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Innovators’ Legacy:先駆者たちの英知Human Security and Well-beingの時代を支える新たな「倫理」[第1回]ポストコロナ,ポストウクライナの時代を考える(前編)

2022年10月31日

小泉 英明

小泉 英明

  • 日立製作所名誉フェロー,日本工学アカデミー顧問(前上級副会長)。
    1971年東京大学教養学部基礎科学科卒業,同年日立製作所計測器事業部入社。1976年理学部に論文を提出し,東京大学理学博士。環境・医療などの分野で多くの新原理を創出し,社会実装した。2000年基礎研究所所長,2003年技師長,2004年 フェローを経て,2017年より現職。東京大学先端科学技術研究センター フェロー・ボードメンバー,中国工程院外国籍院士・東南大学栄誉教授。国際工学アカデミー連合(CAETS)理事,米国・欧州・豪州などの各種研究機関や財団のボードを歴任。近著に『アインシュタインの逆オメガ:脳の進化から教育を考える(Evolutionary Pedagogy)』(パピルス賞受賞作品,文藝春秋社刊)。

VUCA(Volatility, Uncertainly, Complexity, Ambiguity:変動性・不確実性・複雑性・曖昧性)とも表現される今日の社会において,国家,組織や企業,個人の「より良き生存」を実現するうえで必要なものは何か。本連載では,脳科学と教育,科学と倫理の問題といった,分野横断的な幅広い研究活動で国際的にも活躍する日立製作所の小泉英明名誉フェローが,思想・哲学,技術,科学,芸術などのさまざまな視座から考察していく。

第1回のテーマは,ポストコロナ・ポストウクライナの時代をどう捉えるか。

2年以上にわたって世界を覆い続けているコロナ禍は,各国の社会や経済に大きな影響をもたらした。さらに,その収束の兆しが見え始めた中で起きたロシア政府によるウクライナ侵攻は,世界的な食糧問題を引き起こすとともに,国際社会における安全保障の枠組みにも変化を迫っている。さまざまな面で岐路に立たされる世界において,国,企業,個人のより良いあり方の基軸となるものとは。新たな可能性を切り拓いていくために必要なものとは。

目次

新興感染症の背景にある構造的問題

今日の世界は大きな転換点を迎えています。新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミック以降,さまざまなところでこうした言説が展開されるようになりました。2019年12月に中国の武漢で原因不明の肺炎患者が報告されてからわずか数か月で世界中へ広まったこの感染症は,ウイルスの変異による感染拡大と減少の波を繰り返しながら広がり続け,ジョンズ・ホプキンズ大学 (Johns Hopkins University)のデータによれば,2022年8月時点で世界の累計感染者数は6億人近くまで達しています。亡くなった方は643万人。超過死亡数※1)も考慮すると,もっと大きな数字が推定されます。一方,変異株に対応したワクチンや治療薬の開発,治療法の確立も進み,新型ウイルスとの共生に向けた動きも広がっています。

そうした中,2022年2月24日にはロシア政府によるウクライナへの軍事侵攻が開始されました。これによって生じたエネルギー問題や食糧問題,安全保障問題は,パンデミックの出口を探り始めた国際社会に新たな混迷をもたらしています※2)

これら二つの問題は一見関わりがないように思えますが,注意深く観察すると共通点も見えてきます。一つは,従来の価値観や物事の枠組みを大きく変える転換点となっていること,もう一つはそれらの遠因となっている社会課題です。転換点の先にあるポストコロナ,あるいはポストウクライナの世界がどうなるのかについてはさまざまな議論が交わされていますが,そのためには両者を俯瞰し,共通する大きな時代の流れを明らかにすることが欠かせません。背景となるさまざまな宗教の系譜も考察すべき時代に入りつつあり,欧州の複雑な歴史を遡って考えることも必要となります。


図1 母なるヴォルガ:ロシアとその周辺諸国との原点 図1 母なるヴォルガ:ロシアとその周辺諸国との原点 Photo by H.Koizumi9世紀から13世紀にかけて,北欧・東欧に存在したのがキエフ大公国(古スラブ語でルーシ:Роусь:ロシアの語源)であり,現在のウクライナもその領域内に入ります。中心となるヴォルガ川は延長3,696 kmの大河川で,その水系と運河によって,内陸の首都モスクワは「五海洋への港町」と呼ばれるようになりました。五海洋とは白海,バルト海,カスピ海,アゾフ海,黒海を指しています。

