第7回日立京大ラボ・京都大学シンポジウム新たな価値の社会実装
ハイライト
経済価値が重視される傾向にある現代社会の中で,持続可能性を支える環境価値や,人間中心の社会価値といった多様な価値への関心が高まりつつある。
第7回を迎えた日立京大ラボ・京都大学シンポジウムでは,企業とアカデミアの有識者による講演と議論を通じてそれぞれのビジョンや課題を共有するとともに,一見すると対立することもある複数のステークホルダーの多様な価値をどのように調和させ,経済価値にとどまらない「新たな価値の社会実装」を進めていくのかが議論された。
開会挨拶
時任 宣博
京都大学 副学長
2016年の設立以来,日立京大ラボは「人と文化の理解に基づく基礎と学理の探究」をテーマとして,京都大学の有識者・研究者,学生などと共に,新たな社会イノベーションの研究に取り組んでいる。こうした中,2025年3月に「新たな価値の社会実装」をテーマとして,第7回となる日立京大ラボ・京都大学シンポジウムが開催された。
開会の挨拶に立った京都大学の時任 宣博副学長は,シンポジウムでの議論に期待を寄せつつ,次のように述べた。
「現代社会においてはこれまで,経済価値が重視されてきましたが,近年では持続可能性を求める環境価値や,人間中心の社会価値といった多様な価値への関心が高まりつつあります。多くのステークホルダーの異なる価値観や複雑に絡み合う利害に対応しながら,こうした価値を社会実装していくためにはどうすればいいのか。本日のシンポジウムを通じて議論を深め,新たな価値の社会実装に向けた一定の方向性を見いだすことができればと考えております。」
基調講演1
“価値の世紀”の行方―価値多層社会へ向けて
出口 康夫
京都大学 文学研究科長・教授
20世紀が「科学技術と経済の世紀」だったとすれば,21世紀は真の幸福や,めざすべき価値が問われる「価値の世紀」である。京都大学の出口 康夫文学研究科長・教授は,多層的な価値の実現に向けて新たな哲学・人文学の可能性を探求する京都哲学研究所の取り組みを通じて,価値の社会実装に向けた具体策を提案している。
価値というのは誰もが知っている言葉ですが,人によって定義が異なる抽象的な概念です。価値には大きく分けて「真理(存在認識に関する価値)」,「善(道徳倫理における価値)」,「美(美的な価値)」という三つの種類があり,これらを包括する概念としての価値が19世紀,20世紀の哲学のスタンダードになってきました。
では,改めて価値とは何なのか。私は,哲学の基本をすべて身体行為に関連づけて考えてきました。私たちは日々,何らかの行為をしています。朝起きてから寝るまでの間のさまざまな行為もそうですし,一年あるいは十年かけて携わる身体行為もあるでしょう。人生全体が数十年にわたる一つの身体行為であるという風にも見ることができます。こうした一人一人のばらばらの身体行為に対して,明確な方向性を与え,束ねるものが「価値」なのではないかと考えています。
20世紀においては,科学技術と経済の発展が人々の幸せにつながるという理念の下,経済価値が重視されてきました。しかし実際には,科学や経済が発展しても必ずしも人が幸せになれるわけではなく,社会はよくならず,戦争はなくならない。これが私たちの世界の現実です。効率化だけでは価値を実現できないことが明らかとなり,ウェルフェア経済学や環境経済学など,経済・技術の分野に価値を内在化させようという動きが生まれています。今後はウェルビーイング経済学など,新たな価値を重視した経済の枠組みが登場することも考えられるでしょう。
するとここで,そもそも善とは何か,ウェルビーイングとは何かという疑問が生まれます。例えば環境などであれば,CO2や気温などグローバルなKPI(Key Performance Indicator)を出すことができるのですが,善やウェルビーイングといった価値は社会や文化,地域によって異なります。つまり,多元的・多層的な価値を考えるほどに,個人や文化・社会・時代・相対性・多元性といったものを視野に入れていかなければなりません。唯一の正解というものがないからこそ,いかに多元的な回答を出し,積み上げていくのかが現代の課題ではないでしょうか。
