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Experts' Insights:社会イノベーションをめぐる考察アフターコロナ時代のイノベーションを牽引する日本型組織経済合理的思考と,より高次の人間的な価値判断の実践へ

2021年8月17日

菊澤 研宗

菊澤 研宗

  • 慶應義塾大学商学部・大学院商学研究科 教授
  • 1957年生まれ。慶應義塾大学商学部卒業,同大学大学院商学研究科修士課程修了,同大学大学院商学研究科博士課程修了。ニューヨーク大学スターン経営大学院客員研究員,カリフォルニア大学バークレー校ハース経営大学院客員研究員,防衛大学校教授,中央大学教授を経て,現在,慶應義塾大学商学部・大学院商学研究科教授。経営哲学学会会長,経営学史学会理事などを歴任。現在,経営行動研究学会理事,経営哲学学会理事,戦略研究学会理事,日本経営学会理事。著書に,『比較コーポレート・ガバナンス論』(有斐閣,第1回経営学史学会賞),『組織の不条理−日本軍の失敗に学ぶ』(中公文庫),『改革の不条理−日本の組織ではなぜ改悪がはびこるのか』(朝日文庫)など多数。

目次

COVID-19によるパンデミックを通して多くの問題が顕在化し,資本主義の限界が論じられる中,「グレートリセット(Great Reset)」――社会や経済のあらゆるシステムを一旦リセットし見直すべきだという提言が世界の有識者から出されている。

こうした世界潮流を踏まえ,企業組織論やダイナミック・ケイパビリティ研究の第一人者である慶應義塾大学の菊澤研宗教授に,アフターコロナ時代の社会イノベーション,それをリードする組織や人財のあり方を聞く。

「変化」をめぐるドラッカーの歴史観

―初めにグレートリセットについてですが,世界経済フォーラム(WEF)のクラウス・シュワブ会長をはじめ,世界的な有識者が今改めてこのような大胆な提言を行う背景には,いかなる社会的要因があるとお考えでしょうか。また,私たち企業・企業人はこの重大な局面において何を指針に行動していけばよいのでしょうか。

グレートリセットには,二つの方向性があると思います。その方向性をできるだけ正しく認識するために,まず私たちが立っている現在地を歴史的に理解する必要があると思います。

そのために,マネジメントの父と呼ばれたピーター・F・ドラッカーの歴史観が役に立ちます。とりわけ,私が共感しているのは,彼が「人間は変化をどのように捉えてきたか」という点に着目していた点です。ドラッカーの認識によれば,前近代において人間は変化を「悪い」もの,破局につながるものと捉えていたと言います。それゆえ,当時の人たちは,社会の変化という脅威から個人やコミュニティを守るために,家族や教会,国家といったさまざまな社会制度を考案し,変化が起こらないように対処してきたと言います。

ところが,近代に入るとそれが逆転する。逆に,変化は「進歩」であり,歓迎すべき良いことである,それは歴史の必然と見なされるようになったと言うのです。このような考えの背景には,科学革命や啓蒙思想の勃興と,それによる人間の理性に対する信頼の高まりがありました。

興味深いのは,前近代と近代では,変化の捉え方がまったく逆向きであるにもかかわらず,いずれも変化を起こすのは「人間」ではなく,「人間の外側の力」だと考えられていたという点です。特に,近代の人間の外側の力が進歩をもたらすという捉え方は,カール・マルクスの唯物史観の基本的な発想でもあります。すなわち生産力と生産関係の変化が階級闘争を生み出し,歴史を動かす原動力になり,それによって社会は進歩するという考え方です。

これに対して,ポストモダン(脱近代,近代以後)は,ドラッカーによると「人間の力」によって変化を起こせることを人間自身が認識した時代だと言います。「イノベーション」という言葉に象徴されるように,人間が意識的に変化を起こしていくことによって,現代につながる「変化が常態化する世界」がやってきたというわけです。ドラッカーが示した見解はここで終わっていますが,その時点では人間の起こす変化が良いものか悪いものかという判断はありませんでした。

ところが今,人間自身がこのまま変化を起こし続けていくことは「破局」につながるのではないかという恐れが,人々の間で生じています。破局とは,今回のコロナ禍のようなパンデミックや気候変動,貧困や格差の拡大のことを指し,さらには新たな軍事的脅威やAIなどの最新技術による人間排除の脅威も含まれるかもしれません。