図2 水系の高低差を克服した水門技術 図2 水系の高低差を克服した水門技術 Photo by H.Koizumiカスピ海に注ぐロシアのヴォルガ川加え,黒海へと注ぐドン川は,ヴォルガ・ドン運河(総延長101 km)によってつながっています。数百メートルの標高差を段階的に克服する水門技術によって,ロシアの大型船舶の航行は五海洋へとつながるのです。このヴォルガ川を航行する大型船舶を貸し切って,1週間単位の国際会議が船上で開催されたことがありました。その長旅を繰り返して,ヴォルガ川水系がロシアと周辺諸国(ウクライナ・ベラルーシを含む)との地勢学上の根幹にあることを知りました。

自然界とそれに含まれる人間の社会を俯瞰しようとすればするほど,個別分野の基本に立ち返ることが必要とされてきます。幹が明瞭に見えないと,個別分野間の架橋・融合も困難です。個別分野から関係しそうな枝葉を集めても,それは雑貨店のようになって架橋・融合は起こりません。その難しい問題に半世紀以上も真摯に取り組んできたのが,シチリア島にあるエトーレ・マヨラナ科学文化研究所(EMFCSC:Ettore Majorana Foundation and Centre for Scientific Culture)です。この研究所は,1962年にワイスコフ(Victor Weisskopf,1908-2002),ラビ(Isidor Isaac Rabi,1898-1988),ゼキキ(Antonio Zichichi,1929-)らによって創立されました。物質の本質を晩年まで考え続け,量子力学・量子電磁力学の黎明期を生きたディラック(Paul Adrien Maurice Dirac,1902-1984年)やファインマン(Richard Feynman,1918-1988)らも深く関わってきました。地中海からそびえ立つ751 mの断崖の上に遺る中世都市エリチェの教会や修道院の跡を活用して,多くの領域架橋型の国際大学院プログラムを毎年実施してきました。約半世紀の間に,このプログラムに招聘された若い人々の中から,現在までに102名のノーベル賞受賞者が輩出されています(The History of EMFCSC)。コロナ禍が始まる直前まで,私も十数年間にわたり毎年必ずお手伝いを続けてきました。日本では知られていないこのプログラムの秘密についても,このシリーズの中で紹介したいと思います。


図3 エトーレ・マヨラナ科学文化研究所内のホール(左),討議室(右) 図3 エトーレ・マヨラナ科学文化研究所内のホール(左),討議室(右) Photo by H.Koizumiホールでは,個別分野からそれぞれ選ばれた世界的なメンター(Mentor:ギリシャ神話に由来し,若年者や経験の少ない者に知識を伝える役割を持つ人物)が,まず分野を俯瞰し,問題の本質を提示します。また時折,雲が流れ込んでくる討議室では,各メンターによって選ばれた計数十人の若手がポスターを前に熱い議論を展開します。朝食は,早朝に研究所の食堂で議論しながら,昼食と夕食はエリチェの主なレストランを毎回選んで議論を続けながらゆっくりと楽しみます(費用はすべてこの研究所が負担してくれるのです)。夜は地下室のマルサラルーム(蛇口付きの酒樽とピアノが置いてある)で,熱い議論はいつまでも尽きません。

※1)超過死亡数とは

超過死亡数とは,COVID-19により直接死亡した数に,さらにCOVID-19による間接的要因(医療制限による高齢者の慢性病の悪化など)による死者数の増減を加えた単位人口当たりの死者数のことをいいます。COVID-19の最終的な影響を俯瞰的に見るために重要ですが,正確な統計値を得るのは容易ではありません。日本のCOVID-19の超過死亡は6倍という国際学術誌(Lancet 2022)の論文もありますが,一般的には3倍程度でないかと推定されています。感染症対策による他の疾病の減少や,外出・旅行制限による交通事故の減少によって超過死亡数が小さくなる国もあります。また,その国の高齢化率も値を左右します。

※2)安全保障問題とパンデミック

ロシア政府のウクライナ侵攻に対して,CAETS(International Council of Academies of Engineering and Technological Sciences:国際工学アカデミー連合)からも声明が発出されました(CAETS Statement on Invasion of Ukraine - FINAL)。CAETSは工業化された31か国の各国代表工学アカデミーが加盟していますが,その内の5か国は国連総会決議にて棄権しています(2022年3月2日の国連総会緊急特別会合では,ロシアのウクライナ侵攻を糾弾する決議が,193か国中で,賛成141・反対5・棄権35で可決されました)。政治を離れたアカデミーの中立的な運営をいかに担保するかが,今,問われています。特に核兵器の使用可能性は倫理の最重要課題の一つとして浮上しています。さらに大量に存在する核兵器のハッキングへの対処も工学の喫緊の課題です。