こうした中で,京都哲学研究所は価値多様性・価値多層社会をめざす活動を行っています。これは,さまざまなアイデンティティや価値を持った個人が共存する社会です。異なる,場合によっては相対立する価値が混じりあって中間色になるのではなく,それぞれの価値の明確な違いを抱えたまま混在している。それが私たちのアイデンティティの基本的なあり方であり,哲学や人文学の役割は唯一の正解がない問いにどうチャレンジしていくのかというところにあると考えています。
多様な考え方を一つに収斂させるのではなく,選択肢を広げて価値を提案する。こうした場面では,説得力や正当性といったものも重要になります。アリストテレスやニーチェをはじめとした過去の哲学者は,今日までにさまざまな価値提案を行ってきました。近代西洋の人間観では,「自立できる」人間が理想とされていて,そういう人間になるための教育が成されてきたのですが,私はそこで「WEターン」や「Self as WE」といった真逆の人間観を提案しています。これは,「人間というのは一人で立つことができない」,すなわち二本足で立っているというのは錯覚であり,「I」が立つためにはそもそも自分以外の他者,人間以外のさまざまな動植物や自然環境,AI(Artificial Intelligence)やロボットをも含めた「WE」が必要であるという考え方です。
こうした考え方が一つの機軸ではありますが,価値多層社会への第一歩は,多様な価値を可視化し,共に歩む仲間を集めることにあります。世界各地のネットワークをつなぐハブとして,引き続き京都哲学研究所を運営していきたいと考えておりますので,本日ご来場の皆さまにも,ぜひ私たちの活動に参加していただきたいと思います。
基調講演2
生活者価値デザインによる社会実装への挑戦
岩﨑 拓
株式会社博報堂 常務執行役員
京都大学 成長戦略本部フェロー
株式会社博報堂は,社会の構造的変化が進展する中,生活者の観点から変化をホリスティックに洞察し,社会的価値と経済的価値の両立を志向する「生活者価値デザイン」を提唱している。本講演では,博報堂常務執行役員で京都大学の成長戦略本部フェローの岩﨑 拓氏が,博報堂DY京大ラボにおける研究成果と社会実装事例を通じた,新価値実装のあり方を示した。
博報堂が掲げる「生活者価値デザイン」という概念は,「生活者発想」というフィロソフィーを基盤としています。マーケティングの対象は一般的に消費者,つまり物を購入し,サービスを利用する人々ですが,博報堂はこれを「生活者」と捉え,単なる消費行動だけでなく生活全体を視野に入れるべきと考えてサービス提供に取り組んでいます。
マーケティングの概念は,時代と共に変化し続けてきました。1990年代のマーケティングは「競争」に主眼を置いていましたが,近年ではステークホルダーとの関係性や持続可能な社会の実現といった要素が重要視されるようになり,マーケティングのパラダイムが大きく変わりつつあります。
では,こうした変化の背景にはどのような要因があるのかというと,私たちは次に挙げる三つの変化に着目しています。
- 社会/経済(株主資本主義からステークホルダー資本主義へ)
- 産業/市場(産業ベースの市場から顧客との関係性ベースの市場へ)
- メディア(伝達から価値の共創へ)
現在,デジタルメディアやプラットフォーマーの力が大きくなり,従来メディアと言われていたものと,これはメディアではないと言われていたものがボーダレスにつながりつつあります。これを博報堂の中では「生活者インタフェース」と呼んでいるのですが,スマートフォンや店舗,IoT(Internet of Things)機器,交通機関など,さまざまな物にデータがつながる中で,社会インフラとして広義のメディアの影響力は高まっていると言えます。
