2020年8月28日
人類と感染症の歴史は長い。最初の感染症拡大の記録は,紀元前3000年ごろにさかのぼる。人々が狩猟生活から農耕生活に移行し,中東のメソポタミア地域にヒトとヒト,ヒトと家畜との密な定住環境が形成されると,これまで風土病であった 麻疹 の感染が拡大した。麻疹感染はしばらくの間,単発的に周辺地域での流行を繰り返した後,遠隔地域との交易拡大に伴い,世界各地へと伝搬を開始した。古代ギリシャ文明の衰退や,新大陸先住民への壊滅的な打撃を引き起こしながら,麻疹は数千年をかけて世界の隅々まで伝搬し,ヒトとの共生関係を構築している。
感染症はこれまで,人々のライフスタイルや社会制度の変革を生み出してきた。例えば,中世ヨーロッパで流行が拡大した黒死病は,東方からの交易船によって同地域に持ち込まれ,猛威を振るった。ヨーロッパの人口の約3分の1が犠牲になり,労働人口が減少したが,その一方で,賃金が上昇し人々の生活水準が向上したと言われている。荘園の付帯物と捉えられていた農民の地域をまたがった流動性が高まり,荘園の持ち主である領主,教会の影響力が低下した。この傾向は,貨幣経済の拡大とその後の新大陸からの安価な銀の流入によって加速し,近世ヨーロッパの下地となる,主権国家形成につながった。
ヒトの国,地域を越えた往来が活発な現代では,感染症の伝搬速度は速い。2019年末に発生したCOVID-19感染は急速に世界に拡大し,約2か月後にはパンデミックを引き起こした。各国は都市封鎖や外出規制などにより,個人の行動を制限した。その結果,サービス業を中心とした景気停滞が発生した。ライフライン側で制限が起き,人々の購買行動が急激に抑制される。感染症パンデミックは,供給ショック型の経済停滞を引き起こしていると言える。自らの消費意欲の減退による需要ショック型の経済停滞と異なり,供給ショックは人々のマインドへ直接的な影響を与える。
そしてCOVID-19は,感染が短時間で急拡大したのと同じように,供給ショックを介して,急速度でかつ世界的に,私たちのライフスタイル,社会制度に変化をもたらすと考えられる。供給ショックによるライフスタイルの変化,という観点では,パンデミックではないが,1970年代の石油ショックが参考になるだろう。この時,原油価格の上昇により,多くの国で消費者物価指数が大きく上昇した。経済が停滞し,地球資源の有限性が指摘され,環境問題深刻化や経済格差など,成長の限界への懸念が拡大し,社会課題解決に向けた議論が各国で活発化した。省エネルギー,省資源に対する人々の意識が高まり,自動車の排ガス規制など,製品・サービスに関わる環境規制の整備も各国で進展した。
しかしその後,国境を超えたヒト,モノ・サービス,資金の移動・流通が加速すると,新興国・地域開発を成長エンジンとして,世界経済は成長を継続した。私たちはいつの間にか,成長の限界を忘れてしまったかのように,効率性,収益性を重視した工業化,商業化をグローバルに加速してきた。今回のパンデミック拡大は,持続的社会形成の重要性を今一度私たちに再認識させる機会になると考えられる。
ポストパンデミックにおける社会変化 パンデミック感染症拡大は,私たちに経済格差の拡大,地球資源の有限性,地球のCO2吸収力限界による環境負荷,安全衛生確保といった「忘れていた」社会課題を再認識させる。人々のライフスタイルの変革が始まるとともに、企業に対しては持続的社会形成への貢献がいっそう求められる時代が到来する。
私たちは,事業活動をグローバルに拡大し,経済性,効率性を追求してきた。しかし,ポストパンデミックの世界では,行き過ぎたショートターミズム(短期利益志向)への反省から,長期的な視点,いわゆるロングターミズムに立った,社会制度変革とインフラ再構築への機運が高まっていく。
日立はエネルギー,インダストリー,モビリティ,ライフ,ITの5セクターで,社会イノベーション事業をグローバルに展開している。各セクターにおいて,事業運営の経済性に加え,長期的な社会・環境課題解決といった社会性とのベストバランスを実現するイノベーションが求められると考えられる。例えば,ポストパンデミックの社会インフラ,企業のサプライチェーン,生活環境の変化に対して,以下のトレードオフとも言える課題への対応が重要になるだろう。
