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Experts' Insights:社会イノベーションをめぐる考察再生医療の現場から挑むインクルーシブ社会の実現医療をモノから人間中心のコトにつくり替える

2020年11月4日

執筆者紹介

煖エ 政代

  • 株式会社ビジョンケア 代表取締役社長
  • 1986年京都大学医学部卒業。1992年京都大学大学院医学研究科博士課程修了。京都大学医学部助手を経て1995年ソーク研究所研究員。網膜治療に幹細胞使用の可能性を見いだす。2006年に理化学研究所へ。滲出型加齢黄斑変性に対する自家iPS細胞由来網膜色素上皮シート移植に関する臨床研究を開始し,2014年9月に第一症例目の移植を行う。また2017年3月には他家iPS細胞由来網膜色素上皮細胞懸濁液による移植を行った。2019年8月より現職。

目次

インクルーシブ社会とは

今,社会が実現をめざす理念の一つに「インクルーシブ(inclusive)」という考え方がある。近頃よく耳にするこの言葉は「包括的/すべてを含んだ」という意味を持ち,性別や人種,社会的ないし経済的地位,障がいの有無など,個人のいかなる属性によっても排除されることなく一人ひとりが社会の構成員として尊重され包摂されている状態を指す。すなわちインクルーシブな社会とは,共生社会とも言い換えることができる。

ここでは,網膜再生医療の治療づくりから見えてきたインクルーシブ社会実現にあたっての課題とそれを乗り越えるための手掛かりを示すことにより,その歩みを前進させる一助としたい。

再生医療と全人的ケアの要請

私は眼科医として診療に従事しながら,20年以上にわたって網膜再生医療の研究を行ってきた。眼の疾患には変性疾患や遺伝性疾患など難治性のものもあり,目の前の患者さんの暮らしを少しでも良くしたいという思いからである。

この新しい治療法を開発する研究は,2014年,本人のiPS細胞からつくった網膜細胞シートを移植する「世界初のiPS細胞の臨床研究」と,それに続く他人のiPS細胞を用いた他家移植の成功によって,実際に患者さんを治療する「実用化」の段階へ向けて大きく前進することができた(ちなみにこの細胞シートの自動培養装置を手掛けるのが日立である)。

そして,私がこの再生医療と同じように重要だと考えているのが「ロービジョンケア」である。ロービジョンケアとは,視覚障がいによって生活に何らかの不自由を抱えるすべての人に対する支援の総称で,医療的ケアから教育的,職業的,社会的,福祉的,心理的ケアに至るまで広い範囲にわたる支援を指す。

眼の疾患は進行に伴い視力が著しく低下した際,その後どのような人生を送ることになるのか,大きな社会的不安を伴うのが特徴である。誤った情報や情報不足が招く誤解などにより,人生を諦めてしまったり,引きこもりがちになったりしてしまう人も少なくない。社会には先に述べたようなさまざまなケアがあり,それによって社会生活を送れることはもちろん,実際に社会で活躍している人が多いと知ることは,その後の人生に希望をもたらす。

このようなことを強く実感したのは,再生医療の対象となる網膜の難病の専門外来を担当していたときだ。患者さんの人生をより良いものにするためには「医療技術」としての治療だけでは不十分で,その後の社会生活に関する正しい情報提供をはじめ,心身のケアなど患者さんの気持ちに寄り添った全人的ケアが必要になるのだ。

これは眼科に限ったことではなく,AIが診療しロボットが手術する時代が本格化したとき,全人的ケアは人間である医師に残された最も重要な役割となるはずである。

前述のように再生医療は実際の治療に向けてスタートを切ったものの,今は腫瘍ができないとか拒絶反応をコントロールできるという安全性が実証された段階で,残念ながら,多くの人が期待する「元通りになる」ような飛躍的な回復はまだ望めない。したがって術後のリハビリや,わずかに回復した視機能を最大限に生かすデジタルデバイスや補助機の使用訓練のほか,就労・就学支援などのロービジョンケアが不可欠であり,再生医療と全人的ロービジョンケアは両輪として発達させていかなければならない。

このような考えの下,先ほどのiPS細胞の臨床研究が多くの関心を集めたことをきっかけに,2017年,神戸アイセンターが設立された。これは「視覚障がいの課題をあらゆる手段で解決する」ことを目的に,研究,治療開発,眼科医療,リハビリや社会復帰支援などの施設を一つにする世界でも稀な試みである。

