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Innovators’ Legacy:先駆者たちの英知科学・技術史から探るイノベーションの萌芽[第4章]イスラム科学技術概説(Part2)

2023年2月1日

麻生川 静男

麻生川 静男

  • 1977年京都大学工学部卒業。1977年〜1978年ドイツミュンヘン工科大学短期留学。1980年京都大学大学院工学研究科修了,住友重機械工業株式会社入社。米国カーネギーメロン大学工学研究科に留学し,帰国後はシステム開発,ソフトウェア開発事業などに従事。徳島大学工学研究科後期博士課程修了。2000年に独立し,複数のITベンチャー企業で顧問を務め,カーネギーメロン大学日本校プログラムディレクター,京都大学産官学連携本部准教授を歴任。現在,リベラルアーツ研究家として講演活動や企業研修に携わる。著書に『本物の知性を磨く 社会人のリベラルアーツ』(祥伝社),『教養を極める読書術』(ビジネス社)など。インプレス社のWebメディア,IT Leadersに『麻生川静男の欧州ビジネスITトレンド』を連載中。博士(工学)。

デジタル技術の発達やビジネスのグローバル化,それに伴う企業活動の多国籍化を背景に,技術開発に携わるエンジニア・研究者にも分野を超えた幅広い視野と柔軟な思考が求められている。その中でも特に欠かせないのは,今日の社会のあり方から私たちの生活の隅々に至るまで,絶えずさまざまな変化をもたらし,大きな影響を与えている科学・技術なるものの本質を俯瞰的にとらえる視座であろう。

本連載では,リベラルアーツ研究家として多彩な啓発活動を展開している麻生川静男氏が,古代から近代へと至る世界の科学・技術史をひも解きながら,これからのイノベーションへの手がかりを探っていく。

目次

1.イスラム科学を理解するポイント

通常科学史では,誰が,いつ,何を発見したかというような記述が多い。残念ながら,このような流儀でイスラム科学を捉えようとしてもうまくいかない。イスラム科学を理解するコツはコンテンツではなく,次の二つのポイントを押さえることにある。

(1)科学の伝承経路の理解

イスラム科学はギリシャ科学,とりわけヘレニズム科学を取り入れたが,それに古くから伝承されていたインド科学,古代バビロニアの科学,ペルシャの科学などが融合し,その上にイスラムの優秀な科学者たちの英智が結集してでき上がった。その後,イスラム科学はヨーロッパに流出して近代科学が生まれた。この,イスラムへの流入とイスラムからの流出の流れを理解することが重要だ。この変遷を地域的な観点から見れば次のようになる。

流入過程:ギリシャ(アレクサンドリア)→シリア・ペルシャ→イスラム圏全体

流出過程:イスラム圏(スペイン,シチリア,コンスタンティノープル)→ヨーロッパ

(2)自然科学関係の事象だけでなく,宗教(イスラム教,キリスト教)やギリシャ哲学との関連の理解

科学史を理解するのであるから,せいぜい技術との関連事項だけを理解すればよい,との考えではイスラム科学の理解は難しい。前回,イスラム社会においてアリストテレスが果たした役割について説明したが,イスラムの一級の科学者たちはほとんどの場合,同時に一級の哲学者でもあった。その意味で,イスラムの場合は,「科学+宗教+哲学」をトータルで理解することが必要だ。

思い返せば20年ほど前,アメリカの国際政治学者のサミュエル・ハンティントンが『文明の衝突』という本を出版し,この中で今後世界は,イスラム圏と儒教圏がスクラムを組んで欧米に対抗すると予言した。図らずも,2001年のアメリカ同時多発テロ事件でその予言の一部が実現した。その後,アルカイダやイスラミック・ステートなどの争乱で欧米とイスラムの間に緊張が高まった。