通信,モビリティ,エネルギー,金融サービスなどへの新規参入増加によるライフラインインフラサービスの多様化,個人・企業の生活・商業活動エリアの分散化が進む中,耐災害などインフラの安全・安心設計,環境負荷軽減と運用経済性をどのように実現するか。企業収益,家計維持のためのインフラコスト低減ニーズが拡大する中,需要家のインフラサービスへのアクセシビリティをどのような社会制度,技術を活用して向上させていくか。
デジタルによる商流・金流の小口化・多頻度化・実時間化は今後も加速する一方,開発・調達・生産の過度な特定地域への依存解消に向けた地域分散型サプライチェーンの構築への取り組みが進展していく。サプライチェーンの時間分散,地域分散が拡大する中,製品・サービスのオンデマンドデリバリーをどのように実現していくか。また,地域分散化が進む企業のグローバルサプライチェーンに対して,ガバナンス,コンプライアンスリスク耐性強化,循環経済形成への対応をどのように進めていくか。
在宅,時短,クラウドソーシングなど,多様化するワークスタイル環境実現に向けた自治体,企業施策整備の進展,フィジカルディスタンシングの拡大に対して,人と人とが社会的・心理的につながる環境をどのように創出するか。ソーシャルセキュリティ,公衆衛生向上を目的とした個人の行動追跡情報,医療情報へのアクセス規制緩和に関する議論が活発化していく中で,パブリックセーフティ強化とプライバシーリスク低減をどのようにして両立するか。
文明の発達は,感染症を生み出したが,同時に技術の発展も促した。人々は,農耕生活に移行し,地域に定住を始めると都市国家を形成した。人口が増加すると,牧畜の拡大や農具による農耕法の改善, 灌漑 による農業生産性の飛躍的な向上が実現した。余剰農産物の増加は交易の拡大を生み出し,交易記録や生産管理のための文字の発明に結びついた。
技術革新は人間の生存本能と密接な関係にある。10世紀前後からアジアで始まった,鉄鋼と灌漑技術の発展の背景には,中国沿岸部や,インド,中東における人口の自然増,流入の急速な拡大がある。民族間の衝突拡大に対応するため,また湾岸,山林,砂漠地帯において,農耕面積拡大に頼らず,食糧や必需品を増産し,生活レベルを維持するためには農具・武具,土木,水力利用の分野での技術革新が必要だったわけである。また,18〜19世紀の産業革命には,主権国家間の競争激化や小氷期によるヨーロッパの気候寒冷化が遠因として存在している。
パンデミックの拡大は,人類の生存本能を呼び覚ますことになるだろう。人々のライフスタイル,生活環境の大きな変化に対応した革新的技術登場への期待が高まっている。特に資源の有限性顕在化や環境問題の深刻化,安全衛生確保に対しては,人々の消費意識を形成する社会的な習慣,文化的背景を踏まえた,よりよい社会環境創出のための自然科学,社会科学研究が重要である。人間の生態,生活行動を対象とした広義のライフサイエンスの重要性が増加し,先進的な社会実験を通した,科学技術と心理学,社会行動学などとの融合的な研究開発の推進が,今後一層求められると考えられる。
技術革新の地域多様性も高まっていくだろう。中世の時代,工業技術は人の技能として定着して初めて機能するものであった。技術と人は切っても切り離すことができない密接な関係だったと考えられる。しかし,産業革命以降の機械化は,技術再現手段を機械やシステムに担わせることで,技術と人との密接な関係を解消してきた。そして現代のデジタル化の進展は,仮想環境上での技術の再現性を高め,技術と機械・システムとの密接な関係を解消していく。ネットワークを介し,距離を越えた工業技術・技能・知見に関わるソフト資産の流通,交流が加速し,各国・地域の社会環境,習慣に根差した,多様な背景を持った技術革新への取り組みが各地で活発化する。技術革新の 萌芽 を捉えるためのマルチリージョナルかつオープンな研究開発網の構築が,企業により強く求められる時代が到来するだろう。