日立評論

人間が社会を変えるとはどういうことか

企業活動,科学・技術と社会の関わりをめぐって

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日立評論

村上 陽一郎

村上 陽一郎

  • 東京大学名誉教授・国際基督教大学名誉教授
  • 科学史家,科学哲学者。1936年生まれ。東京大学教授,同大学先端科学技術研究センター教授・センター長,国際基督教大学教授,東京理科大学大学院教授,東洋英和女学院大学学長などを歴任。2018年より豊田工業大学次世代文明センター長。
  • 著書に『ペスト大流行』(岩波新書),『安全学』,『文明のなかの科学』,『生と死への眼差し』(青土社),『科学者とは何か』(新潮選書),『安全と安心の科学』(集英社新書),『死ねない時代の哲学』(文春新書),『日本近代科学史』(講談社学術文庫)他多数。編書に『コロナ後の世界を生きる』(岩波新書)ほか。

目次

深刻化する気候変動や貧困と格差の拡大,AI(人工知能)の急速な進展とそれによるシンギュラリティへの懸念など,人類は多くの共通課題に直面している。これらの多くは企業活動や科学・技術の進歩がもたらしたものに他ならず,SDGs(持続可能な開発目標)をはじめ,倫理や利他性なども考慮した社会変革の新たな形を模索する取り組みが加速している。

今回は,日本を代表する科学史・科学哲学の泰斗であり,人生や教養について多くの著書を持つ村上陽一郎氏に,大きな転換期を迎える企業活動や科学・技術と社会の関わりをめぐって話を聞いた。

企業活動と社会の相互連関

―社会イノベーション事業を標榜している日立をはじめ,今日,多くの企業が社会的なテーマを掲げて事業を展開しています。これまで長きにわたり科学・技術と社会の関係を俯瞰的に捉え,世論を啓発されてきた村上先生は,企業と社会の関係におけるこうしたトレンドをどのようにご覧になっておられますか。

かつて著名な自動車メーカーの経営者が「需要がそこにあるのではない。われわれがそこに需要をつくり出すのだ」と語ったように,企業が収益の源泉となる需要そのものを創出するためにみずから社会に働きかけ,時に政策や制度改革などを促しながら社会を変革しようとする試みは今に始まったものではありません。また,企業が社会を変革しようと思わなくても,技術的イノベーションの成果が世の中に受け入れられた場合には,必然的に社会もそれに見合った姿に変革されていくものでしょう。1900年代の初頭,T型フォードが若者でも購入できる安価な大衆車として普及したことにより,今までは親の目が届くところでしか会えなかった若いカップルが二人だけの時間と空間を持てるようになって,それが米国社会の性道徳を変えたとも言われています。

当然ながらその逆も起こります。主力事業を写真フィルムから医療・ヘルスケア分野へとシフトさせた富士フイルムなどはその典型的な例でしょう。企業によるイノベーションが社会を変え,社会が変わることによって今度は企業が変革を迫られる。こうした一種のキャッチボールのような現象が絶えず起こっているというのが現実の世界ではないでしょうか。決して企業だけが変化の要因を握っているわけではありません。企業と社会の関係はもっと多重的です。これは科学・技術と社会の関連に焦点を当てるSTS(Science, Technology and Society)という学問分野でも長年議論されてきたテーマでもあります。

一方で,携帯電話やスマートフォンが売り手である企業の想定を大きく超え,先進諸国よりもむしろ国土が広大で有線電話網の敷設が遅れていた開発途上国・地域で爆発的に普及し,通信のあり方を一変させたように,人々の暮らしぶりや地理的要因も含めた広い意味での社会環境の潜在的ニーズと企業の新たな技術や製品がマッチングした結果として起こる社会の変化は,今までは「given(与えられたもの)」として受け止められていたところが大きかったように思います。しかし,そうした変化には良い面と悪い面がありますから,そのうちの好ましくない変化の影響が今日の危機的状況を招いているわけですね。そのような問題意識を端緒に,人間の暮らしや自然環境を含めた社会環境をより「意図的」かつ「善い」方へ変革しようとする試みが,今日の企業がめざす社会イノベーションなのでしょう。