デジタルメディアの普及により,フィルターバブルやエコーチェンバー,アルゴリズム依存による情報の偏りといった問題も顕在化していますが,一方でこれらの問題に対して,生活者は単に受け身で巻き込まれているわけではないということも分かっています。例えば,SNS(Social Networking Service)やネット上の情報が偏る可能性については,10代の若者を中心に気づいている人も多く,意識的にフィルターバブルの外にアクセスを試みるなど,自らその影響をコントロールする行動を取っています。「再帰性」という言葉には,Recursive(一定の構造を繰り返し適用し,効率化を図る。データエンジニアリングやデータサイエンスの主流。)とReflective(一歩引いて俯瞰し,未来を意識的に選択する。人文社会・哲学の分野。)という二つの側面がありますが,彼らはこの「Reflective」の視点を持ち,アルゴリズムの外に出る行動を取ることで,より主体的に情報を選択しているわけです。この両者をうまく組み合わせていくことが,今後の課題ではないかと考えています。
現在,「生活者発想」のアップデートに向けて,京都大学の先生方と「カルチャー創生ラボ」を立ち上げ,活動を行っています。フィールドワークも交えたさまざまな議論を通じて,生活者発想をひも解く中で分かってきたのは,物事を二項対立で捉えたり,外から見てコントロールしようとしたりしがちな場面において,「それは違うのではないか」と問い直していくことが大事なのではないかということです。プロトタイプ的な実践の事例も複数,動いておりますが,今後はこうしたプロトタイプの一つをベースに成長させていきながら,哲学と実践を両輪で回していくことが重要になっていくと感じています。
講演1
わたしのデジタルツイン「Another Me」
永徳 真一郎
日本電信電話株式会社 デジタルツインコンピューティング研究センタ
主任研究員
「わたしのデジタルな分身によって,リアルなわたしの可能性を広げられないか」をコンセプトに,日本電信電話株式会社(以下,「NTT」と記す。)デジタルツインコンピューティング研究センタでは,[わたしのデジタルツイン「Another Me※)」]の研究開発に取り組んでいる。ここでは同社の永徳 真一郎主任研究員が,本技術の検討の過程や実証実験について述べた。
NTTが取り組むデジタルツインコンピューティング構想は,従来のデジタルツインの概念を発展させ,人の内面も含めたデジタルツインの構築とその相互作用をサイバー空間上で実現することをめざしています。その具体的なゴールの一つとして掲げているのが,今回ご紹介する「Another Me」です。これは,現実世界の制約を超えた自分のデジタルな分身を作るというもので,作った分身を本人の一部として社会の中で自律的に活動させることで,活躍や成長の機会を飛躍的に拡大できるのではないかという仮定の下に研究開発を進めております。
Another Meには,現時点では次の三つの要素が必要であると考えられます。
- 本人性(本人であると認められる性質)
- 自律性(指示や操作がなくとも活動を遂行できる能力)
- 一体性(生身のわたしが自分事と捉えられる性質)
では,これらの性質を備えたAnother Meの活用にあたっては,表現活動やコミュニケーションといったユースケースが考えられますが,実際Another Meの活用を考える中では,さまざまな矛盾にも直面しています。
例えば,見た目がそっくりならば自分らしいという考え方がある一方で,自分と似ていないアバターを自分として扱っているケースもありますし,そもそもデジタルな存在であるという時点で自分ではないと言うこともできます。そういった矛盾を整理するうえで,私たちは哲学にその可能性を求め,京都大学の先生方と共同研究をいたしました。
「私」あるいは「私の一部」とみなせるものを書き出してみると,いわゆる人を表す言葉だけではなく,生き物ですらない,物や事であっても,個人の一部を表すことがあると分かります。そこで,「私」という存在には二つの側面があるのではないかと考えました。
一つは「機能的な性質の集合体の私(Functional I)」,もう一つは「ある場所において何かを成し,今ここにいる私(Indexical I)で,この二つが組み合わさってこそ,Another Meを「自分の分身」と表現できるのではないかと考えました。著名人のキャラクターの再現など,具体的な複数の実証実験も行っており,引き続きこうした形で,「私」や「私ではない」という相反する存在について整理しながら,リアルな人とデジタルな存在の新たな関係・可能性について探っていきたいと考えています。
- ※)