ヨーロッパとイスラムは,千数百年前のイスラムのスペイン征服以来さまざまな形でお互いに影響を及ぼしてきた。スペインや中東で実際のイスラム文化に触れたヨーロッパ人は,イスラム文化に限りなき憧憬と羨望を抱いた。それに対して,イスラムは宗教的寛容からヨーロッパに文化面,科学技術面で多大な恩恵を施してきた。しかしヨーロッパは宗教的対立意識から十字軍を起こし,さらには19世紀には英仏のイスラム諸国の植民地化のような侵略行為を行ったため,双方の間に不信感が生まれた。特に,イスラム側では一部の人たちの間に,ヨーロッパに対するルサンチマン(怨み),猜疑心,敵対的感情が広まり,それが現在の反欧米争乱の原因の一つとなっている。しかし現実にはイスラムの多くの若者は欧米各国に留学しているし,またそれぞれの国では数多くのイスラム系住民が一般市民として友好的に暮らしている。このように,欧米とイスラムの関係はアンビバレント(不可解)な面がある。

われわれ日本人は彼らの深層心理に分け入り,本当はどのように思っているのかを探ることは不可能だが,科学史にまつわる上記の二つのポイントを理解することで,欧米とイスラムの間に横たわる感情の深層部分に触れ,ひいてはグローバルイシューを理解するのに役立つと私は確信している。

2.イスラム科学発展の経緯

図1|ジュンディーシャープールに残る世界最古の大学Gondishapur University 図1|ジュンディーシャープールに残る世界最古の大学Gondishapur University 出典: http://antikforever.com/Perse/Parthes%20arsacides/ctesiphon.htm

イスラムの初めの王朝はウマイヤ朝である。征服した地域の一部(シリア,パレスチナ,エジプト)では社会的にも私的にもギリシャ語が頻繁に使われていた。それにもかかわらず,ウマイヤ朝時代にはギリシャ語の哲学や科学にはほとんど関心が払われなかった。8世紀半ばに興ったアッバース朝ではギリシャの哲学と科学が重視され,多くの書物が翻訳された。イスラムで科学が盛んになったのはこの時期の翻訳運動がきっかけである。そもそも,この翻訳運動は,アレクサンドリアにあったギリシャ哲学と科学が東方のシリア地方に伝播したことに端を発する。この経緯を調べていくと,キリスト教が大きく関わっていることが分かる。

というのは,キリスト教のネストリウス派が431年に宗教会議で異端とされたので,ネストリウス派の信者たちは東ローマを脱出してシリアのエデッサに移った。自分たちの信仰を布教するために,聖書はじめ宗教関係書をギリシャ語からシリア語に翻訳したが,同時に,宗教以外の哲学や科学の書物をギリシャ語からシリア語に翻訳した(ネストリウス派以外にも,単性論派も翻訳には大きな役割を果たしたが,ここでは話を簡略化して,単性論派の説明は省く)。

その後,ササン朝ペルシャの王朝時代にはこれら,ネストリウス派の学者および翻訳グループがジュンディーシャープールに移った。それに加えて,東ローマ帝国のユスティニアヌス帝が異教集団とみなしてアテネのアカデメイアを閉鎖した際,多くの学者がホスロー一世の保護を求めて同じくジュンディーシャープールに移ってきた。その結果,この地にシリア語によるギリシャ哲学・科学の一大拠点が形成されることとなった。

アッバース朝の初期のカリフ(マンスール,マムーン)たちはギリシャの哲学と科学に多大な関心を持ち,翻訳を強力にサポートした。その一環としてジュンディーシャープールの学者や翻訳グループはアッバース朝の都・バグダッドに移るよう命じられた。そこでギリシャの哲学と科学はシリア語からさらにアラビア語に翻訳されてアラビア科学に隆盛をもたらした。この時,幸運なことに唐の製紙技術がイスラムに伝わっていたため,紙が潤沢にあったので,翻訳運動がスムーズにいった。

以上の翻訳運動は8世紀後半(750年)から約150年続き,この間に主要なギリシャ語文献(哲学,科学)はほぼ翻訳し尽くされた。しかし,文学,歴史の書物は翻訳されなかったし,ラテン語の科学書も翻訳されなかった。つまり,イスラムにとってこれらのものは重要ではなかったのだ。この意味で,イスラムの科学はローマを飛ばして,ギリシャの直系のような位置づけになる。一方,ローマがギリシャから引き継いだのは,極言すれば芸術も含め技術と弁論術といえる。結局,ギリシャ科学をベースにイスラム科学は発展し,10世紀,11世紀には,アラビア語で書かれた著作はギリシャの水準を越えイスラム科学は黄金期を迎えた。12世紀になって,イスラム科学の著作や,ギリシャ語からアラビア語に翻訳されたギリシャ科学は,アラビア語からラテン語に翻訳され,それによってヨーロッパの科学技術水準は一挙に高まった。が,同時にイスラム科学の光芒は失われた。なお,アッバース朝の翻訳運動に関しては『ギリシア思想とアラビア文化(ディミトリ・グタス)』が詳しい。