もちろんそれらの取り組みには評価すべき点が多くあります。前述の富士フイルムは,自社技術の中に医療・ヘルスケア分野に応用可能な萌芽を見いだし,それが新たな社会との接点になりました。一つひとつは専門性が非常に高い技術的イノベーションでも,社会課題や社会価値につなげることができれば,社会全体を変革する契機になり得ます。したがって,従来型のテクノロジーオリエンテッドな技術的イノベーションも企業が担うべき役割としては変わらず重要だと私は考えています。

科学者の倫理とレイの抑止力

―科学・技術がもたらす社会の変化に関連しては,特にAIやIoTなどの分野ではそれら破壊的技術が社会に悪影響を及ぼさないかと懸念される中,改めて「倫理」が注目されています。日立の小泉英明名誉フェローは人間を含めた自然についての科学的知見が新たな倫理の根拠になりえると提唱していますが,どのように考えればよいのでしょうか。

AIに関する倫理の問題には,生命倫理という先例があります。これだけ遺伝子工学や分子生物学が発達してもなお致命的な事態に至っていないのは,生命倫理に携わる人たちがみずから一定の自主規制を敷いてきたことが大きいでしょう。

1973年に遺伝子組み換え技術が確立されたときも,その効用と危険性をめぐって大きな論争が起こりました。その際,何をどこまで規制すべきかを討議するために開催されたのが1975年のアシロマ会議でした。この会議が画期的だったのは,世界中の当該分野の研究者たちが「自発的」に集い,「事前」に対策を講じようとしたという点です。しかも自分たちが持つ専門的知識を社会の中で積極的に生かそうとしました。

その最たる例は「生物学的封じ込め」と呼ばれる安全対策です。遺伝子組み換え実験では大腸菌を用いることが一般的ですが,大腸菌は私たち人間の腹の中にも無数に生息しているものです。もし遺伝子操作をした大腸菌が体内に入れば,とんでもない事態になる。そこで,人体や自然環境では生存できない,実験環境下だけで生存可能な大腸菌を使用するというアイデアが研究者の一人から提案されて合意を得ました。このような科学者による自発的行動こそ,科学的知見に基づく倫理の発動だと言えるのかもしれません。

また,米国社会にはどんな分野においても専門家だけに委ねないという文化が根付いています。アシロマ会議の合意に基づいて米国で作成されたガイドラインでは,研究所内にIRB(Institutional Review Board:機関内倫理委員会)を設置することが義務付けられています。研究者はその許可を得なければ研究を始めることができないのですが,IRBの構成メンバーは当該分野の研究者が半数を超えてはならないと規定されています。聖職者や倫理学者など,専門家以外の人,すなわち,「レイ(lay)」が参画しなければならない。レイというのは,宗教の世界で言えば聖職者ではない平信徒,カードゲームではエースやジョーカーではない普通のカードのことを指し,ここでは素人を意味します。例えば,陪審員制度の陪審員もレイですね。本当に素人に高度な判断ができるのかという問題も当然存在しますが,社会全体に関わる意思決定において,エキスパート以外の人が発言する権利を認めるとともに,専門知に閉じない,多様な知や経験に基づくオープンな対話を重んじているのです。

そういう観点から見れば,SNSの利点というのは,これまで発言する機会を与えられなかったレイに発言の場を与えたことでしょう。もちろん負の側面も多くあるのですが,それが社会の倫理的な抑止力にもなり得る。企業の社会的関心の高まりやSDGsなどの推進は,メディアによって教育された市民や株主が自分の意見を発信し始めたことが大きく影響しているとも考えられます。つまり,これまでのように企業活動を株主や経営者だけに委ねないということです。

