COVER STORY:FOREWORD
熊谷 則道
公益財団法人鉄道総合技術研究所 理事長
博士(情報科学)。1976年東北大学大学院工学研究科機械工学修士課程を修了。旧国鉄入社。鉄道総合技術研究所の研究開発推進室長,2007年理事,2011年専務理事を経て,2013年から現職。
鉄道車両の技術開発,車両計画,粘着力向上のためのブレーキ制御や車輪滑走防止装置の開発,新幹線の高速化研究に従事。現在,東京大学生産技術研究所研究顧問,経済産業省日本工業標準調査会委員,一般財団法人交通経済研究所評議員,一般財団法人日本自動車研究所評議員。
人は移動を好む。鉄道は産業革命の終わりの時期,19世紀に英国で生まれた技術である。マンチェスター・リバプール間で高速旅客輸送の営業が188年前に開始されて以後,鉄道は人,物の移動を時間的,量的にドラスティックに変えた。その影響は,仕事,旅行など移動範囲と生活圏の拡大,生鮮品や重量物の輸送,新聞,郵便などの情報の高速伝達,鉄道事業の巨大インフラ建設の資金調達と株式会社の成長や投資家層の形成,旅行代理業の誕生などに及び,鉄道が人々の生活,社会制度,経済の仕組みを変えるトリガーとなった。イノベーションとは社会経済や人の生活に生じる新たな価値をいう,とはピーター・ドラッカーの言葉だ。鉄道の誕生はイノベーションである。
鉄道が情報技術の実用化のトップを走ってきた証が,列車座席予約システムMARSに見て取れる。鉄道総研の前身である国鉄鉄道技術研究所の研究者がシステムの概念と論理設計の中心となった。当時の国鉄と開発契約を交わしたのは日立製作所である。1日3,600座席を扱うマルス1は1960年に使用が開始され,コンピュータの実用のパイオニアとなった。現在,マルスは1日約180万件を扱うシステムになり高い信頼性を獲得している。高い列車密度での安全運行に欠かせない新幹線デジタルATC(Automatic Train Control)や運行管理システム(COMTRAC,COSMOS,ATOS)もICT(Information and Communication Technology)の成果である。
今,情報革命と呼ばれる技術変革のなかで,私たちは情報という定義しがたい物理量を処理する時代に置かれている。情報は伝達速度と伝達量において比類なき特徴を有している一方,情報の質や内容量の価値を直観できないがゆえに,弱点も生じる。情報が正しいか誤っているかの判別が直感できる仕組みがほしい。情報に不可避の不確実性が存在するのであれば,情報を授受する者が情報の信頼性や,正しさを確認できるシステムが必要になると思うのである。
デジタル化の究極は人の思考と行動の定量化である。デジタル化は,人により近づこうとする取り組みといっても過言ではない。人の行動は論理的であるとともにあいまいだ。シミュレーション解析技術や画像処理技術などによる医学と工学とのコラボレーションにより,脳科学をはじめとする人の生理,心理についての研究が興味深い。人の仕組みが少しずつ明らかになっていく途上にあり,その深淵さに驚くばかりである。
鉄道の持続発展に対する脅威の一つは日本の総人口,就労人口の減少である。列車の運行や設備の保守業務の省力化や自動化は必須であり,ひいては徹底した仕事の効率化に取り組まねばならない。鉄道の基盤である安全安定輸送,高速輸送,大量輸送,定時輸送,省エネルギー輸送の5つの特質をさらに高めることが鉄道技術者に課せられた使命である。ここに最新の情報・通信技術を積極的に取り入れる理由がある。
鉄道総研では鉄道のデジタル化推進として,「ICT革新プロジェクト」を立ち上げ,鉄道事業者,産業界との研究開発の協働を進めている。プロジェクトでは,列車運行の安全向上,メンテナンスの自動化,列車運行の自動化,列車・設備位置情報統合技術を4つの柱として取り組む。情報共有のプラットフォームとして鉄道技術情報ネットワーク化も欠かせない。状態監視型設備保守(CBM:Condition Based Maintenance)のための多機能計測や画像データの解析,自動運転対応前方監視,無線式列車制御,車両・地上間通信,リアルタイム自然災害ハザードマップ,列車ダイヤの自動作成など,規模は小さいが個別の目的に沿ったICTの適用をめざしていく。省力化を目標とするケースでは,人と同質の機能をもたせるためにICT装置に機械学習,人工知能の導入を進める必要がある。人の管理の下で稼働する人工知能などの新技術を基盤とする次世代の鉄道により,新しい価値を創ってまいりたい。
現在の技術革新が拙速でなく,目先の成果にとらわれず,地に足の着いたゆるぎない技術成果を生むよう,官,学,産の技術者が強い信念をもって情報革命に取り組むことを期待する。これに誘起される技術成果は人に安全・安心を確保して社会を豊かにするものでなくてはならない。