私たちは「変化」を止めるべきか

―そのような限界的状況を打破するために,今,グレートリセットなるコンセプトが提唱されているわけですね。では,冒頭でおっしゃった二つの方向性とは具体的にどのようなものを指すのでしょうか。

まず一つ目の道は「脱成長」,すなわち変化を止めるという方向性です。資本主義の限界という認識から近年,マルクスへの関心が高まってきていますが,これまで見てきたことからも分かるように,変化を悪と捉え,それを抑制する道を選べば,それは前近代の時代に逆行することを意味します。確かに,その方向性は,ポスト資本主義社会をめぐる議論にとって参考にすべきものが多いと思います。しかし,私としてはそちらに進むべきではないと考えます。

ではもう一つの道はというと,皆さんもご承知のとおり「倫理」を復権させる道です。アカデミックな言い方をすれば,カントの「実践理性」つまり正しいかどうかを主体的に価値判断する理性を取り戻し,その制約の下に今後もイノベーションを起こしながら前に進んでいくという方向性です。昨今のSDGs(持続可能な開発目標)やESG(環境・社会・ガバナンス)経営も同様の発想に基づくものでしょう。

では,なぜ変化が悪と見なされるような事態に陥っているかと言えば,近代において信頼された人間の理性が形式合理性や損得計算ばかりに用いられ,いつの間にか主体的に真・善・美をめぐって価値判断し,正しいことを実践するという側面が剥奪されていったからです。そのような堕落した理性を,マルクスの思想を批判的に継承したフランクフルト学派の人たちは「道具的理性」と呼びました。そして,それが現実の経済の中で辿り着いた先が,株主利益だけを最大化する「株主資本主義」でした。このような株主利益の最大化行動が,今日,格差社会や環境問題などを生み出していると見なされているのです。

こうした状況で,私たち自身が主体的に善悪を判断していく契機となるのが,ステークホルダーズ(利害関係者たち)の存在です。2019年のダボス会議や米国のビジネス・ラウンドテーブルのテーマが,まさに「ステークホルダー資本主義」だったように,今,米国を中心とするグローバル経済全体が株主資本主義からステークホルダー資本主義への本格的な移行を模索しているのだと思います。

コロナ禍で露呈した日本と米国の違い

―最近,注目を集めている渋沢栄一の『論語と算盤』の精神にも通じるお話ですね。「経済と道徳の両立」はこれまで日本企業が実践し,共有する日本的経営の特徴でもあったわけですが,それが今,装いを新たに世界的なトレンドになりつつあるということでしょうか。

おっしゃるとおりです。これまで,多くの日本企業が米国式グローバリズムに追随し,株主主権という世界標準に順応してきたわけですが,日本企業は依然としてステークホルダーを重んじる文化を温存していることが,今回のコロナ禍で明らかとなりました。例えば,運航中止が相次ぐ大手航空会社では従業員を異業種の他社に出向させて雇用を継続していることが話題となりました。これは,世界的に見ると,驚くべき現象で,他の先進国であれば真っ先に解雇が言い渡されているでしょう。

また,最近まで好景気が続く中で日本企業は内部留保,つまり多くの現金を保有していることが批判されてきました。株主資本主義ではそもそも利益は株主のものであり,配当されて然るべきという考え方が主流です。それに従っていない時点で,日本企業は厳密な株主主権とは言えません。それはまさに今回のような有事に備えてのことで,いざというときに従業員や取引先などのステークホルダーを守るという意識が根底に働いているからだと思います。現にそのおかげで,コロナ禍でも大型倒産を免れています。

対照的に,内部留保が少ない米国企業が大型倒産に追い込まれています。しかし,その中には意図的な倒産も多く含まれています。つまり,米国の経営者たちは日本の民事再生法に近い連邦倒産法を申請し,在任したまま負債を裁判所の管轄下で整理し,すぐに再上場しようとします。したがって,会社が倒産しても経営者と株主は居坐り,従業員と負債だけが整理されるのです。このように,今日,ステークホルダー資本主義への移行を公言する多くの米国企業は,依然として株主資本主義を脱却できていないのです。今後,さらに格差や貧困が深刻化し,社会の分断が広がることが憂慮されます。