さらに米国では「レイ・エキスパート」という言葉が広く知られています。これは素人としての専門家・熟達者という意味ですが,例えば,エイズ患者の人たちが作ったACT UP(AIDS Coalition to Unleash Power)という患者支援団体は自分たちのことをそう呼んでいます。つまり,自分たちは医者ではないけれども,エイズという病気やエイズになった人間の心理,日常的にどんなことが問題になりうるかを医者以上に知り尽くしているということなのです。実際,開業医などがエイズに関して解らないことがあった場合,その団体に問い合わせるそうです。このようにレイ・エキスパートが社会の中である一定の働きを担うということが,今日ではさまざまな分野で生じています。

日本はとかくエキスパートを重んじる風潮にありますが,レイ・エキスパートの多様な経験や視点というのは社会を変革する際の大きな力になり得るもので,これからは彼らのような存在を社会の中で育み,活躍の場をつくっていくことも肝要になるでしょう。

科学者の人間性と競争的環境の弊害

―レイ・エキスパートの役割や重要性はさることながら,新しい技術の可能性と危険性を最も熟知する研究者・専門家に自主規制を求めるならば,科学者の人間性や人格が非常に重要になってくるように感じます。湯川秀樹や朝永振一郎など,昭和の科学者たちは広い教養を備えた人格者だったという印象が強いのですが,現代においてはいかがでしょうか。

そうですね。戦前までは大学に行く人はほんの一握りでしたから,旧制の中学校・高等学校は,大学に入る前に知的エリートにふさわしい人間的・知的成熟を得させる役割を担っていました。人格形成という点においても非常に大きな意味を持っていたのは確かでしょう。今では高校も義務教育同然となり,教養教育を担う役割は大学に移され,一般教養課程が設けられました。しかし,それは大学入学後の1年半足らずというごくわずかな期間でしかなく,真の意味で人格形成まで担えているかと言えば,残念ながら成功しているとは言えません。

それに加え大学における競争的環境の激化が,教養教育を軽視する風潮に拍車をかけていきました。1980年代に文部省(当時)をはじめとする有識者の中で「日本は競争社会という点で非常に遅れている」という認識が広まり,大学においても徹底的な競争環境をつくることが第一の優先課題となったのです。これでは,自分の専門以外の広いところに目を向け,物事を考えたり感じたりする時間や空間を持つことが困難になってしまいます。

対して,米国ではリベラル・アーツ・カレッジで広い教養を身につけた後に,大学院で法学や医学などの専門知識を学ぶのが一般的です。私自身もかつて学び,長年教鞭を取ってきた国立大学の教養学部も同じ役割を持つものです。専門課程に進むのを多少遅らせてでも,人間や社会についての広い知識を身につけることで自分の中に内なる「規矩」をつくり,人間的・知的成熟を図ることは非常に大切だと思います。同様に教養教育は大学の一般教養課程だけでは不十分だという認識から,専門課程に進んだ後も楔を打つように教養科目を入れていく楔形教養教育や,大学院でも教養科目を必須とする後期教養教育など,これまでも教養教育を拡充させる試みはいくつもありました。

特に医学部の教育において,将来,臨床医となり弱い立場にある患者に接する人間が,医学の知識に長けたエキスパートであるだけでいいのかという反省はこの30年以上,ずっとあったものです。そこで,ペーパーテストに加えて面接を取り入れたり,医学部の高学年でも一般教養として人間や社会,倫理とは何かを学んでもらったりする取り組みが行われたわけですが,大抵はラボヘッドである教授みずからが「そんな暇があったら先端研究の論文を読みなさい」と言って,学生を送り込んでこないんですね(笑)。現実には,どうしても競争的環境の波に押されてしまうのです。

このような傾向を最も端的に垣間見たのは,ブダペスト宣言の10周年を記念するシンポジウムにおいてでした。ブダペスト宣言とは,1999年の世界科学会議で発表された「科学と科学的知識の利用に関する世界宣言」のことで,科学がもたらした環境劣化や社会的不公平などの負の側面を顧み,自然環境を含めた人類の福祉を目的とした「社会の中の社会のための科学」を掲げ,これからの科学のあり方を宣言したのです。その内容は,先ほど話題となった科学者の高度な倫理や,社会の福利に対する強い関わりの必要性などが公式に明記された画期的なものでした。