3.翻訳された科学書

この時ギリシャ語から最終的にアラビア語に翻訳された書物を見れば,イスラムが何に興味を持っていたかがよく分かる。彼らの最も重要視した科学者は,アリストテレス,プトレマイオス,ガレノスの3人であった。アリストテレスは科学というよりむしろ哲学の観点から,とりわけイスラムの神学理論構築のため何度も全訳された。プトレマイオスの大著『アルマゲスト』は5回(以上)全訳された。この一事をもってして,いかにプトレマイオスが重要視されたかが分かる。ギリシャの医学といえばヒポクラテスもあるが,イスラムではガレノスの医学がもてはやされた。それは,ガレノスが解剖学者としての優れた腕前で骨,筋肉のほかに血管,内臓について詳細に記述し,生命や病理に関する理論を確立していたからである。イスラムにとって,医術はムハンマドが「学ぶべき知識」として宗教とともに重要だと発言したため,非常に重要視された。

4.イスラム科学

イスラム科学は幅広いが,とりわけ優れているのは, 医学+薬学,天文学+占星術,化学+錬金術,代数学+光学の分野だ。

ここでは注目すべき項目をかいつまんで紹介しよう。

(1)医学+薬学

イスラムの文化圏では一級の科学者というのはほとんどの場合,一級の哲学者でもあった。これは医学に関しても言える。アヴィセンナ(本名:イブン・シーナー)もその一人で彼が書いた『医学典範』はヨーロッパ中世はもちろん,18世紀に至るまで700年近くも,西洋世界では唯一ともいえる医学の教科書であった。

また「哲学者と言えばアリストテレス,注釈者といえばアヴェロエス」といわれたアヴェロエス(本名:イブン・ルシュド)は医者としても一流であった。医学分野の主著『医学大全』には,天然痘に二度かかる者はいないことや,網膜の機能の説明などがある。しかし,何といってもアヴェロエスはアリストテレス学者として有名で,彼の注釈は他のアリストテレス注釈を圧倒していた。ところが,驚くことに彼はギリシャ語を理解しなかったと言われる。例えてみれば,ギリシャ語や英語も知らない日本人が日本語訳を頼りにして,アリストテレスに注釈を付けるようなものだ。日本人的感覚からは何とも大胆というか,図々しいというか! ともかくもギリシャ語原文は読めなくとも,並みいる学者が瞠目するような注釈をつけたアヴェロエスの学識には敬服する。 彼は,宗教と哲学にはそれぞれ固有の役割があり,表面上は食い違いがあるにしても根本的には教理は一致すると考えた。この,真理は見かけ上二つあるとする二重真理説は,ヨーロッパに受け入れられてラテン・アヴェロエス主義を形成した。ヨーロッパ中世におけるアリストテレス理解はアヴェロエスの注釈を通してのものであった(前回,転職してきた部長が言及したアリストテレスのアラビア語の注釈とはアヴェロエスのことであった,と遅まきながら悟った次第であった)。

イスラムの医学,衛生制度,薬局制度は当時,世界最高峰であった。例えば次のような点だ。

  1. ヨーロッパでは,精神病患者というのは神の罰を受けた人,あるいは悪魔にとりつかれた人,という認識のもと,縛られたり,牢獄に閉じ込められたりして虐待されていた。それに反し,イスラムでは人間的に暖かく受け入れて治療していた。
  2. ヒポクラテスの四種の体液論やガレノスの血液循環説を実験結果から誤りだと断定した。ガレノスは血液の肺循環を見落とし,動脈と静脈は別系統だと主張した。これに対し,イギリス人ウィリアム・ハーヴィは1616年に血液の肺循環理論を発表し,ガレノスの誤りを正した。しかし,イブン・アン=ナーフィスはハーヴィより400年も前に血液の肺循環を見抜いていたことが,1924年にドイツ人の学者によって明らかにされた。
  3. 国家試験に合格し,開業証明書を得なければ医師として開業できなかった。そして,専門の分野のみ治療することを許された。医薬は分離されていただけでなく,分野も,内科,神経科,外科,整形外科,小児科,眼科と細分化されていた。外科の場合は,麻酔も使っていた。それで,腎臓結石,気管切開の手術をすることも可能であった。

