2019年9月
AIの本格的な社会実装に向け,倫理という側面が注目されている。AIが実社会で人間の権利や生命に関わる判断を迫られた時にどうするのか。その判断基準を設定あるいは規制する人間の倫理が改めて問われている。わたし自身の答えは案外単純である。倫理とは「Be nice to others」,つまり「他人に良くする」ということに尽きる。
倫理は長い間,神や宗教的権威によって支えられていた。それが西洋において人々が神から自由になっていく近代的過程で,倫理もまた神以外の何かに基礎づけられる必要に迫られた。18世紀以降,「理性」や「感情」による基礎づけなど,さまざまな議論が試みられてきたが,それらはことごとく失敗に終わり,その先には20世紀の世界大戦があった。
これらの戦争を通して世界が学んだのが「他者」という概念だった。神ではなく「自己」を中心に倫理を基礎づけしようとした結果,他者を害する行為に陥ってしまった。ならば倫理は他者と向き合うより他にない。戦後の思想・哲学はそこから組み立て直されたのである。特に1980年代以降,この問題は現代思想の分野で徹底的に議論し尽くされた。倫理は神や理性など超越的なものに基礎づけることはできない,他者に基礎づけるしかないという合意が形成されたのである。神でもなく完全無欠の理性的主体でもない「弱い」人間にできる倫理的実践とは,他者に良くすること以外にはない。AIやIoTなど新しいテクノロジーもこれを阻害しない限りにおいて認めるという方向に,今後の議論も進んでいくだろう。
他方,AIをめぐる倫理の議論ではトロッコ問題※1)がよく取り上げられる。同様に他者に良くする実践においても,Aさんに良くすることとBさんに良くすることがゼロサム※2)になったらどうするかというような論点もよく出される。
しかし,わたしに言わせれば,そのどちらも本質的な問題ではなく,一種の疑似問題である。なぜならこれらは非常に限定された条件下での思考実験にすぎないからだ。とかく人はどこかに真理や正答があるという前提に立って極限状態を想定したがるものだが,私たちが生きる現実世界には時間的・空間的なさまざまな条件が存在し,複雑に絡みあっており,そのような純粋状況はまず現れないし,現れるためには多くの条件を捨象しなければならない。であるならば答えのない思考ゲームに取り組むより,他者に良くするために,他者のこころやニーズを感じ取る力,他者に関与する能力を磨き続け,真の他者理解を深めることに力を注ぐべきではないか。そのための想像力を養うことも大きな課題である。
倫理的実践に関してハーバード大学教授で東洋哲学者であるマイケル・ピュエットは「礼」の問題に本気で取り組むべきだと提言している。
彼が例示するのは,パートナーに向かって「I love you」と言うアメリカ人の習慣である。この場合,本気で愛しているかを問うのは野暮であり意味がない。本当に愛している「かのように」愛しているということが大切であり倫理的実践であるというのだ。そのような振る舞いこそ両者の関係において「かのような」現実を作り出すことになる。
わたしたちはよく「心から本当にそう思っているのか」と問うが,これはいささか「真面目さ」に毒されていないだろうか。真面目だったら何でも許されるわけではないからだ。時には真面目さそのものを疑ってみることも倫理的態度の一つであろう。
ここで連想するのは,理性に基づく倫理を唱えた18世紀の哲学者カントの「嘘をつくことは時にゆるされるのか」という問題である。殺人者に追われた友人を家に匿った際に,追いかけてきた殺人者に家に友人はいないかと尋ねられた場合,どうするべきか。これに対し,カントは「殺人者であれ友人はいないと嘘をつくことはゆるされない」と結論づけた。たとえ友人が殺されても嘘をつかないこと,真面目であることが倫理的だということなのだが,この答えには誰もが疑問を抱かずにはいられないだろう。
身近な例で言っても,ガンを患い余命幾ばくもない人がいて,その人が精神的に余命宣告に耐えられない状態だとわかっているのに,真面目にそれを告げるのは倫理的と言えるのか。
こうした真面目さの由来を辿ると,実はこれも近代の「世俗化」というプロセスと深い関係がある。世俗化は,宗教的なものを公的空間から私的な内面へと追いやることでもある。「神は死んだ」と言われながらも,個人の内面において神は健在であり,それが心の声となって真面目であることを求めるのだ。このような世俗化の矛盾の中で真面目さは肥大化していき,息苦しさが増していった。また世俗化は一見不合理に思えるような儀式や文化的装置を次々と剥奪していったため,その結果,割り切れないものに耐える人間としての厚みが消えてしまった。今日の社会はその極限段階と言えるかもしれない。
そのような中でリチュアル(儀式)の果たす役割は非常に大きいと考える。前回でも「礼」について少し言及したが,家族や共同体が「他者と共に」,「かのように」振る舞うことこそがリチュアルの本質であり,それによって参加者の心が「変わる」という点が大切なのである。
例えば葬儀は,死者の魂の存在を神学的に問うことではなく,まるでそこに魂があるかのように共に振る舞い,皆で死を悼むことによって「心の落とし前」をつけるためのものなのだ。そのプロセスにこそ意味がある。病院からの直葬では死に向き合う過程がなく,残された者の心には重荷が残ったままとなる。
私たちは今こそ他者と共に関与し合う儀礼的なものを再評価する必要があるだろう。それは人間が他者と共に人間的になっていく豊かさにもつながる。
しかし,現代において古い儀礼をそのまま復活させることは不可能である。わたしたちは新しい儀礼,そしてそのための言葉を開発しなければならない。そして新しい儀礼にはある種のカッコよさ,美的要素が不可欠となるはずだ。カッコよければ誰もが参加したくなるだろう。つまり関係性や活動が広がるチャンスに満ちているということだ。これからの資本主義やテクノロジーが進んでいくべき道は,カッコいい関係性や美しさにある。ただし,それらは単なる快適さではなく,快適さに反する場合もしばしばだ。技術に問われているのは,部分的に何かを快適にしていくだけではなく,いかに美しさを伴う社会的な想像力を構築していくのかということだ。
社会は最終的には一人ひとりの人間の振る舞いや生き方によって形成される。他者に良くする,他者とのカッコいい関係を実践する先人のプラクティスを,何らかの形で指標化し共有する,あるいはより多くの人の実践を支えるなど,テクノロジーだからこそできることが数多くあるはずだ。その可能性に大いに期待したい。