今回のパンデミックの背景の一つに,近代文明の発展によって未知のウイルスと人間の接触が増えていることが挙げられます。ご承知のように,ウイルスはすでに共生関係にある生物の体内にいる限りは大きな問題を起こすことはありませんが,本来の宿主ではない生物が感染すると深刻な脅威となる可能性があります。新型コロナウイルスは,コウモリが保有していたコロナウイルスに由来すると見られています。また,エイズ(後天性免疫不全症候群)は主に霊長類が媒介するウイルスによる感染症です。これらRNAウイルスはDNAウイルスと異なり,遺伝子の自己修復機能が低く変異が起こりやすいのです。そのため進化速度が極めて速いことが本質的な特徴の一つです。迅速な科学的対処が必須とされる理由でもあります。2021年の東京オリンピック2020大会前後の新型コロナウイルス(デルタ株)による第5波は深刻でしたが,8月末から年末にかけて急速かつ完全に近く収束しました。これは第5波のデルタ株自体が日本独特の亜種(AY.29デルタ株として国際登録)であって,他国のデルタ株と異なっていたのです(新潟大学と国立遺伝学研究所の研究により判明)。修復機能に進化上の欠陥があって自壊したことが進化生物学の原理からも明らかにされました(しかし,一般には感染症対策が功を奏して第5波が収束したと捉えられています)。

このような野生生物由来の人獣共通感染症が広がる背景には,開発によって人間が野生生物の生息域にまで足を踏み入れるようになり,それらの持つウイルスや細菌に接する機会が増えていることが挙げられます。気候変動によって氷河や永久凍土の溶解が進むと,氷に閉じ込められていた現代人には未知の病原体が姿を現す可能性も指摘されています。他の生物種への配慮を欠いた人間本位の開発,地球温暖化を促進する化石燃料に依存した社会システムが継続される限り,新興感染症の脅威が去ることはないでしょう。これは極めて構造的な問題なのです。

パンデミックへの対応

新型コロナに関しては,まだ日本では感染者が報告されていなかった2020年1月に,在日中国大使館の依頼で新春スピーチを行った際,偶然にも武漢の状況を伺いました※3)。 それ以来,私は感染対策における分野横断的な連携による科学的アプローチの必要性を,シンポジウムや多くの報道機関を通じて訴えてきました。

新興感染症の一つの本質は,急速に変化する未知の状況への対応が容易ではないことです。また,多くの国で感染が爆発すると,自国の対応のみでは最終的な収束が困難です。2020年10月に開かれた新型コロナに関する別の国際会議(STS forum 2020の中の四つの関係セッション)において,中国の感染制御の責任者が述べた「アパートの火災は,自分の家を消火しただけでは済まない」という言葉が端的に状況を表しています。

データの蓄積がないウイルスと対峙することの難しさを,私たちは過去のパンデミックからも学んできたはずです。一方で今回のパンデミックでは遺伝子の解析技術[PCR(Polymerase Chain Reaction)などの増幅機能が含まれた新たな分析法]の発達によって,歴史上初めて,遺伝子情報によるウイルスの進化過程の明瞭な観察が可能になりました。つまり本来ならば,新しい計測手段と情報技術を駆使してエビデンスをきちんと集め,明確な根拠に基づいて科学的に対処することができたはずでした。※4) しかし,世界の国々は独自のやり方でパンデミックに対峙しました。それにより,「科学的」であるということにも,多くの難しい問題が伴うことが見えてきています。さらに具体策が焦眉の急である事態には,分野を越えて対峙するというTrans-disciplinary(シリーズの中で後述する環学性・超分野性の概念)の重要性が浮上すると同時に,サイロ化している科学技術を緊急動員する困難性も露呈しました。

先進医療が特に発達している国々さえも,痛ましい状況を呈しています。米国のCDC(Centers for Disease Control and Prevention:疾病予防管理センター)は伝統的かつ最も進んだ感染制御の司令塔であるはずですが, 2022年8月15日時点でWHO(World Health Organization:世界保健機構)に報告されている人口百万人当たりの累積死者数は3,185人に上ります。基礎研究に注力してきた米国はノーベル賞受賞者も最も多く最高の医療制度を誇っていたはずでした。同様に優れた医療制度を誇る英国でも2,731人,フランスは2,341人,ドイツは1,738人です。

この点については,2020年のSTS Forum COVID-19シンポジウムで素晴らしい議長を務めたファインバーグ博士(Harvey Fineberg:全米医学アカデミー元会長,ハーバード大学元総長・同公衆衛生学大学院元院長)に,2022年のSTM Forumでも直接ご指導を賜りました。先生は科学的アプローチをめざして,現在,CAETS加盟アカデミーとも連携を取っています。