- AnotherMeは,日本電信電話株式会社の登録商標である。
講演2
総合金融グループとアカデミアで挑む:社会課題解決への価値創造
木村 陽介
京都大学 SMBC 京大スタジオ
イノベーションプロデューサ
SMBCグループと京都大学は,社会的価値の創造に向けた総合金融グループとアカデミアの連携の一環として,京都大学SMBC京大スタジオを立ち上げた。ここでは,京都大学SMBC 京大スタジオのイノベーションプロデューサを務める木村 陽介氏が,同スタジオの取り組みや,社会的価値創造に向けた新たな資金の流れについて語った。
SMBC京大スタジオは,総合金融グループとアカデミアの連携の一環として2024年7月に開設され,「社会課題解決に向けた事業創出」, 「社会課題解決に取り組む人材の輩出」,「社会的価値創造による好循環の実現」という三つの目標の下,発達障がい特性がある方々の就労における能力発揮支援など複数の研究テーマについて,SMBCグループのシンクタンクと京都大学の先生方の共同研究を行っています。
SMBCグループは現中期経営計画の三本の柱の一つとして,「社会的価値の創造」を掲げています。ここには二つの理由があり,一つは,環境問題や少子高齢化をはじめとして拡大・深刻化する世界および日本の課題を早急に解決しなければならないということ,もう一つは企業の価値を測る物差しが変わり,従来の経済的価値に社会的価値が加わったということです。
社会の持続的な成長なしに企業の成長はありえないという考え方の下,SMBCグループは社会課題を起点として金融・非金融にかかわらず課題に取り組むことで社会に貢献し,経済的価値と社会的価値の双方を実現しようとしています。
例えば,「社会的価値創造に向けた新たな資金の流れ」として,大学の研究からその社会実装に至るまで,シーズから具体的なテーマを生み出す段階,研究テーマを基に実装する段階などにおいて資金提供やパートナーの発掘といったサポートを行っていくことや,「社会課題解決に”お金”を回す枠組」として,預金の使途をサステナブルファイナンスやインパクト投資という分野に限る,グリーン預金やソーシャル預金などの取り組みも進めています。
SMBCグループでは,インパクトという新しい物差しをビジネスにおいても活用し,社会や環境にポジティブな影響を与え,ネガティブな影響を軽減するお客さまの事業を,ファイナンスを通して支援しています。例えば,公的事業に対して投融資を行い,当該事業で実現した社会的インパクトに応じて金銭的価値に換算し,インセンティブが支払われる「ソーシャル・インパクト・ボンド」や,ソーシャルスタートアップを支援するインパクト投資のフレームワーク構築など,お客さまの事業がどのようなインパクトをもたらすか検討し,そして最適な事業戦略を策定するところまで一連のサポートを提供しています。
SMBC京大スタジオでは,市民や企業,行政の方々を巻き込んでムーブメントを起こしていくような活動を続けていきたいと考えていますが,ステークホルダーの方々の価値観はそれぞれの立場によっても異なりますので,経済的価値と異なり必ずしも定量的に示せない社会的価値について,どのように説明を行い,連携の輪を広げるかが今後の課題と考えています。
講演3
Society 5.0実現への挑戦~日立市共創プロジェクトから日本を元気に~
佐野 豊
日立製作所 ひたち協創プロジェクト推進本部
本部長
日立は,社会イノベーション事業で培った実績を生かしながら,現在,創業の地・日立市での協創プロジェクトをはじめとしたさまざまな活動を通じて,社会課題の解決とSociety 5.0の実現をめざしている。本講演では,住民と共に新しい未来社会を創造し,地域の活性化をモデル化する取り組みについて,日立製作所 ひたち協創プロジェクト推進本部 本部長の佐野 豊が紹介した。
日立製作所は1910年の創業以来,タービンや発電機などのエネルギー分野を中心に,鉄道やコンピュータといった社会インフラを支える幅広い製品・サービスを提供してきました。2010年以降はデータとテクノロジーを活用して社会課題の解決とサステナブルな社会の実現をめざす社会イノベーション事業にシフトし,プラネタリーバウンダリーとウェルビーイングの両立を掲げて,健全な地球環境を守りながら一人一人が快適に活躍できる社会の実現をめざしています。そのためには,顧客やステークホルダー,市民も含めた「地域協創型」のアプローチが今後ますます重要になると考えています。