このように,グローバル市場で強い米国企業でさえ一朝一夕には変われません。そのような中で,ステークホルダーを重視する伝統を持つ日本企業には一日の長があるのです。いたずらに米国流に追従するのではなく,私たち日本人がしっかりと自覚し,良きロールモデルとしてステークホルダー資本主義への移行を牽引していくべきだと思います。

「価値」を基軸とする,強い日本型組織

―この十年あまりの間に,日立をはじめ日本企業の経営・組織のグローバル化,多国籍化が急激に進みました。その中で,先ほどからご指摘いただいている日本型経営の良さを生かしていくためには何が必要なのでしょうか。

私は経営学者なので,その立場でお話しすると,人間の行動原理は少なくとも二つあると思っています。第一に,損得計算してプラスならば前進しマイナスならば撤退するという「損得計算原理」。第二に,正しいかどうかあるいは好きかどうか,もし正しいあるいは好きならば実践し,不正あるいは嫌いならば実践しないという「価値判断原理」です。

経済学者は,人間が損得計算原理にのみ従うものと仮定し,企業組織を単なる個の総和として理解します。しかし,経営学者は人間が損得計算原理のみならず価値判断原理にも従うものと見なすので,組織は単なる個の総和以上のものと考えます。つまり,人間の利他的な側面にも注目するのです。

これは,近年,主に米国の研究者によって「エンゲージメント」や「心理的安全性」という言葉で再発見され,個々人の生産性を高めるものとして注目されていることです。それらは,実は日本的経営で重視されてきた愛社精神であり,それを共有する人々の間で生じる信頼感のことでもあります。私たち日本人は普段あまり意識していませんが,このような主観的な価値を共有することで組織は単なる個の総和以上のものとなり,危機的状況も共有できるのです。先ほどお話しした大手航空会社の社員たちも,愛社精神の下にいつか自社に戻れることを信じて苦境に耐えているはずです。

一方,損得計算原理に従う個人の総和としての組織では,こうはいきません。会社が危機的状況になれば,損得計算上,会社に留まると損をするので,優秀な人ほど先に逃げていきます。事実,リーマンショックの後,米国では危機に陥った大手金融機関を支援するために多額の公的資金が投入されましたが,結局,それが社員への高額報酬に利用されたため,国民から厳しく非難されました。理由は,優秀な社員を引き留めるためだということでした。また,ある大手メーカーの社員などは自社の倒産を直前まで知りませんでした。その理由は,会社の危機的状況をトップが社員に漏らせば,多くの社員は退職するからです。

しかし,もし組織メンバーが損得計算原理のみならず価値判断原理にも従っているならば,会社が危機的状況にあっても自社を救いたいと価値判断するので,危機を共有でき,共に乗り越えることができるのです。このような愛社精神は,いまだ多くの日本企業に残っているように思います。

1990年代のバブル経済の崩壊以降,日本企業は米国式経営を積極的に取り入れてきました。株主主権のコーポレート・ガバナンス,ジョブ型雇用,そして同一労働同一賃金など,もちろん学ぶことは重要ですが,ステークホルダーを重んじる企業文化や柔軟な組織構造といった日本的経営が持つ本来の良さを打ち消すような安易な制度変革には,常に注意すべきだと思います。

企業の多国籍化やグローバル化に伴い,国籍や民族性,地域性といった文化的背景や暗黙知を共有しない人財が多く集まると,世界標準として安易に米国流の経営や組織のあり方を模倣する方向に偏りがちで,私はそのことを常に懸念しています。

そもそも米国企業が損得計算原理に基づき株主利益最大化をめざすのは,多民族・多人種国家という米国の文化的背景に由来します。利益という明確な基準を持たなければ,すぐ個がバラバラとなってしまい,組織として機能しないからでしょう。幸い日本企業の多くは自分たちの理念,価値観,暗黙知を育むことができたわけですから,安易にそれを手放さない方が良いと思います。さもなければ,マックス・ウェーバーが宗教倫理(エートス)なき資本主義的な企業を「鋼鉄の檻」と表現したように,日本企業も形式的な損得計算ルールだけで支配された魂なき人間組織になってしまうでしょう。