一方,日本では科学的対応や抜本施策が遅れたにもかかわらず,確認された人口百万人当たりの累積死者数は281人となっています。これについては,2022年のノーベル生理学・医学賞を受賞したペーボ博士(Svante Pääbo)が発見したネアンデルタールとホモサピエンスの交雑の結果が人種の遺伝子に反映され,重症化リスクに差が生じている現象が現れている可能性があると思われます。パンデミックにおける感染制御の目的は,最終的に死者をどれだけ少なく抑えられるかです。感染制御よりも経済を回さないと自殺者が増えて倫理にもとるという意見も一部から出ましたが,前述の超過死亡数による統計学的な検討が必要です。各国の対応の違いは,文明と文化,政治体制,そして倫理の違いを反映しているのかもしれません。そのことはウクライナの問題とも深層でつながっている可能性があります。

また,疫学でも軍事でも,測るということが基本にあります。レーダーの開発で歴史を変えた第二次世界大戦下のMIT Radiation Laboratoryの研究現場は,測ることが基本にあったのです(シリーズの中で後述します)。

米国に倣って日本版CDCを早急に作るべきという考えは拙速であり,まずは科学技術と異分野間連携に根差した日本独自の将来ビジョンを示したうえで,それに基づいて司令塔を具体化すべきでしょう。かつて1970年代には,素晴らしく輝いて見えた米国を拠点として私も研究を進めてきました。偏光ゼーマン法の発見と実用化によって[Analytical Chemistry, Science(1977)],カリフォルニア大学ローレンスバークレー研究所(LBL:Lawrence Berkeley National Laboratory)や国立標準局[NBS:National Bureau of Standards,現NIST(National Institute of Standards and Technology)],そして陸軍工兵隊水路研究所(米国最古の水資源管理の研究所であり地球環境問題を示唆した最初の現場)から,客員研究員として年単位あるいは月単位で招聘され,そこを拠点に米国の国立機関[NIH(National Institutes of Health),CDC,EPA(Environmental Protection Agency),FDA(Food and Drug Administration),FBI(Federal Bureau of Investigation)など]の現場と共同研究を進めました。測れなかったものが測れるようになると,分野を問わずにさまざまな要請が飛び込んでくるのです。

さらに今後は,計測法開発の世界の中心であるNISTがパンデミックへの対処技術を急ぎ開発することが期待されます。なぜなら,感染検査の分野は分析科学(Analytical Science)分野のごく一部であって,小さなサイロにすぎないからです。未知の物事に対峙するには,エビデンス取得が一丁目一番地です。その後に,ワクチン・治療薬へと進みます※4)

日本の新型コロナ対応※5)では,歴史的な国民皆保険制度による医療の質と国民一人ひとりの衛生意識が高かったことが評価されています。ただし,医療従事者の方々の長期間にわたる献身的なご尽力にも関わらず,助けられたであろう命が失われたことは,医療システムの構造的な問題,政治の指導力,行政システムや感染制御の指令塔の問題など,日本の医療制度のさまざまな課題を顕在化させました。特に状況が深刻であった京都・大阪では,現場の力でこの困難を乗り切ろうと,若い医師たちが中心になって仮設のPCR検査場を開設し,救急医療の限界を受けて24時間体制の訪問診療を輪番制で実施するなどの取り組みが行われました。在宅での抗体カクテル療法も成功させた現場力(小林正宜葛西医院院長)は高く評価されるべきと思います。制度設計の専門家もパンデミックの収束を待たずに,医療制度変更による改善の必要性を提言しています。

私も現場と連携をとりながら,パンデミックに対峙するための一丁目一番地となる実態把握,特に新しい統合計測システムに関して提言を繰り返してきました。新検査システムの概念についての十分な理解はまだ得られてはいませんが,中国では新しい検査システムが2021年のCAETSの賞を受賞しています。

一方,下水による先行実態把握(ウイルスの変異種とその動態計測)は注目されつつあります。これは新手法である環境メタ分析(ある場所の海水を採取して高感度な遺伝子解析を行うとともに,遺伝子断片からAIによって生物種を同定する海洋の環境分析手法)を発展させ,下水分析へと展開した概念です。現在,日本分析化学会会員の北島正章北海道大学准教授が世界で最初の総説を書き,また,検出感度を100倍に高めるなど,精度の向上に取り組んでいます(北島正章ほか:「下水中の新型コロナウイルスの分析」,ぶんせき,2020)。下水中のウイルスは固形物表面に吸着しており,夾雑物下での高感度・高正確度分析は分析化学分野の経験と知識が必須なのです。10万人の中から一人の感染者を発見できる世界に先駆けた超高感度下水分析は,東京オリンピック2020の選手村で実際に活用され,新型コロナウイルス(変異種を含む)の分布が北島グループから発表されました[M. Kitajima, et al.: Journal of Travel Medicine,29(3), (2022)]