こうした中,日立は世界各地でスマートシティ事業を推進してきました。本事業では,ゼロから新たな都市を創る「グリーンフィールド型」と,既存の街をアップデートする「ブラウンフィールド型」の二つのアプローチを経験しており,本日はそれぞれの事例についてご紹介したいと思います。
- 柏の葉スマートシティ(グリーンフィールド型)
千葉県柏市・三井不動産・東京大学が主導するプロジェクトで,「環境共生」,「健康長寿」,「新産業創造」をテーマに,未来都市のモデルづくりを進めています。日立は地域エネルギーマネジメントを担っているほか,市民参加型の「みんなのまちづくりスタジオ」を運営し,フレイル予防AIを活用した高齢者向け健康支援プロジェクトを推進しています。 - 日立市協創プロジェクト(ブラウンフィールド型)
茨城県日立市は,市民の約7割が日立グループの関係者であると言われるほど日立製作所との関係が深い地域ですが,他の地域と同様に,人口減少や高齢化,公共交通の減便,産業部門のCO2排出量など,複合的な社会課題に直面しています。これに対し,日立は「グリーン産業都市」,「デジタル健康医療介護」,「公共交通のスマート化」の三つのテーマを掲げ,地域の中小企業向けに脱炭素経営支援システムを提供するなど,さまざまな分野での協創を進めています。
未来社会の創造には,市民一人一人が課題を「自分事」として捉え,共に取り組むことが不可欠です。日立市と同様の特性を持つ地域は日本国内に100以上あると見込まれており,これらのプロジェクトを通じて確立したソリューションを全国へ展開し,日本全体の活性化に貢献していきたいと考えています。
講演4
地域施策と価値の見える化
大輪 美沙
日立製作所 研究開発グループ
基礎研究センタ 日立京大ラボ 研究員
地域の持続的発展には,施策の経済価値に加えて社会・環境価値も重要であるとされるが,社会価値は客観指標だけでは評価しにくく,施策を導入しても住民に受け入れられないこともある。ここでは,日立製作所 研究開発グループ 基礎研究センタ 日立京大ラボ 研究員の大輪 美沙が,人々の主観的価値観に基づいた社会価値の新しい評価手法に関する日立京大ラボの研究について報告した。
日立京大ラボでの研究を通じて日本の未来シナリオをシミュレーションする中で,地域の持続可能性を高めるためには特定の都市への一極集中ではなく,地方分散型社会への転換が必要であるということが分かってきました。そのためには,地域の住民や企業,自治体といった多様なステークホルダーが主体的に施策を選択し,実行していくことが重要です。
これまでに,経済や環境などのさまざまな価値軸で地域の施策の効果を算出する,客観シミュレーションを開発してきました。このシミュレーション技術は,地域内に設置されたセンサーやオープンデータから得られる情報を基に地域モデルを構築し,施策の効果を算出するものです。
地域における自然エネルギーの自給自足に関する施策の検討に本技術を適用し,発電機の種類や発電規模のパターンを変えながら,経済的・環境的な影響を詳細にシミュレーションしました。その結果,例えば,最も優れた域内分配率を示す施策ではCO2排出量やコストの削減量の値が悪いなど,一つの指標が良好な施策でも,他の指標には悪影響を及ぼす可能性があることが分かりました。
どの指標が重要であるかということは,立場や価値観によっても異なるため,一つの施策ですべての指標を最適化することは困難です。
そこで,定量的なデータを用いて経済価値や環境価値を軸とした評価を行う従来の客観シミュレーションだけではなく,地域の目標や住民の幸福感を反映する社会価値の視点を加えた主観的なシミュレーションが必要になるのではないかと考えました。その一つの参考例として,よりよい地域をつくるための社会的インパクトを評価するという仕組みがあります。これは,物事の論理的なつながりを図などで表現するロジックモデルという手法を用いるもので,施策をインプットに,地域として実現したい目標を最終インパクトに据えて,その間を多数の指標とつながりで表現するモデルをつくるものです。