全体性を引き出すオーケストレーション

―愛社精神や主観的な価値判断など一見非合理に見える要素が,実は組織の力を高めるのだというお話でしたが,それは昨今浸透するオープンイノベーションやビジネスエコシステムの形成においてもカギになりそうです。また,組織の枠を越えた協創において他にどのようなことが重要だとお考えでしょうか。

社外の組織や人を巻き込んで単なる個の総和以上の力を発揮していくためには,おっしゃるとおり,エンゲージメントや心理的安全性はもちろん,信頼という要素は欠かせません。そうでないと,相互に裏切った方が得になるので,ゲームの理論でいう囚人のジレンマに陥ります。

私は,ビジネスエコシステムというものを,デイヴィッド・J・ティース教授が提唱するダイナミック・ケイパビリティと関連づけて解釈しています。ダイナミック・ケイパビリティとは変化が常態化する世界に必要な企業能力であり,それは「企業が環境の変化を感知し,そこに新しいビジネスの機会を捕捉し,企業内外の知識や人的物的資産を再構築・再配置・再利用する変革能力」のことです。ここで言う「企業内外の資源を再構築する」とは,他社の資産をもまきこんで再構築することであり,それゆえビジネスエコシステムの形成を意味します。

ティース教授は,環境の変化に対応して既存の資産を再構築・再配置するプロセスを,ドラッカーが理想的組織とするオーケストラをイメージして「オーケストレーション」と呼んでいます。指揮者が各専門演奏者を調和させるように,個の総和以上の全体性を引き出すことが重要だと考えているのです。

このように,オーケストレーションとは単なる個の総和以上の全体性を作り出すことを意味していますが,そもそもそのような全体性というものは実際に存在するのでしょうか。そのような全体性(Gestalt:形態)が存在すると主張したのが,ドイツのゲシュタルト心理学者たちです。例えば,音楽のメロディ(短調や長調)は,楽曲全体を聞いてはじめて理解できるものであり,音符を一つひとつバラバラに聞いても理解できません。むしろ,メロディという全体性が一つひとつの音符を意味あるものにしているのです。

したがって,このようなゲシュタルト心理学の考えによると,企業内外の資産をオーケストレーションするには,全体性としてのビジョンやパーパス(目的)などが提示される必要があり,何よりも参加メンバーがそれを価値判断して正しいあるいは好きだと共感し共有する必要があります。これによって,企業群からなるビジネスエコシステムは固有の凝集性を保有し,新しい付加価値を生み出すことになるのです。損得計算を行動原理とするようなメンバーだけでは,凝集性のない単なる個の総和としてのビジネスエコシステムしか形成されないのです。そのようなシステムは魂のない形式的な集合体にすぎません。

社会イノベーションをリードする人財

―では最後に,アフターコロナ時代の社会イノベーションを牽引する人財の要件とはいかなるものか,菊澤先生のお考えをお聞かせください。

これからは主体的な価値判断がより重要になることをお話ししてきましたが,これは行動原理としての損得計算原理を捨てるということではありません。まず「理論理性」に従い徹底的に損得計算を行い,その上で「実践理性」によってその計算結果に従って行動することが正しいのかどうかを常に重層的に価値判断することが重要だと言いたいのです。

損得計算上,プラスになることは,大抵,価値判断上でも正しいものです。しかし,損得計算の結果と価値判断の結果が一致しないときがあります。つまり,この新ビジネスは儲かるかもしれないが,倫理的には正しくないのではないかというケースです。このとき,損得計算ではなく価値判断に従って正しく行動できるかどうかが,リーダーの条件なのです。そして,逆にあまり儲からないかもしれないが,正しいあるいは面白いと価値判断され,あえて実践する新ビジネスからイノベーションは起こるのです。

価値判断は主観的なものなので,頭の良い人ほど避けたがる傾向があります。しかし,価値判断に基づく行為を恐れてはならないのです。それは主観的であるがゆえに責任を伴う道徳的な行為であり,それゆえ責任を取れば良いのです。そして,これこそ物質とは異なる自律的で自由な人間の本来の姿でもあるのです。そして,まさにそこに人間としての気品や真摯さの見せ場があるのです。

日立は,創業から1世紀以上もの間,損得計算のみならず独自の価値判断に基づいてビジネスを展開してきた日本を代表する企業の一つだと思います。今後,株主資本主義の次にやってくるステークホルダー資本主義の旗振り役として,そして世界をリードする企業として躍進してもらいたいと思っています。

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