パンデミックへの対処はサイロの一部である感染症分野だけでは困難です。感染状況的確に把握するには感染者を発見することが必要ですが,これに際しては,感染者個人の特定だけでなく世界を面として捉えることが肝要です。従来の個人から世界へと実態を把握すると同時に,逆転の発想で,世界から個人へ遡る方法論も必須だと考えています。

実はこのようなTrans-disciplinaryな発想がイノベーションの本質であるということは,このシリーズの中で事例を述べていきたいと思います。


図4 「点から面へ」同時に「面から点へ」 図4 「点から面へ」同時に「面から点へ」 注)札幌医科大学,Johns Hopkins University School of Medicineの統計データを基に,本概念を作図。
2021年5月20日開催のFuture Center Alliance Japan第15回トポス会議における野中郁次郎氏との対談で本概念を提案。
従来のPCR検査は,感染者を地域によって累計し,その地域の感染状態を見ていました。点から面へのサーベイランスです。一方,下水による検査は,地域の感染状況が先に分かります。感染地域を早期に発見して,その地域で個別のPCR検査を行えば,面から点が分かります。現在の高感度下水検査は,10万人に一人の感染が分かるオーダーですので,全数検査に比較して極めて効率のよいサーベイランスが可能となります。
さらに,ウイルスの断片からAIを用いて,変異種の同定をより確実なものにすることができます。

図5 新型コロナに対峙する各国の姿勢 図5 新型コロナに対峙する各国の姿勢 注)札幌医科大学,Johns Hopkins University School of Medicineの統計データを基に作図。
2020年10月12日開催のCAETS COVID-19 Special Committeeにおける小泉講演資料を和訳し,2022 年8月の内容に改変したものである。
痛ましいことではありますが,新型コロナによる累積死者数(人口100万人あたり)を時間軸に沿ってグラフ化すると,新型コロナに対峙する各国の姿勢が見えてきます。米国,英国,韓国,スウェーデン,日本,中国については本文中に記載しましたが,それ以外にも,統計精度が高く,かつ特徴的な国を選んで,ごく簡単なコメントを付けました。最終的に守るべきは人の命であって,総合的な感染制御の成功/不成功(失敗)を評価するには累積死者数や超過死亡数が適切な指標となります。

図6 新型コロナによる人口100万人あたりの累積死者数 図6 新型コロナによる人口100万人あたりの累積死者数 注)札幌医科大学,Johns Hopkins University School of Medicineの統計データを基に作図。統計精度は国によって異なる。
また,超過死亡数の統計的な検討によって実際の新型コロナの影響によって死亡した実態が推定される。
累積死者集の統計精度は各国によって異なる可能性がありますが,累積死者数の傾向を見ることはできます。代表的な先進国の新型コロナ累積死者数(人口100万人あたり)には痛ましいものがあります(2022年9月のデータ)。英国の王立工学アカデミー(RAEng:Royal Academy of Engineering)も,科学技術の視座から調査を開始しました。

※3)東アジア工学アカデミー円卓会議

2021年に第24回目を迎えた東アジア工学アカデミー円卓会議(EA-RTM:East Asia Round Table Meeting of Academies of Engineering)は,日本工学アカデミー(EAJ:The Engineering Academy of Japan),中国工程院(CAE:Chinese Academy of Engineering),韓国工學翰林院(NAEK:The National Academy of Engineering of Korea)の3か国の工学アカデミー間の会議です。1997年に第1回が大阪で開催されて以来,日中韓が毎年輪番制で,円卓会議と3か国に共通するテーマのシンポジウムを開催し,政治を離れて科学技術のあり方を議論してきました。この枠組みは31か国から構成されるCAETSの関係組織でもあります。2019年は西尾章治郎大阪大学総長(EAJ関西支部長 )のご協力のもと,分野横断的な視座からより深い医工連携の方向性を議論しました。その直後の新型コロナ出現により,この会議の延長線上に,CAETS COVID-19 Special Committeeが,CAETS2020総会(韓国,Oh-Kyong Kwon総裁,2020年10月)の前に立ち上げられました。時宜を得た国際委員会は数回開催されましたが,委員が自国の感染制御で極めて多忙なこと,感染制御自体が政権評価と直結したことという二つ理由により,連携継続は困難となりました。CAETS2020総会はリモートが併用され,韓国首相の挨拶に続き感染制御の責任者(KDCA:Korea Desease Contrl and Preventin Agency)からK防疫の優れた内容が報告されました。しかし,韓国経済への負担が大きいことが本質的でした。「コロナ19日常回復支援委員会」がCAETSと同じ10月にスタートして緩和策がとられたところ,感染爆発が生じて制御が困難となりました。これは大統領交替の一つの要因ともなり,現在に至っています。経済と感染制御の両立には希望的観測ではなくて,本格的な科学技術の導入が必須なのです。