実際に,九州のある自治体の協力の下,地域の健幸施策を社会価値の観点から評価し,モデルを生成するワークショップを実施しました。これは,参加者が地域のめざす姿を議論し,重要な指標を洗い出して定量的に評価することで,複数の施策が地域社会に与える影響をランキング形式で数値化するというもので,定性的な情報を用いて施策が社会価値に与える影響を数値化することで,本来比較しにくかった異なる施策が比較できるようになり,より地域に適した施策を選択できるようになると分かりました。
引き続き,人の価値判断基準を施策の評価に活用する研究を進め,多様な価値観を反映した地域施策の意思決定を支援していきたいと考えています。
パネルディスカッション
新たな価値の社会実装
[モデレータ]
水野 弘之
日立製作所 研究開発グループ 基礎研究センタ 日立京大ラボ ラボ長
水野今回のパネルディスカッションでは,大きく二部に分けて議論を行いたいと思います。まず,一つ目です。人は一人では立つことができず,企業も一社でできることは非常に限られています。この,出口先生のおっしゃる「根底的なできなさ」を踏まえて,皆さんがこれまでに「できなかったこと」という観点からコメントを頂けますでしょうか。通常の講演では,過去のできたことか,未来のこれから行うことについてのご紹介が多くなるところなのですが,ここではあえて「できなかったこと」について,可能な範囲でご紹介いただければと思います。
岩﨑マーケティングの強みとして,需要サイドからインパクトを作っていく中でさまざまな施策のプロトタイプができつつあるのですが,それを安定的に提供していく体制はわれわれ単独では確立できないところですので,今後の大きな課題になると思っています。また人財の問題もありますね。B2B(Business to Business)で企業に対してサービスを提供できる人財はいても,B2S(Business to Society),社会に向けたサービスをする人財は少なくて,これをどう確保していくかも課題になるのではないでしょうか。
永徳工学の使命は最終的には何か物を作るというところにあると思うのですが,例えば先程の講演でお話した「Another Me」について,いざその要件を整理した時に,工学として何が必要で,何が必要ではないのか,そうした取捨選択がまだやり切れていないかなと考えています。一方で皆さんの講演を聞いていると,もしかしたら決まらないのが正しいことなのかもしれないとか,何かを決めるということ自体がそもそも違うのかもしれないとか,そんな風にも感じています。
木村SMBC京大スタジオとして取り組んでいる研究の中に,教育をテーマにしたものがあるのですが,学校教育を対象とした研究はなかなかビジネスや経済価値につなげるのが難しいところがあります。そこで,子どもたちが抱えている課題を起点に,さまざまな企業が社会的価値の創出に取り組んでいくような動きをつくれないかと考えているのですが,やはり社会的価値を定量的に示したり,言語化するといったことがまだ十分でなく,今後のポイントになると思っております。
佐野スマートシティプロジェクトに携わる中で,例えば交通の問題を単に交通ソリューションで解決するのではなく,他のテーマと掛け合わせて提供することでよりよい解決策を模索するというアプローチを取っているのですが,元々単独ではできない取り組みに対し,課題を掛け合わせることでさらにステークホルダーが増えてしまって,解決をいっそう複雑にしているというジレンマがあります。また先程お話しした日立市の事例について,日立市と日立は歴史的なつながりが非常に深く,さまざまな地域課題の解決を日立製作所に期待される部分が多いのですが,現代において企業が単独でできることは限られているのが実情です。過去できていたことができなくなった,とも言えますが,現在はさまざまなステークホルダーの方と連携しながら取り組んでいるところです。
大輪これまでの研究では,私たちの活動と自治体や地域住民の方の間を取り持ってくださる方々に多々ご協力を頂いていたのですが,他の地域に行ったときに私たちだけで同じことができるかというと,そこがネックになると感じています。特に地方に行けば行くほど,地域の中と外で線引きされるところもあってなかなか本音が聞けないので,双方をつないでくれる人財をどう見つけていくのかが非常に難しいところと思っています。