そのシンポジウムでは宣言の意義について改めて討議したのですが,終了後の質疑応答に立った大学院生の一人が「壇上であなた方がやっている議論は一切無用だ」と発言しました。しかもそれに対して会場から大きな拍手が起こったのです。自分たちは一分一秒を惜しみ,国際的に優位性のある論文を1本でも多く学術誌に発表し続けなければ,研究者として生き残ることはできないというわけです。確かにそれが最前線の競争的環境で戦い続ける研究者の実情に違いありません。こうした矛盾を一つひとつ解消していくにはまだ相当の時間がかかるだろうと思いました。

人間は善悪を何に基礎づけるのか

―村上先生は著書の中で,近代西欧科学について,宗教という雨傘やその下にある哲学という雨傘,これらの価値観から独立して世俗化することによって誕生したものであり,元来,「人間が人間のために(神から住処として与えられた)自然を制御する」という性格を持ち,「人間のためとは何か」,「人間にとっての善さとは何か」を追求しなくなれば,それらは経済性や有効性に取って代わられ,いずれ危機的な状況を招くだろうと書かれていました。ブダペスト宣言も,科学・技術の目的や人間のあり方など,根本的な価値観を改めて問い直す試みだったと言えるのでしょうか。

これは古い話になるのですが,宗教的な雨傘をすべて取り払ったときに,人間は何をもって善悪を判断できるのかという問いを最初に立て,それに本格的に答えようとしたのが18世紀の哲学者,イマヌエル・カントだったのです。カントは,人間が理性的存在であることを前提に据え,理性が雨傘となり,これはやるべきだ,これはやってはいけないという善悪の判断を理性が論理的かつ演繹的に命じてくれると考えました。そして,彼自身はそれを立証できたと信じていたのでしょう。

それに対して,人間は一つひとつを経験することによってのみ学んでいくのだとする立場が存在します。つまり,他人にされて嫌だったことを自分も他人にしない,親切にされた経験に基づいて自分も他人に親切にするといったように,わが身をもって知っていくということです。このように善悪を何に基礎づけるのかという問いに対して,現在はこの二つの立場しか存在しません。

もちろん現代でも人間を超えるものを前提とした宗教的社会,イスラム教やヒンドゥー教,仏教などに基づく社会が地球上には数多く存在します。しかし,少なくとも前述の二つの立場はそれらを前提としていません。別の見方をすれば,人間を超えるものを想定しないで人間は正しく生きられるのか,近代社会とはその問いに対する人類の壮大な試みであったと言えるかもしれない。そして,われわれは今もその試みの中で悩んでいるのです。

神の言葉や信仰をなくしては,その場その場でみずから判断するより他になく,時に現実に流されるような生き方をしてしまうこともあるでしょう。しかし,そのようなときに「これで本当に生きたことになるのか」と,理性が問いかけてくるのは自然なことです。また,その場凌ぎの生き方を続けていれば,大抵の人間は挫折したり逆境に陥ったりします。自分では良いと思ってやっていたことでも非常にまずい結果を生み出すこともある。そういった経験をしたときにも「これで本当にいいのか」と,やはり理性が頭をもたげて問いかける。それが人間というものではないでしょうか。このように自分を省みること,客観的に物事を眺める目を持つこと,まさにそれをカントは理性と呼んだのだと思います。

ブダペスト宣言にせよ,企業の社会的関心の高まりやSDGsにせよ,これまでのやり方が多くの甚大な問題をもたらしたという「経験」から生じたもの,あるいは,その経験から生じた「理性」の働きかけがもたらしたものと言えるかもしれません。このように私たち人間は,新たな試みと挫折を繰り返しながら,自分たちの力でより善い世界を築こうとする大きな試みの中に現在も身を置いていると考えられるのではないでしょうか。

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