※4)新型コロナウイルスのワクチンについて

ワクチン使用を主導した一人であるファウチ所長(Anthony S. Fauci,NIAD:国立アレルギー感染症研究所)は,共和党・民主党の両政権下(トランプ/バイデン大統領)で中立的な米国首席医療顧問を務めてきました。マッキンネル・ファイザー社名誉会長(Henry McKinnell)が座長を務めた2020年10月のSTS Forum(リモート開催)の新型コロナのセッションには途中から息せき切って参加し,まだ認可前のワクチンの重要性を強く主張して安全重視派を圧倒しました(トランプ大統領がコロナ感染によりヘリコプターで入院した翌日でした)。同年12月には,米国食品医薬品局(FDA)を含む数カ国の機関が,米ファイザー社と独ビオンテック社が開発した新型コロナウイルス感染症(COVID-19)ワクチンの緊急使用を許可しました[STSフォーラム:EAJ NEWS No.187 (Apr. 2021)]。

※5)日本の新型コロナ対応

2022年7月の参議院選挙の直前に,政府のCOVID-19対応を検証する有識者会議が内閣府によって準備されました。座長として指名されたのは永井良三先生(自治医科大学学長,宮内庁皇室医務主管)です。その会議で提出された永井先生の見解は,中立的かつ現在・将来の新型コロナ対応にすぐ役立つ内容に満ちています。

新型コロナウイルス感染症への対応について)。

同様に多くの学術論文を基調に,2020年から22年の初めにかけての新型コロナに関する事実関係をまとめたものに,黒木登志夫先生(元日本癌学会会長・元岐阜大学学長)による次の中公新書もポストコロナにつながる書籍です。

  1. 新型コロナへの科学:パンデミック,そして共生への未来へ(2020.1)
  2. 変異ウイルスとの闘い:コロナ治療薬とワクチン(2022.5)

この中で,黒木先生は「問題は指導者層に多かった」と振り返るとともに,本稿にも関係するウイルス検査については「最も問題があった一つ」と記されています。すなわち,「厚生労働省は(中略)感染症に対処するにあたって,その一番の基礎となるPCR検査を信頼せず,筋違いの反対をした。最初の2年間のPCR軽視政策の影響は根深い。いまだに,わが国の検査数は世界134位である(2022年3月15日現在)。オミクロン株の第六波のときには検査が間に合わず,「検査なし,臨床症状で診断」という恥ずかしい指針を出した。PCR検査軽視の影響は,診断だけではなく,医療全体に大きな悪影響を残した。」と記述されています。

事実,初期に「条件付き確率」の正しい概念を理解せずに,PCR検査を行わない理由とした方々は,今は口を閉ざしています。当時の書類の一部は,「新型コロナ対応・民間臨時調査会」報告書(和文2020.10,英文2021.1)に収められています。

これは安部晋三元首相を初めとして関係閣僚を含めてヒアリングした結果であり,菅義偉首相に手交されました(民間臨調委員長の小林喜光氏は,現在,日本工学アカデミー会長・東京電力会長です)。

スウェーデン政府の対応

スウェーデンは,生産性・科学技術水準・教育水準・国民の満足度などの客観指標がほぼ世界の最上位にあって未来のロールモデルになりつつあります。ノーベル賞だけでなく,100年以上前に世界で最初の工学アカデミー(IVA)を設立した歴史があります。

スウェーデンは私の最も尊敬する国の一つですが,このように科学技術が進み合理的な福祉国家国であっても,今回の新型コロナについては,科学的とされたアプローチに課題が残りました。後述するHuman Security and Well-being(人類の安寧とより良き生存)の根幹に関わるので,少し詳しく述べたいと思います。一般に不成功(失敗)は,反省のみの後ろ向きの姿勢で捉えられがちですが,正しく制御されるべき未来にとっては大切なことだからです。イノベーションにおいては,失敗は小さな成功以上に意味を持つことが多々あります。一例として,オランダにはイスケ(Paul Louis Iske)教授が主宰する「輝かしい失敗研究所(Institute for Brilliant Failures)」があり,失敗から価値を生み出す研究が行われています。