インクルーシブ社会を阻む社会の分断とその克服

全人的ケアを実現させていくためには,患者さん自身へのケアはもちろん,視覚に障がいを抱えるすべての人が安心して暮らし,活躍することのできる生きやすい社会をつくることも大切で,そのためには受け入れる側の社会の意識やルールから変えていく必要がある。その一歩となるのが,障がいを抱える人に対する正しい認知や理解の形成である。なぜなら驚くほど社会は彼らのことを知らないからだ。例えば,視覚障がいというのは全盲のほかに,軽度から重度まで障がいの程度にグラデーションがあり,その見え方の違いも実にさまざまである。また,大部分を占める軽度から中度の障がいを持つ「ロービジョン」と呼ばれる人たちの多くは,数々の工夫や類まれな才能の発揮によって企業の中で私たちと共に働き,社会に貢献しているにもかかわらず,その存在はほとんど気づかれていない。これは,彼ら自身が障がい者と認知され,無理解から起こる不当な差別や不利益を被ることを恐れ,自らの障がいを隠しながら生活していることも一因であろう。

このように埋もれた彼らの存在を社会に向けて正しく情報発信していくことは,彼らを知る眼科医療に携わる者の責任であり務めでもある。視覚障がいとはどのようなもので,それを抱える人たちはどのように生きているのか。私たちは今,彼らの本当の姿を知ってもらうための社会活動「isee! 運動」を展開している。

そもそもこのように彼らの存在を見えづらくさせている原因は何か。それは「健常者」と「(重度)障がい者」という枠組みによって社会が分断されているという,より根深い問題である。障がいの程度は多様なグラデーションであるにもかかわらず,伝統的に福祉は重度の障がい者のみに焦点を当てて保護ないし補助の対象としてきた。一方でそれとは対照的に,社会は健常者に焦点を当てて,まるで障がい者がいないかのように社会を築いてきた。その結果,両者の「間」にいる多くの障がい者が見過ごされるだけでなく,その間に深い溝が生まれ,社会は分断されてしまった。前述した眼の難治性疾患の患者さんが抱える大きな社会的不安も,「健常者」の側から「障がい者」というまったく異なる世界に移るという,両者の分断がもたらす認識によるものだ。このままではどれだけインクルーシブな社会の実現を訴えても,その溝は決して埋まることがないだろう。

この問題を解決する手段は,社会の中心をこれまで健常者とされてきた人の位置から,両者の間,すなわち軽度から中度の障がいを抱える人の所へと少しずらすことである。私は誰もが何らかの障がい,つまり不完全な所や弱点を持っていると思うが,障がいや違いがあることを前提に障がいを持つ人を社会の中心に据えれば,社会は自ずと地続きとなり,その両側も近づいてくる。これは両者にとっても望ましいことだろう。

例えば,これまで健常者と見做されてきた人たちは,健康や正常といった,社会で正しいとされる状態でいなければいけないという強迫観念から解放され,心の安らぎを得られる。一方,障がいの有無とは関係なくその人らしく生きることを支え合う社会は,障がいを抱える人のみならず,すべての人々にとって生きやすい社会となるはずだ。弱者を受け入れるという発想ではなく,互いの違いを認め合って共生する社会こそ真のインクルーシブ社会ではないだろうか。

このような社会への変化を促す鍵の一つが「バリアバリュー」という考え方である。これは障がい(バリア)という違いや周囲とは異なる視点が,今までの常識を覆す新しい気づきや価値(バリュー)を生み出すという考え方で,私は「障がい者を理解しないのは損」,「インクルーシブ(包括的)に社会を見ないのは損」だと,言い換えて周りに訴えている。事実,すべての人はそうした価値を持っていて社会に貢献できると私は信じている。それを社会全体でも実感してもらうため,バリアバリューの事業化に向けても動き出している。

既存の枠を越えて取り組む再生医療の治療づくり

再生医療の治療法の開発,それを補完するロービジョンケア,受け入れ側の社会の体制づくり。これらはすべて再生医療の「治療づくり」として取り組んできた。言わば,再生医療の実装である。

初期再生医療の技術は途上段階にあるため,その後の全人的ケアが肝心なことは既に述べた。加えてそもそも再生医療というのは「細胞」を用いるため,その効き目は漢方薬のように千差万別で,西洋医学の薬のように均質で予測可能な効果を期待することはできない。したがって必然的に一人ひとりに最適な治療とケアをオーダーメイドでつくっていくことが必要となるため,再生医療の治療づくりは「その人がより良く生きる状態をつくる」本来の意味での「医療」であることが求められる。その意味からも,これまでの治療のつくり方とは根本的に異なるのである。

私はこの治療づくりのために,これまでいくつもフィールドを変えてきた。京都大学から理化学研究所,昨年には「ビジョンケア」という医療ベンチャーを立ち上げ,本格的にビジネスの領域へ踏み出した。これもひとえにiPS細胞を使った治療の実装やバリアバリューの事業化など,治療づくりに必要だがアカデミアの枠ではできなかったことを,組織のつなぎ目となりながら自由に動ける立場で実現していくためである。

