背景や現在の製造現場の様子,さらにはガラス工芸品の東西交易など,筆者(由水氏)のガラスに対する愛情にあふれる本だ。古代のガラス事情の情報源は,本論でも取り上げているストラボン,プリニウスのほかには『エリュトゥラー海案内記』(中公文庫)が挙げられている。
[66]
『アンティキテラ 古代ギリシアのコンピュータ』,ジョー・マーチャント(木村博江・訳),文藝春秋 (2011)
アンティキテラ島で発見された複雑な歯車機械の発見から内部構造までを解説した本である。それ以外にも,暦や月の運行に関する天文学的な知識もふんだんに盛り込まれている。
[67]
”The Pneumatics of Hero of Alexandria" Hero of Alexandria”, Bennet Woodcroft(2009)
[68]
”The Pneumatics of Hero of Alexandria”(PDF)
[69]
"Herons Von Alexandria, Druckwerke Und Automatentheater", Schmidt Wilhelm(2014)
[70]
An Illustrated History of the Roman Empire
参考まで,歴史的にローマがどのように領土拡大したか,その経緯をこのサイトにあるアニメーションで確認してほしい。
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