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Experts' Insights:社会イノベーションをめぐる考察これからの社会と幸せの真実(1)新たな階級闘争を超えて

2019年7月

執筆者紹介

矢野 和男

  • 日立製作所 フェロー
  • 1993年単一電子メモリの室温動作に世界で初めて成功し,ナノデバイスの室温動作に道を拓く。2004年から世界に先行してビッグデータ収集・活用分野を牽引。論文被引用件数は2500件,特許出願350件を越える。博士(工学)。IEEE Fellow。2014年上梓の著書『データの見えざる手』が2014年ビジネス書ベスト10に選出(BookVinegar)。

目次

「標準化と横展開」から「実験と学習」へ

20世紀は,フレデリック・ウインズロー・テイラーに始まる業務の「標準化と横展開」が広く実践され生産性を飛躍的に高めた時代であった。さらにこれを発展させたのが,コンピュータや生産機械であった。標準化されたルールをプログラムに記述することで,コンピュータは,その処理を高速かつ低コストで実現した。この標準化と横展開という考え方は,20世紀という,交通,エネルギー,通信,家電などの社会の基盤が大規模に構築された時代に合致したものだった。

今世紀に入るころから,この生産性向上ゆえに社会は大きく変わった。生産性向上による経済的余剰は,生きるための基本的なニーズが満たされた人々,即ち「中間層」を大量に生んだ。そして,さらにこの中間層は,より高次の要求を持つようになった。より高次の要求は,個人ごとに多様で,短期で変化するようになった。このため,皮肉なことに標準化や横展開では応えられなくなった。

その結果,二つのことが起きた。

まず第一に起きたのは,この変化や多様性に従来の延長で応えようとする動きである。標準化や横展開で対応できないことは,人の柔軟性で応えることが試みられた。人は,機械に比べ,柔軟で,多様な状況に対応できるからである。かくして大量の「サービス労働」が生まれ,先進国のサービス労働の比率は急速に増えた。例えば,日毎に機種や商品がめまぐるしく変わる携帯電話ショップやコンビニの店員であり,さらにeコマース用の倉庫作業者や宅配業者である。これは常に柔軟性が求められ,すべてを機械化するのが難しいため,人力に頼らざるをえない。また,これらの規模の生産性を追求するため,物流やバックエンド業務などのアウトソーシング企業が拡大した。

しかし,これには大きな問題があった。まず,労働の付加価値が低かった。結果として,報酬も社会的な地位も低い人が社会に増えた。そしてこれが,社会に格差を生む原因にもなった。日本は主に,この第一のアプローチにこだわった結果,世界の中での経済的地位が相対的に低下し,そして格差が拡大した。

第二に起きたのは,インターネットなどのITを活用し,データとアルゴリズムによって「変化と多様性」に応えることである。この新しいアプローチには,主に米国の起業家が挑戦した。例えば,検索サイトは,個人の今知りたいというニーズにウェブからの情報提供で応える一方で,その情報を使って,サービス業者と需要者である個人をマッチングした。その結果,この20年間にGAFA(Google/Amazon/Facebook/Apple)と呼ばれる,国家をも超えるような経済規模の巨大ビジネスに成長した。まずはネット上に載りやすいマッチングビジネスから,このアプローチは始まったが,これが今後,製造業,交通,エネルギー,医療などの,よりリアルで責任が重いビジネスにも拡大していくことが期待されている。

この第二のアプローチの主導原理は「実験と学習」である。変化や多様性に応えるには,何が効果的かは現実にやってみないとわからない。だから「標準化」したルールを「横展開」するのではなく,常に実験し学習することが必要なのである。もちろん,現実の顧客への責任を伴う事業活動においては「実験」の機会は限られる。だからこそ,その実験のかなりの部分をコンピュータ上においてデータを使って行うことで,少ない実験で多くを学ぶのである。それこそがAIやデータの役割である。この「実験と学習」を,データやAIを的確に使って進められる経営者や労働者は,経済的にも高い報酬を得て,社会的地位も高くなっている。これが今後,格差を拡げる原因になると懸念される。

全員が未知への探求者になる社会

ピーター・ファーディナンド・ドラッカーは,『ポスト資本主義社会』(1993年)で,この高付加価値を生む知識労働者の層と,低付加価値のサービス労働者の層との間に生じる「新たな階級闘争」が,今後の最も大きな社会課題となることを指摘した。「サービス労働の生産性の向上こそ,ポスト資本主義社会において,最優先の経済的な課題であるとともに,最優先の社会的な課題である」と,ドラッカーは25年以上前に述べている。カール・ハインリヒ・マルクスが歴史的な必然と予測した「資本家と労働者」との階級闘争は,テイラーに端を発する生産性向上によって回避できた。しかし今,別の形の階級闘争が現実になることが懸念される状況なのである。

この新たな階級闘争を回避するために我々は何をすべきだろうか。

それは,サービス労働の生産性と社会的尊厳を高めることである。そして,サービス労働者を知識労働者と一緒に「実験と学習の主役」にすることである。

ここで重要なのは,データや情報の活用には,二つあるということである。第一が,既に知っていることを正しく行い,間違わないようにすることである。これを「活用」と呼ぶ。第二は,まだ見ぬ未知の可能性を見つけることである。これを「探索」と呼ぶ。この両者は全く異なる。多くのAIの活用の議論では,この区別がなされていない。この変化と多様性の時代には,「活用」は必要なことではあるものの,それでは付加価値が付かなくなったのである。価値を生むのは「探索」である。

今必要なのは,未知の可能性を見つけることである。社会も,宇宙を支配する物理法則から逃れることはできない。我々の前には無限の可能性がある。物質もエネルギーも有限である。地球の資源も有限である(これを物理学では,熱力学第一法則と呼ぶ)。一方,我々の未来の可能性は無限である。可能性の広がりは,順列や組合せの爆発的な拡がりによって,ほぼ無限である。有限の資源から無限の可能性が引き出せるのである(これを物理学では,熱力学第二法則と呼ぶ)。

我々は限られた経験から,ガイドラインを決めたり,ベストプラクティスを決めたりしている。多くの場合,これは我々の可能性を自ら制約している。囲碁で,コンピュータが人のチャンピオンに勝利した時に,我々は,これを目の当たりにした。コンピュータの打ち手は,序盤から盤面の中央部に打つなど,従来の定石や常識から大きく逸脱していた。そして,それは強かったのである。我々は定石や常識に自らを縛り付けることで,無限の可能性のごく一部しか見ないことにしていたのである。この限界をつくってきたのは,我々自身であり,広い意味で「標準化されたルール」である。

来る社会とは,全員が未知への探求者になるということである。そして仕事を通して,未知の可能性を開拓する人となり,社会から尊敬され,自らも尊厳を持つようにすることである。これは同時に,標準化された知識を横展開し,実行するだけの仕事はつくってはいけないということでもある。それは新たな階級闘争を生む社会悪の原因なのである。

ただし,これは容易ではない。AIやデータで機械的にできることでもない。特に難しいのは,いくら情報技術が発達しても,一人の人間が持ちうる情報や知識には限界があるので,多様な人同士が協力して,目的を達成する必要があるということである。即ち,AIやデータの時代だからこそ,コミュニケーションがこれまで以上に重要になり,それは経済的な格差や新たな階級闘争を避けるために必要なことなのである。

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