水野ありがとうございます。では次に,今それぞれにお話しいただいたことに対して,ヒントとなるようなコメントを講演者から頂ければと思います。博報堂の岩﨑さんから,施策の安定的な提供体制の構築や人財面の課題についてのお話がありましたが,これに対して佐野さんはどうお考えでしょうか。
佐野マーケティングの観点からの生活者の概念は,非常に参考になりました。質問なのですが,価値の生産者側としての生活者には,どういった観点があるのでしょうか。
岩﨑博報堂の取り組みの一つに,富山県朝日町の「ノッカルあさひまち」という事例があります。これは,自力での移動が難しい高齢者の交通手段を確保するため,地域住民の「移動ニーズ」と「マイカー移動の余白」をマッチングできるデジタルインフラを提供するというものなのですが,移動したい高齢者の方と,マイカーでの移動時に高齢者を乗せる方,その両方が地域の方々です。基本的には利用する方が消費者で,マイカーを提供する方が供給サイドということになると思うのですが,恐らく両者の関係はそこまではっきりと分かれておらず,前者の方々がシステムを利用することで街のインフラが作られていく,後者の方々は人を乗せることで喜びを感じているなど,双方が生産も消費もしている。これこそが私たちの定義でいうところの生活者であると考えています。
佐野ありがとうございます。私たち自身も平日昼間は従業員,夜は家族,土日は消費者といったさまざまな側面を持っているので,それこそが価値多層社会の姿なのかなと感じます。
水野NTTの永徳さんからは,工学的に必要なこと,不要なことを決め切れていない一方,決めることが必ずしも正しいわけではないのではないかというお話を頂きました。これについて,同じく研究者である大輪さんはどのようにお考えでしょうか。
大輪研究を行ううえで,何かしら社会の役に立つ物を作っていくことは非常に重要ではあるのですが,例えばある製品を使用する人は,その製品を使用することで得られる物を是として受け入れて使うわけです。とすると,こちら側が誘導して「決めさせている」という捉え方もあるのかなと思いました。何かを決めること自体が違うのかもしれない,ということについては,誰もが自分事として捉えた時に出てくる「やらなければいけないもの」を工学者が吸い上げて,効率的にサポートできるといいのかなと思いました。
水野なかなか深い議論ができているように思います。続いてSMBC京大スタジオの木村さんの,社会的価値は具体的に捉えるのが難しく,定量化や言語化に苦労されているというお話について,博報堂の岩﨑さんから何かご示唆はございますでしょうか。
岩﨑経済的価値が循環する仕組みを社会的価値の中で作っていくということで,さまざまな預金の形や仕組みのお話がありましたが,経済的価値自体を問い直すという考え方もあるのではないかと思いました。社会価値は定性的・主観的に定義されますが,実は経済的価値にも金額の多寡だけに還元されない主観的な要素が非常に多く入っています。そこがひも解かれていないということに,経済的価値を作るうえでのカギがあるように思いました。そこを哲学でほぐし直していくことで,仕組みと社会的価値の新しい循環が作れないかなと感じたのですが,いかがでしょうか。
木村おっしゃるとおり,社会的価値と経済的価値の両方を回していく仕組みづくりについては,総合金融グループが取り組むべきところと考えています。一方で,経済価値自体を問い直してみるというのは,個人的には新しい視点でした。例えばアート作品などには,「本当にその値段でいいの?」という値段がついていたり,それに価値があると多くの人が気づくことで値段が急に変わったりしますが,そういう現象の中に人間の本質のようなものがあるのではないかと感じており,これを哲学的に観察してみる視点があってもいいのではないかと感じました。
