日立評論

いかに心的価値の高い社会をデザインするか

脳科学から人間中心の未来を切り拓く

ページの本文へ

Hitachi

日立評論

牧 敦

牧 敦

  • 日立製作所 研究開発グループ 基礎研究センタ 主管研究員
  • 1990年慶応義塾大学理工学研究科修了。日立製作所入社。
  • 生体光計測の研究から静脈認証を発明,光トポグラフィの開発と脳科学研究を進める。その後,脳科学を応用した発達脳科学を基盤とするビジネス開拓を行ってきた。現在,心の生物学的理解および心と環境の共鳴を柱とした研究開発に従事。
  • 博士(工学)。著書に『心にひびくデザイン』(文芸社,2021年)。

目次

時代の変換点を迎えて

震災・COVID-19・地球温暖化という地球規模の災害に直面し,社会は一変しつつある。 さまざまな事象が顕在化して自然との共生や加速的に進む仮想化社会について,専門家だけではなく,一人一人がより良い生存について深く考える時代に差し掛かった。日立は世界中の多様な社会課題解決を通して,利便性や効率が高いより良い社会を実現するため,高度な技術を駆使してその基盤を構築してきた。しかし,直面している地球規模の課題は人類の技術が生み出している側面も否定はできない。その中で筆者らは,環境を適切につくり上げ,人間を中心とした社会を革新するという,当然であるが重要かつ難しい目標を設定してきた。

人間を中心とした社会を革新していくとは,言わずもがなであり当然と思われるかもしれないが,実はとても難しい課題である。脳科学の世界的権威である京大名誉教授の久保田競氏は,「親指の内転ができる霊長類は人間だけであり,それが技術そして文明の源泉になった」という仮説を述べている。文明の進歩に,技術や発明が産業化される社会的過程,すなわち,技術を核としたイノベーションが寄与していることは,人類史の至るところで見られる景色であって,その仮説に違和感は覚えない。

しかし,人間中心という冠がついた社会の革新となると,多様性の高い人間についての理解が不可欠となる。指先の器用さを手中に収めた人間はモノをつくり,そのモノが社会の中に普及し,そして,その人工的なモノに囲まれた環境の中で人間は生活し続けているのである。この形式は,人類にとっては自然な進化の形であり,人口は増え続けている。しかし,個々の人間を取り巻いている環境は,時間・空間ともに唯一であるので,その環境は各個人の脳内に無二の神経回路を形成することになる。環境によってつくられる神経回路の多様性こそが,人間中心という考え方を難しくしているのである。

そして,私たち人間のあらゆる活動は人工的な環境を持続的につくり続けているが,環境が個々の脳に与える影響の“GOOD or BAD”についての探求は十分とは言えない。今私たちは,道具として使われる機械の時代から,自律的な機械と共生する時代へと移行する変換点にいる。果たして,その機械は個々の人間を理解して最適に動けるようになるのであろうか。機械が人を理解し心にまで踏み込むようになる2050年頃の話であるが,その知識体系の構築には深い人間理解の研究が必要であろう。

人に寄り添う環境

この問題設定は,狭義にはヒューマンマシンインタフェースの最適化のように見えるがそうではない。従来のヒューマンマシンインタフェースは,「直感的である」,「使いやすい」,「快適である」など,そのGOOD or BADを人間の主観で決めることができた。しかし,この評価法は次の時代には通用しないだろう。私たちを取り巻く人工的環境は,胎児期から私たちの脳に影響を与えるからである。したがって,私たちを取り巻く環境すべてのGOOD or BADを科学的に決定したうえで社会実装することが大切である。すなわち,人に使われる生活環境から,生活環境が人に寄り添うデザイン(設計)をめざすことになる。

概念的には当たり前であるが,実現する方法論をつくらなければならないため,20年以上前からこの命題に取り組み始めた。その思想的な基礎は,日立製作所名誉フェロー小泉英明氏が「脳科学に基づく教育」という概念を提唱し,世界的潮流をつくったことが端緒となる。その一つの軸は発達脳科学であり,筆者らはそれを実社会で活用することの検討を開始した。平たく言うと,乳幼児期に獲得するさまざまな認知機能には,それぞれよく発達する感受性期が存在し,その時期に適切な環境を与えることが脳の発達にとってGOODであるということである。

この取り組みは,国内の多くの発達科学の研究機関の協力も得て,株式会社バンダイの“脳を育む”「ベビラボシリーズ」の玩具として約10年前に社会実装された。そして,急成長を遂げ,今では,誰もが知る世界最大のブロックメーカーとシェアトップを争う製品となった。この協創プロジェクトは,私たちの新生児の言語獲得研究に興味を持たれたバンダイの故 小沼智哉執行役の「頭が良くなるおもちゃをつくってください」という一言から始まった。今もなお,継続的に研究が積み重ねられ,得られた人間の発達に対する科学的知見が遊び方に反映されている。

このシリーズには,例えば,4歳頃から吹き出しのついたキャラクターを使ってごっこ遊びをすると,他人の考えを理解できる力が短時間で伸びると紹介している製品がある。すなわち,この玩具で遊ぶことで,思いやりの心を育む第一歩を導けるのである。販売されているのはモノであるが,遊びという体験を通して心的な価値を提供していることになる。私たちが考えていた,脳科学に基づいて人に寄り添う環境をデザインし,心的な価値を提供できた瞬間であった。使っている子どもたちには,「楽しい」はあるのだろう。しかし,この製品が脳の発達に対してGOODであるという主観は発生しない。脳は,脳自身に対する環境の質を判断しないからである。

心的価値の高い社会のデザイン

玩具の例だけでなく,脳科学を応用した照明,IT教育技術の効果検証などの具体事例がすでにある。筆者らは,脳が持つ本来の能力である「学習」に焦点を絞っているが,どちらの事例も,本人たちの意識下に働きかけて学習を促す技術である。よくナッジ理論による行動変容を引き起こす環境デザインと混同されるが,筆者らが取り組んできたことは,脳の生物学的な特性に基づき,より良い成長を促す環境デザインであって,根本的に異なる。

これまでは,今ある技術を活用して,この新しい環境デザインを遊びや学びの場に導入できるよう取り組んできた。しかし,脳の生物学的特性に基づいて,環境をデザインするという方法論は,社会が抱えるその他の課題にも適用可能である。例えば,GDPの約5%もの損失を招いている高次脳機能の障害を防ぐには? 虐待を防ぐには? 労働環境の心的負荷を下げるには? 社会的孤立を防ぐには? 高齢者のフレイルを予防するには?(東京大学高齢社会総合研究機との連携プロジェクト)これらの新しい課題は,生を授かってからの環境が影響していることが指摘され始めている。脳科学によって解くべき社会課題は多く,すでに社会の基盤となる立法への脳科学活用が紹介された(自然科学研究機構分野融合型共同研究事業:2021年8月開催「法と脳」ワークショップ※)。)社会の変容に伴ったより良き人と人のつながり,すなわち社会性についての脳科学的研究の必要性と再定義が指摘されている。イノベーションは見えないところで始まっている。

約30年後の2050年,機械が個々の心を理解しより良い介入をする技術ができていれば,社会を構成する一つ一つの脳がもっと輝くであろう。

※)
「法と脳」ワークショップ 〜認知多様社会における社会的秩序と社会性の発達に関する学際研究の現状と展望〜
https://www.chuo-u.ac.jp/research/event/2021/08/55747/
Adobe Readerのダウンロード
PDF形式のファイルをご覧になるには、Adobe Systems Incorporated (アドビシステムズ社)のAdobe® Reader®が必要です。