今回のパンデミックの初期において,先進的な健康福祉システムを持つスウェーデン政府は,極めて迅速にPCRなどの遺伝子検査手段の準備を済ませました(一方,日本は旧来の感染症対策の枠内に留まり,現在に至るまで現場では検査やデータのデジタル化が最大のネックとなるような残念な状況が続いています)※6)

一方でロックダウン(都市封鎖)のような厳格な行動制限を実施せず,また,マスク※7)の着用も推奨しませんでした。その根拠について政府の新型コロナ対策の責任者であった疫学者のアンデシュ・テグネル氏は,「感染制御におけるロックダウンやマスクの有効性が今まで実証されていないため」と説明していました。必ずしも集団免疫をめざしたわけではありません。感染拡大の初期には,多くの人々が社会生活上の制限の少ない日常を謳歌し,政策を支持する声も多数聞かれました。

この考え方は一見すると論理的に思われますが,結果としてスウェーデンの人口百万人当たりの死亡者数は,2020年8月時点で約600人と,近隣のフィンランド(約50人)やノルウェー(約40人)よりも10倍以上高くなってしまいました。

医療水準の高いスウェーデンでこのようなことが起きたのは,最終的に助かる可能性のある人々をまず優先するという成熟社会の合理主義的な死生観が根底にあったように感じます。カロリンスカ大学病院の宮川絢子氏らに,リモートのシンポジウムなどでも伺いましたが,スウェーデンでは80歳以上の人や基礎疾患を持つ70歳以上の人はICU(Intensive Care Unit:集中治療室)になかなか入れないのだそうです。

想定外であったのは,高齢者施設で介護に従事する人々に通いのパートタイマーが多く(約3割),ウイルスを外部から施設内に持ち込んで大きなクラスターが多発したことでした。ターミナルケア(終末期医療)を合理的に行う成熟した医療システムでは,高齢者は高度かつ全面的な治療が受けられなかった可能性があります。東洋的な生命観・死生観からすると痛ましく思えますが,このような倫理の問題についての議論はこれからの日本でも避けては通れないと思います。

※6)日本の感染症対策

日本では2020年の新型コロナ感染初期には,国立研究所による緊急のコロナ関係研究の立ち上げが縦割り行政によって滞りました(筆者は偶然,文部科学省所管の諸国立研究所の評価を担当したために現場の状況を直接把握できました)。一方,理化学研究所は例外的に同年4月からコロナ対応の特別プロジェクトを開始し,最高性能のスーパーコンピュータ「富岳」を使用したウイルスを含む飛沫のシミュレーションや新しいウイルス検出法の開発など多くの試みを行いました。

※7)マスクについて

マスクの原型は尊敬する対象に自らの吐く息を吹きかけないという心遣いから生まれ,仏教や神道では古くから用いられてきました(覆面)。また,日本では鉱山内で有害物質を吸い込まぬように,江戸後期に宮大柱医師によって現在の3Dマスクに近いもの(福面)が開発された歴史があります。一般に日本人は海外の人々と比較するとマスクへの抵抗感が少ないとされます。新型コロナ感染初期には,多くの感染症の専門家が,ウイルスサイズが0.1ミクロンと小さいために,マスクの効果を疑問視しました(WHOも然りでした)。しかし,日本ではいち早く「富岳」による効果の確認が行われ,マスクの抗ウイルス性能や飛沫・エアロゾルに含まれる新型コロナウイルスが,気道や肺に到達する確率,換気の効果も科学的にかなり明らかにされました。ウイルスは飛沫に含まれるのであり,正しく装着された不織布マスクは科学的にも極めて効果的です。

倫理の問題

「想定外」のことにより,周辺諸国とは桁違いの感染爆発が起きてしまったスウェーデンでは,政府が対策を少しずつ軌道修正し,行動制限なども取り入れました。2020年の暮れには,カール16世グスタフ国王も憲法を尊重しながら,人命に直接関わる政策に対するご自身の希望を述べられました。社会が高度に成熟したスウェーデンにあって王室の存在は重要であり,国王が王室は国民とともにあるという姿勢を示したことは尊敬されるべきことと感じます。私も国王陛下,シルヴィア王妃陛下と何度かお話しする機会を頂戴しましたが,科学と倫理を大切にするお考えに深い感銘を受けました。

新型コロナへの対応には,高度な倫理が求められます。近年よく耳にする「トリアージ」は,災害時などに一人でも多くの命を救うため,助かる可能性によって医療提供の優先度を峻別するという概念です。有事においてやむを得ず実施されることと思われがちですが,高齢化が進む社会で日常の医療体制を維持するためには終末医療(ターミナルケア)を縮小しなければならないという方向性が,すでにWHOの医療政策の根底にも存在するのです。これはWell-beingの本質に関わる問題であると思います。