また,公衆衛生の観点からは,バグダッドやカイロのような大都市には公衆浴場がいくつもあった。14世紀に大旅行したイブン・バットゥータの『大旅行記』にはトルコでは高官も公衆浴場へ行くとの記述も見える。

薬学のレベルの高さは,数多くの単語がヨーロッパ語に入っていることからも分かる[例:カンフル,アラバスター,エキス,チンキ,テリアカ(解毒剤)]

(2)天文学+占星術

天文学に限らないが,ギリシャ人とアラビア人(イスラム)の科学的探求の姿勢や方法に大きな差があることを,ドイツ人のジクリト・フンケは『アラビア文化の遺産』の中で次のように指摘する。

「ギリシャ人は常に普遍的なものをもとめ,自然現象に潜んでいる法則を見つけようとするのに対し,アラビア人は個々の問題が重要であり,同じ問題を繰り返し観察して反応を確認しようとした。つまり,アラビア人にとっては,法則性よりも精密・正確な記録が重要だと考えられた。」

この方面の差は天文に関しては次のような形となって表れた。ギリシャではアリストテレスやプトレマイオスのように天体モデルを考え,天体の運行法則を見つけようとしたが,アラビアでは天体観測を実際の生活の役に立てることをめざした。具体的には,祈りの時刻,ラマダンの時期に月が出る時刻,砂漠の中で正しい方角などを正確に知ることが重要であった。

829年,カリフのアル・マムーンがバグダッドに天文台を建設した。アル・バッターニー(アラビアの最大の天文学者)が精密な観測から『アルマゲスト』の間違いを修正し,さらに地球の大きさを非常に厳密に測定した。現在も使われている三角法を完成し,さらには天体観測の計算に必要な球面三角法も研究した。その他,アル・ハイヤームの暦は,5,000年にわずか一日の誤差しかないほど正確なものであった。

17世紀の天文学者のケプラーは天文学と占星術の関係を「天文学は賢い母だ。そして占星術はその愚かな娘だ。しかし,母親にとって,生活費を稼いでくれる娘が必要だった」と表現した。占星術は現在ではいかがわしい似非科学というレッテルが貼られているが,元をたどれば天文学(astronomy)と占星術(astrology)は同じ家の二つの扉ともいえるもので,化学と錬金術の関係と同じだ。

バビロニア(カルディア)とは異なり,アラビアにはもともと占星術はなかった。しかし,バグダッドに都を置いたアッバース朝にペルシャ文明が浸透した結果,占星術がアラビア人の公的な生活に姿を見せ始めた。バビロニアでは占星術は国家の運命を占う術として重要視され,占星術に長じた多くの宮廷神官がいた。しかし,紀元前539年ペルシャ王のキュロス大王がバビロンに入り,バビロニア王朝がほろぶと宮廷神官たちは職を失い,占星術を個人向けに改造した。すなわち,誕生時の天体の惑星配置からその人の運命を占うホロスコープを編み出した。これがローマに入り流行したのは,カエサルが暗殺される前後の時期である。初代皇帝のアウグスティヌスと第2代皇帝のティベリウスはいずれも占星術の熱心なファンであった。イスラムでは,アッバース朝での占星術はもっぱらホロスコープで個人の運命を占う術として流行した。

(3)化学+錬金術

図6| アレンビック―イスラムの化学実験装置 図6| アレンビック―イスラムの化学実験装置 出典: https://en.wikipedia.org/wiki/File:Drawing_and_description_of_Alembic_,_by_Jabir_Ibn_Hayyan_in_8th_century.jpg

