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Experts' Insights:社会イノベーションをめぐる考察22世紀に向けたグランドチャレンジとは何か?Well-being研究の最前線

2019年7月

執筆者紹介

石川 善樹

  • 予防医学研究者
  • 1981年,広島県生まれ。東京大学医学部健康科学科卒業,ハーバード大学公衆衛生大学院修了後,自治医科大学で博士(医学)取得。「人がより良く生きる(Well-being)とは何か?」をテーマとした学際的研究に従事。専門分野は,予防医学,行動科学,計算創造学など。講演や,雑誌,テレビへの出演も多数。Habitech研究所長。
  • 著書『疲れない脳をつくる生活習慣』(プレジデント社),『最後のダイエット』,『友だちの数で寿命はきまる』(ともにマガジンハウス社),『健康学習のすすめ』(日本ヘルスサイエンスセンター)。最新著は『問い続ける力』(ちくま新書)。

目次

20世紀の光と影

科学の基本は「測定」である。測定することでデータ(Data)を取得し,そこから知識(Knowledge)を取り出し,政策や技術などの革新(Innovation)につなげていく。この「データ→ナレッジ→イノベーション」という流れを加速させることで人類は進化してきた。

私の専門分野である予防医学では,長らく「寿命」というデータに着目し測定してきた。例えば1800年,人類全体の平均寿命は29歳程度であった。もちろんその理由は,乳幼児がたくさん亡くなっていたことに起因する。その一方で,長生きする人も沢山いた。なぜ短命な人とそうでない人がいるのか。データを解析する中で,健康長寿に資するさまざまな知識が取り出され,健康政策や医療技術のイノベーションへとつながった。

その結果,何が起きたか。驚くべきことに,人類全体の平均寿命はなんと72歳まで延伸している。そして次の世紀をまたぐ頃には,82歳にまで到達すると推測されている。このような話を聞くと,おそらくみなさんの中で次のような疑問が湧き上がることだろう。

「それで人類は幸せになったのか?」

長寿社会の実現は,見果てぬ人類の夢だった。しかし,いざそのような社会が到来すると,「ただ単に長生きしてもしょうがない」とか,「人様のお世話になってまで生きたくない」などさまざまな意見が出てくるようになった。あえて単純化すれば,人類の関心が「命の長さ」から,よく生きるとは何かといった「命の質」にシフトしつつあるのだろう。その動きに呼応して,予防医学は「平均寿命」だけでなく「健康寿命(自立して元気でいられる期間)」,さらには「幸せ度や満足度(Well-being)」のデータ測定を始めるようになった。

例えば,世界の研究者を驚かせた日本のデータがある。2002年,Well-being研究の創始者であるディーナー博士らは,1958年〜1987年にかけて日本人の生活満足度がどのように推移したかを発表した。それによると,なんと日本人の生活満足度は戦後30年間ピクリとも変動がなかったのである。私自身,この結果をみて,「いったい人類の進化とは何なのか」という大いなる熟慮を迫られた。

というのも改めて振り返るまでもなく,これまで人類は「平均寿命」や「一人当たりGDP」などのデータを重視し,その改善をめざしてきた。なぜならその先には幸せな社会が待っていると信じてきたからだ。しかし,現実はどうか。確かに寿命は延びたし,経済的に豊かになり,生活も便利になった。それだけの進化があったにもかかわらず,「実感としての豊かさ」を感じられていないのが偽らざる現状なのである。

もちろん,これまでの努力が無駄であったわけではない。言うまでもなく,「病気・貧困・戦争」は長らく人類を苦しめてきた三大苦であり,それらを大きく克服した20世紀は後の歴史家から「黄金の世紀」として称賛されることであろう。しかし,苦しみを取り除きさえすれば,人々が人生に対して「意味・幸せ・満足」を感じられるわけではない。そのような現象がWell-beingデータを取り始めたことで分かってきたのだ。すなわち,マイナスを減らすということと,プラスを増やしていくことは,異なる営みである可能性が高いのだ。

今,国際社会では持続可能な社会の実現に向けてSDGsが推進されている。一方で,SDGsは主としてマイナスを減らすことが意図されており,ここまで議論してきたような「命の質(Well-being)」に関する観点が抜け落ちている。だからこそ2025年に開催される大阪・関西万博では,「いのち輝く未来社会のデザイン」というテーマを銘打ち,国際社会に対してSDGs達成はもちろんのこと,2030年で一区切りを迎えるSDGsのその先にどのような議論を行うべきか,「いのち輝く」というキーワードに想いを込めて発信しようとしている。

Innovation for Well-beingという挑戦

さて,ここからは私自身の取り組みについて少しお話ししたい。しつこくなるが,「データ→ナレッジ→イノベーション」という流れを加速することで今後も人類は進化していくと私は信じている。そのうえで,「Well-beingのイノベーション」こそ,22世紀に向けて求められるグランドチャレンジだと考えている。言うまでもなく,その基盤になるのが「Well-beingデータ」の取得だ。

「幸福度や満足度」といった極めて主観的でしかないものをどうやって測定するのか。

その基盤をつくったのがアメリカの世論研究者,カントリル博士である。人生をハシゴに見立て,一番上を10点(最高の人生),一番下を0点(最低の人生)とした場合,自分は今どこにいると思うかを答えてもらうのだ。

この極めてシンプルな手法は,世界中どこの民族であっても直感的に答えることができるため,今やWell-beingを測定する際のグローバル・スタンダードとなっている。実際,国連は毎年「World Happiness Report(世界幸福度ランキング)」を公表しているが,各国の幸福度はまさにカントリルの方法によって測定されているのだ。しかし,この測定方法には二つの決定的な問題がある。

一つは,人生を「ハシゴ」に見立てるという考え方が,極めて西洋的であるということだ。おそらくその原型は,旧約聖書の創世記に登場する「Jacobのハシゴ」にあり,上に行くほど天上に近づくという発想なのだろう。しかし日本には,「幸せすぎて怖い」という英語圏にはない発想があり,単にハシゴをのぼることをよしとしてこなかった。実際,先の国連の調査においても,日本人はあまり10点(最高の人生)をつけたがらない傾向にある。むしろ日本人は人生を「振り子」に例えることが多いのではないだろうか。人生には良いことも悪いこともあり,「最高」よりは「ちょうどいい状態」を理想としてきた。同様に,アジアや中東,アフリカではそれぞれ独自の視点で人生を捉えているはずで,それは必ずしも「ハシゴ」のようなものではないだろう。

もう一つの問題は測定頻度である。カントリル博士の考案した測定方法は,直接人に尋ねるというものである。しかし,人のWell-beingは動的なものであり,一日の朝と夜でまったく異なるものだが,現在はある特定の時点しか捉えられていない。つまり測定のデジタル化が進んでいないのだ。

これら二つの問題を同時に解決するため,私たちは今,「Well-beingの測定法」に変革を起こそうと狙っている。具体的には次のような試みだ。

  1. カントリル博士の考案した「ハシゴ」ではない形でWell-beingを再定義する。
  2. センサーやスマホなどを用いリアルタイムで世界170の国や地域でWell-beingを測定する。

想像してみてほしい。株価や天気と同様に,世界各地の人々のWell-beingがリアルタイムで把握できる時代が到来したら,そこからどれだけ多くの知識やイノベーションが生まれてくるだろうか。夢物語のように思えるが,同様の想いを持つ仲間は意外に多く,国際的な動きとして今まさに仕掛けているところだ。極めて地味な取り組みだが,私たちの想いに共感してくださる方がいれば,ぜひお声掛けいただけると嬉しい。

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