水野では次に日立の佐野さんのお話について,まちづくりでは,さまざまな施策を組み合わせることで相乗効果が期待できる一方,その分ステークホルダーの数が増え,プロジェクトの進行が難しくなるということでした。また,昔はできていたことが難しくなってきているというお話もありましたが,これも今の複雑な世の中を反映しているように思います。この点について,SMBC京大スタジオの木村さんからはいかがでしょうか。
木村日立市での取り組みをはじめ,本当に多くの方々を巻き込んだ,合意形成が難しいプロジェクトに取り組まれているのだと感じました。さまざまな価値観を考慮しつつ,円滑にプロジェクトを進めていくために,誰にどのような順番でアプローチしていくのかは重要なことだと思うのですが,そういった点で戦略的な動きや工夫があればぜひお伺いしたいです。
佐野まずは取り組みや私たちの考え方を認知してもらい,共感を覚えていただき,行動変容を促すことが重要と考えています。出口先生の基調講演で,価値というのは行動の方向性を決めるベクトル,あるいはドライバーであるというお話がありましたが,成熟した地域をさらなる成長軌道に乗せるためには,市民やステークホルダーの方々の方向感を束ねるというのが一つのアプローチになるのかなと思った次第です。
水野最後に,日立の大輪さんからは,地域の中に入って活動することの難しさについてお話しいただきました。NTTの永徳さん,研究者の観点から,この点についてコメントいただけますでしょうか。
永徳何ができる,できないという話ならば分かりやすいのですが,そうではない部分については,受け入れられにくい側面もあるのかなと,その点で共感を覚えました。実際に地域の方とお話をされる中で,気をつけていることや成功例などはありますでしょうか。
大輪相手の立場になって考えることが重要と考えています。研究のねらいや内容について説明も大切なのですが,相手はどういう気持ちで私たちを受け入れようとしているのか,自分だったらいきなりこんな話をされてどう思うだろうか,といったことを常に考えるようにしています。
水野皆さんありがとうございました。最後に出口先生から,本日のプログラムを振り返って総括をいただけますでしょうか。
出口本日のシンポジウムでは,価値をテーマとしてさまざまなご講演をいただきました。価値というのは方向性を束ねるベクトルをめざすわけですが,価値だけでは実現できないこともあります。実現に向けて進み続けることはできても,そのプロセスを全うできるかというと,それもまた難しいことであると思っています。例えば,「人生を全うする」という言い方をします。それが具体的にどういうことかは,個人の価値観によっても違ってきますが,例えば大往生が一つの「全う」のあり方だとしたら,どれだけ健康に気を遣ったとしても皆が意図的に大往生を遂げられるわけではないのです。つまり,私たちはやはり根源的な「できなさ」を抱えているということです。では,私たちには何もできないのかというと,そうではありません。人生においても,企業活動においても同様に,目的とする場所にたどり着けなかったり,失敗や挫折をしたりすることは当然あります。しかし一人ではできなかったことを,他の誰かに手渡しすることはできる。これは企業や世代,社会など,さまざまなものにあてはまります。そういった観点からも,持続可能性とは直線的なものではなく,中断や失敗を経てそこから回復していく,正に山あり谷ありの冒険の中で手渡しをしていくものであると捉え直すことで,より私たちの置かれた世界の実態が見えてくるのではないかと思います。
閉会挨拶
三輪 俊晴
日立製作所 研究開発グループ 基礎研究センタ センタ長
一連のプログラムを終え,閉会の挨拶に登壇した日立製作所 研究開発グループ 基礎研究センタ センタ長の三輪 俊晴は,各講演やパネルディスカッションを通じた発表と議論の内容を振り返りながら,「今回のシンポジウムでは,新しい価値の社会実装をテーマとして,アカデミアのみならず,各企業の取り組みについてもご紹介いただきました。本日,ご共有いただいたトピックが,次の研究テーマや連携の気づきにもなったのではないかと考えています。日立京大ラボは,引き続き関係者の方々との対話と連携を深めながら,こうした場を通じて課題を共有し,次につなげる取り組みを継続して参りたいと思います。」と述べ,登壇者ならびに参加者への謝意を示すとともに,日立京大ラボの今後の活動に意欲を示した。