前述したように化学(chemistry)と錬金術(alchemy)もまた,同じ家の二つの扉といえる。錬金術が興ったのは紀元1世紀ごろのヘレニズム期である。当時,アレクサンドリアではエジプト神・トトとギリシャ神・ヘルメスが習合した神であるヘルメス・トリスメギストスの名の下に神学,占星術,医学,錬金術,魔術に関する多くの書物が作られたが,きわめて秘教的であった。物質を変換させることが可能と考えて,卑金属を貴金属(金)に変える化学的手法が探求された。この過程で,各種の実験道具(例:アランビック,フラスコ)や薬品(例:硫酸,塩酸)などが考案された。この意味では,目的は似非科学といえるが手法や考え方はきわめて科学的と言える。もっとも,レバノン人のヒッティは著作『アラブの歴史』の中でイスラム化学の欠点をズバリ,次のように指摘している。

「イスラムの学者たちは現象を正確に観察し,データをせっせと蓄積した。しかし,そこからは現象を説明するまともな仮説は出てこなかった。イスラムは真に科学的な結論を導いたり,決定的な体系を打ち出すことを最も苦手とした。」

こういった欠点はあっても現在の化学的手法の多くはアラビアの錬金術に負っていることはアラビア語起源の化学用語からも分かる。(例:アルカリ,アルデヒド,蒸留,昇華,アマルガム,アンチモン,安息香,カリウム,ナトリウム)

(4)代数学+光学

イスラムの代数学をまったく知らない人でも,「アルジェブラ(代数学,algebra)」や「アルゴリズム(algorithm)」という名称は耳にしたことがあるだろう。これらの名称はイスラムの数学者・(アル)フワーリズミーに由来する。フワーリズミーの著書によってインド数字がヨーロッパに「アラビア数字」として広まった。イスラム代数学の伝統は,ウマル・ハイヤームで頂点に達する。ウマル・ハイヤームは現在は詩人として有名だが,彼の『代数学』にはデカルトの解析幾何に先行して,代数方程式を幾何学的に解く方法を紹介している。またイタリアの数学者・フィボナッチにも大きな影響を与えた。

光学は既にヘレニズム期のプトレマイオスによって研究され,その内容はアラビア語に翻訳された(現在,プトレマイオスの『光学』のギリシャ語の原本はなく,アラビア語の翻訳だけが残る)。イスラムでは,9世紀から既に視覚のメカニズムや光の放射,反射に関する研究が行われていた。その過程で平面鏡,球面鏡,凹面鏡,凸面鏡,集光鏡などが作られた。10世紀のアルハゼンは光の性質を科学的に解明した。例えば,日の出,および日没時に見られる薄闇は大気層による屈折作用だと正しく指摘している。さらに進んで,大気圏の厚さを推定した。それだけにとどまらず,眼球の構造とその働きについて,ガラスのレンズと同じく倒立像が網膜に写るはずだと考えた。アルハゼンが書いた『視覚論』,『光学宝典』は後にラテン語に翻訳され,ロジャー・ベーコンやデカルトなどヨーロッパの知識人に多大な影響を与えた。この意味で現代の光学はイスラムが発祥だといえる。

5.なぜイスラムの科学に関する書籍が少ないのか

さて,ここまで読んだ読者は,イスラムの科学はギリシャに劣らず高いレベルにあったことに驚くと同時に,「なぜ,イスラムの科学に関して学校ではほとんど(あるいはまったく)教えられていないのだろうか」と不思議に思うであろう。それこそまさしく,私自身がタトンの端本を見た時に「あの砂漠に科学?」と感じた疑問であった。この事情を探っていくと,科学のヨーロッパ中心主義に支配された近代日本の教育の偏向が見えてくる。

今でもそうだが,イスラム科学に関する単著は私の管見の限りでは科学技術史研究家の矢島祐利氏の2冊しかない。1965年に出版された『アラビア科学の話』と1977年に出版された『アラビア科学史序説』だ。また,単著ではないが,1978年に出版された伊東俊太郎氏の『近代科学の源流』には約100ページにわたりイスラム科学についてかなり詳しい記述がある。いずれにせよ,私が学生時代を送っていた1970年代にはイスラム(アラビア)科学の本は世の中にほとんどなかった,と分かった。これでは,私が社会人になるまでイスラム科学に無知であったのは無理もないと納得した次第だ。