このような大きな目的の実現のためには,自分がいる組織や領域に囚われないことが大切だ。一歩外に出て,視座を高めて周りの領域も含めて俯瞰すれば,その分情報量も増えて今まで見えなかった問題解決の糸口や手立てを講じるための余白も見つけられる。

神戸アイセンターができる前,神戸には視覚障がい者のケアに関する組織や施設が多く存在していたにもかかわらず,横の連携を欠いた状態だった。それらの視座を一つ上げ,「視覚障がいの課題をあらゆる手段で解決する」ための社会の窓口として集結したところ,互いの活動を理解するにつれて連携が生まれ,今では目的の実現のために新たな協力者を巻き込めるまでになった。

また同施設のエントランスにある「ビジョンパーク」も,眼科医をはじめ建築家や家具デザイナー,音響デザイナーなど領域を越えた協創によって生まれた。公園のようなこの場所は視覚障がいに対する意識を変えるための情報発信と集いを目的につくられたもので,ここでは障がいを抱える人もそうでない人も自然に混ざり合っている。

神戸アイセンター ビジョンパークの様子 神戸アイセンター ビジョンパークの様子

医学に倣う社会を幸福にする責任

今,社会のあらゆる価値がモノからコトへとつくり替えられている。これまでに見てきた再生医療の治療づくりも,治療のあり方を「薬や医療技術というモノ」から「全人的ケアという人間中心のコト」へとつくり替えている実践だと言ってもいい。

その歩みの中で実感しているのは,モノをつくる科学技術だけでは社会を変えられないということだ。技術が人間に与える影響や相互作用の検討はもちろん,新しい社会の仕組みやあり方を探るためには,人間や社会そのものに関する知見を持つ人文・社会科学との連携が欠かせない。

一方でそのような思いで眺めると,私が以前から指摘していた,日本の科学技術分野では基礎研究ばかりが盛んで応用・実用化研究が欧米諸国に比べて圧倒的に少ないという課題が,文系の領域でも同様に生じていることが分かってきた。より一層深刻なのは,実装のプロセスが欠けているという課題自体が当事者たちにほとんど認識されていないということだ。どれだけ素晴らしい概念や構想を提唱しても,その実装を政治家や実業家に委ねるだけではあまりに無責任ではないだろうか。世の中に生きるすべての人は社会を良くする責任を負っていると思うが,学問をする人は尚更である。

私がこのように感じるのは,医者は常に目の前の患者さんに直接の責任を負っているからだと思う。最近改めて気づいたのは,医学は,科学技術はもちろん社会や人間も見る,理系と文系を横断する包括的学問であるということだ。

これは今回のコロナ禍でも象徴的に浮かび上がった。連日SNS上では多くの医療従事者たちが情報発信を続けていて,これは目の前の人を何としてでも助けたいという,医学に携わる者ならではの社会的責任から生まれていると感じた。これは私も例外ではない。自分の場合,眼の疾患を抱えた患者さんに対するのと同様,インフォデミックとまで称された状況において,誤った情報に翻弄され不安を抱えている人たちに少しでも正しい道筋を示したかったのだ。

今は社会をより良くする責任がすべての活動において問われる時代である。既に多くの先進国ではSDGsを標榜しない企業は相手にされなくなってきている。また理由はそれだけではなく,自分の利益と社会の利益が重なったとき,それがより多くの助けと資金の獲得につながり,莫大な力を生み出すことを彼らは知っているのだろう。

残念ながら日本はそれに追随する形となっているが,自分の利益だけではなく社会の利益も見ながらバランスを取っていくのは本来日本人の得意とするところである。このような日本人の特性を生かし,日本発で新しい価値の発信を試みてほしいと願っているのが2025年の大阪・関西万博である。テーマに「いのち輝く未来社会のデザイン」とあるように,科学技術や建築といったモノを見せるのではなく,次の新しい社会システムというコトを見せようとしている。より具体的には,これまでの金融資本主義や株主資本主義を根本から見直し,価値の基軸とその象徴である通貨の単位そのものを人間の「幸福」に据えるような社会像の提示をめざすという。利潤の最大化に代わり一人ひとりの幸福を中心に据える社会は,誰もが属性にかかわらず自分らしく幸福を追求できるインクルーシブな社会の姿と自然に重なるものではないだろうか。

日立が掲げる社会イノベーション事業は,次の社会をつくる究極のコトづくりである。既に再生医療においては頼もしいパートナーであるが,それだけにとどまらず,ハピネスの研究などでも先行しており,バリアバリューの真義も理解し賛同してくれる稀有な存在として,人間を中心とした真の共生社会を協創するパートナーとして,心から信頼している。

日立の「協創の森」で開催されたロービジョンケアに関するワークショップ 日立の「協創の森」で開催されたロービジョンケアに関するワークショップ

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