それでは,なぜイスラム科学史の研究者が少ないのであろうか? その答えは,同じく矢島氏の『科学史とともに五十年』に書かれているが,修得すべき語学の多さと難しさが最大の原因であるようだ。現在,日本の学者の多くは英語しかできないが,昔は少なくとも英独仏の3か国語はできないと学者とはいえなかった。この三つだけでもマスターするには相当苦労するが,イスラム科学史にはアラビア語はいうまでもなく,ギリシャ語,ラテン語,ペルシャ語,加えてインドの影響も理解するにはサンスクリット語もできないといけない(矢島氏は,さらにイタリア語,スペイン語,トルコ語も挙げる)。さらに今回述べたように,ヨーロッパの科学史を理解していないとイスラムの貢献が分からない。それだけではなく,前述したようにイスラムの科学者は同時に哲学者でもあるので,宗教(イスラム教,キリスト教)とギリシャ哲学を理解していないといけない。つまり,イスラム科学史を研究しようと思うと,とてつもなく膨大な範囲の知識が必要とされるのだ。これだけでも大変なのに,さらに大変なのは,過去の科学者たちの原稿は整理されず,手書きのまま残っているが少ないのだ。三重苦どころか,九重苦にも相当する苦労が待ち構えているのだ。こういう事情があるので,イスラム科学に関する邦書は極めて少ないのである。

以上の理由から,これまではイスラム科学について知ろうと思えば欧米あるいはイスラム圏の学者の書いたイスラムの歴史,文化史などを丹念に読み,へそくりを貯めるように,ちびちびと知識を増やしていくしか方法がなかった。ところが最近になって急激にイスラム圏の科学技術に関する情報が増えてきた。それは,ユネスコがこの方面の知識集積を支援しているからだが,詳細は次回の技術に関する項目で述べる。

参考文献

[16]
再掲 『近代科学の源流』,伊東俊太郎,中央公論新社(1978)
イスラムの科学の各項目については,第6章と7章の「アラビア科学の開花」に詳しい説明が載せられている。
[80]
『ギリシア思想とアラビア文化』,ディミトリ・グタス(山本啓二・訳),勁草書房(2002)
著者はカイロ生まれのギリシャ系エジプト人である。タイトルから分かるように,ギリシャの文献(主として,哲学と科学)がどのような過程を経て最終的にアラビア語に翻訳されたかという翻訳運動を説明している。ギリシャ語から直接アラビア語に翻訳されるより,シリア語やペルシャ語を経てアラビア語に訳されたものの方が多いように思われる。この翻訳運動の詳細については,サートンの『古代中世 科学文化史』(日本語では第I分冊)にも詳しい説明がある。
[81]
『医学典範』,アヴィセンナ(檜學,新家博,檜晶・訳)第三書館(2010)
アヴィセンナの『医学典範』は全5巻であり,この日本語訳はその第1巻の全訳だが,それでも600ページもの分厚い書となっている。確かに,これが5巻分もあれば,内容の精粗はともかくとしても知識の分量に圧倒される。病理的解説も丁寧であり,病状への対処法も極めて親切である。1,000年近くも医学の最高峰の書とみなされたのも故なしとしない。
[82]
『大旅行記』全8冊,イブン・バットゥータ(家島彦一・訳)平凡社(1996〜2002)
14世紀の広大なイスラム世界を端から端まで旅行したといっていいほどの旅行記。当時のイスラム社会の実態がよく分かると同時に,異国人でも有能となれば国家の重要ポジションに就けるというイスラム社会のオープンさは,今日の日本ではとても考えられない。
[83]
『アラブの歴史』上下,フィリップ・ヒッティ(岩永博・訳),講談社(1982)
著者はレバノン系アメリカ人。文庫本ではあるが,上下巻で,1,500ページを超える分厚く内容豊かな本である。イスラム関連といえば,歴史,宗教,哲学に関する本が多いが,ヒッティのこの本は,それ以外にも科学技術や生活実態にまで踏み込んだ非常に幅広い内容を持つ。原書の英語版の出版は1937年であるものの,今なお出版され続けている,いわば現代の古典ともいえる。同じ著者の『シリア 東西文明の十字路』(中央公論社)にも,科学技術,翻訳運動など文明史的観点からの説明が豊富にある。
[84]
『アラビアの数学』,アリー・アブドゥッラー・ダッファ(武隈良一・訳),サイエンス社(1980)
本文がわずか100ページ程度の小冊子ではあるが,イスラム数学の発展を歴史的背景から,算術,代数,三角法,幾何学と要点を説明してくれる。イスラム数学の概要を知るには手ごろな内容である。
[85]
『アラビア科学の話』,矢島祐利,岩波書店(1965)
イスラム科学に関しては,単著としてはこれが一番まとまっているといえる。ギリシャ科学の流入,翻訳運動,12世紀ルネッサンス期のヨーロッパへのイスラム科学の逆流など,要点が過不足なく分かる。イスラム哲学に関しても一章割かれているが,イスラム哲学者の著作で近代西洋語に翻訳されているものは少ないという。
[86]
『アラビア科学史序説』,矢島祐利,岩波書店(1977)
イスラム科学について筆者が書いた数本の論文をまとめたものなので,章ごとに説明の粒度は異なる。その中では,アル・フワーリズミーの代数とアルハーゼンの光学についてが非常に詳しく書かれている。最後の章には「イスラムにおけるアリストテレス研究―とくにその科学について―」という題で,アリストテレスの自然学というのは,現代の観点でいえば「哲学」であると述べている。
[87]
『科学史とともに五十年』,矢島祐利,中央公論社(1993)
1903年生まれで,一生を科学史に捧げた碩学の回顧録。日本では,1950年代は科学史はまともな学問と見なされていない風潮があったと述べる。アラビア科学史の研究はサートンとフランス人のデュエムが先導した。しかし,まだまだ中世末(15世紀あたり)の科学史は不明な点が多いという。また,末章は日本の科学史についても触れている。
[88]
『占星術の世界』,山内雅夫,中央公論社(1983)
占星術に関しては専門書は多く存在するが,ここで山内氏の本を取り上げるのはわれわれのような学者ではなく社会人の知的探求のあり方に非常に参考になると感じたからである。これは文庫本ではあるが,小さな活字でびっしり500ページにもわたり,索引や参考文献もしっかりついている本だ。年代は有史以前から始まり,第二次大戦後の現代にまで及ぶ。さらに西洋だけでなく,東洋やアステカの占星術もカバーする,実に広大なテーマを実証的に記述している。山内氏は元ジャーナリストだけあって,退屈しそうなテーマでも時代背景や人物描写をはさみこみ,読ませる文章に仕立て上げている。このような記述から,よほど知的好奇心の旺盛な人であったと分かる。社会人として知的探求のために読書をするうえで,一つのロールモデルとなりうる。
[89]
『図説 科学で読むイスラム文化』,ハワード・ターナー(久保儀明・訳),青土社(2000)
この本はイスラム科学の多くの分野について分かりやすい解説をしている。アメリカで1982年から翌年にかけて五つの博物館で展示された「イスラムの遺産」の内容を解説したものである。著者はアメリカ人の立場から,現代社会の欧米人がイスラムの遺産について無知であることを嘆いている。なぜイスラムは科学に対して情熱を燃やしたのだろうか,しかし後にその情熱を失ってしまったのはどういう理由からかを考えてほしいという。
その答えを簡単に明かさず,多くの科学の分野について解説することで読者に答えを見つけられるだろうといっているようだ。その分野とは,宇宙論,数学,天文学,占星術,地理学,医学,自然科学,錬金術,光学である。
[90]
『アラビア科学の歴史』,ダニエル・ジャカール(遠藤ゆかり・訳),創元社(2006)
これはフランスで出版された『「知の再発見」双書』のうちの一冊である。同シリーズはほぼ毎ページに図があり,要を得た簡潔な文章なので,理解しやすい。ちなみに,この本の後ろに日本語の参考文献が数冊挙げられているが,このすべてが今回上に挙げている書と同じである。つまり,それだけアラビア科学に関する和書が少ないということだ。
[91]
『科学史』,木村陽二郎・編,有信堂(1971)
かなり古い本ではあるが、科学史の概略をざっと知るには手頃な本である。複数の専門家がそれぞれ専門の分野を担当している。とりわけ,第3章「中世の科学」では,ギリシャ科学の没落からビザンツ帝国(ビザンティン帝国・東ローマ帝国)からシリアにギリシャ科学が伝播され,最終的にアラビア科学として隆盛に至る様子が分かりやすく描かれている。さらには,アラビア科学が12世紀ルネッサンスを迎えたヨーロッパに入り,スコラ哲学を作り,最終的には17世紀の科学革命までつながる様子も分かりやすく説明されている。
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