物質的にも精神的にもWell-beingの頂点に立ちつつある北欧ですが,死生観を含めた倫理について再考する議論も見受けられます。未来の理想的な人口ピラミッドを考えるときに避けては通れない問題です。

科学的であることの重要性

パンデミックの当初,スウェーデン政府(正確には公衆衛生庁の専門家グループ)が示した「過去に有効性が科学的に実証されていないことは積極的には行わない」という姿勢は,ある意味では科学的と言えるかもしれません。しかし,そのような「実証主義」には問題点もあります。自然界で科学的に解明されていることは,一部にすぎないという謙虚な姿勢が大切だと思います。

スウェーデンでは,2019年に創立100周年を迎えた世界最古の工学アカデミーであるIVAと議会が共同で「ペアリングシステム」と呼ばれる制度を1950年代に制定し,科学に基づく政策議論が活発になされています。議員とアカデミー会員がペアとなり,携帯電話などでも互いに常時連絡が取り合えるシステムです。最近は立法の過程でも科学技術の専門的な知識を必要とします。そこで,議員から相談を受けたアカデミー会員は,専門的な立場から調査したり,より詳しい会員に相談したりして,議員のために複数の選択肢を用意します。議員はそれらの選択肢を政治的な見地から選択あるいは検討します。この仕組みは,議員と科学者が互いの分野を学び,離れた現場がつながるという点で大きな意義を持ちます。

しかし,このように情報公開が進み,先進的な科学基調の思考に基づいて施策を実行するスウェーデンにおいてさえも,科学に基づく政策に問題が起こり得るということを,私たちは肝に銘じなければならないと思います。歴史的なCDCを有する米国でも前述のような悲惨な状況に陥りました。それらの事実は,経験がなく,かつ複雑な課題に対応するためには,これまで以上に多角的な視点が求められること,そのためには新しい分野横断的(Trans-disciplinary)な枠組みが必要になってきたことを示しています。

米国では,数年前にThe National Academiesという組織が新たに立ち上げられました。科学・工学・医学の三つの全米アカデミーに中立の国家組織である全米研究評議会を加えて,議会や政府からの諮問への対応や,プロジェクトの実行などに携わります。中国でも,両院と呼ばれる科学院と工程院(科学アカデミーと工学アカデミー)が,科学技術政策の中心となる諮問機関として機能しています。科学・技術を多面的に,かつ深く理解し立法や政策に反映させることは,世界の潮流となっているのです。

現在,日本工学アカデミーは,若手の理工系国会議員(最近は,大臣,副大臣,副幹事長などの要職にも就かれ始めました)や,国会図書館(立法府に所属)とともに,スウェーデンの「ペアリングシステム」に倣う制度の検討を始めています(日本工学アカデミー政策共創推進委員会・政治家と科学者の対話の会:永野博委員長)。

「公開性」は信頼の土台

では,Trans-disciplinaryな枠組みがまだ機能しない中で経験のない事態に対処するには,何が必要でしょうか。

まずは正確なデータをきちんと集め,統計を取り,それらを社会に公開することです。「このようなデータが集まっており,このような動向が見て取れます。だからこのような対策を取ります」ということを,できるだけ定量的に社会に示せば,政府への信頼が生まれ,対策への理解も得やすくなるはずです。

哲学者イマヌエル・カントは晩年の著作『永遠平和のために』の中で,世界の恒久平和を実現するには世界共和国制とコスモポリタン(世界市民)の概念,それを保証する「公開性」が求められると説いています。政治では「道徳」を優先すべきであり,政治家はどのような意図でその政策を行うのかという格律(行動の主観的な規則)を公開することにより,それが広く一般に受け入れられるものであるのかどうかを確認しなくてはならないというのがカントの考え方です※8)

カントは,「道徳」とは個人の良心に基づくものではなく,あらゆる人に受け入れられる普遍的なルールでなければならないとし,その道徳に従うことが権力の暴走を防ぐと説いています。為政者が行動や政策の意図とその根拠を公開して,世に受け入れられるかどうかを問う。そうしたことを常に繰り返せば戦争を避けられると考えました。公開性が平和の原点であることは,本質的な指摘だと思います。歴史的にも,戦争や紛争が始まると,程度の差こそあれプロパガンダ合戦となってしまいます。大事なのは平時から,正しい情報が公開されているかどうかなのです。戦争が始まってからでは取り返しがつきません。

国境なき記者団(Reporters without Borders)が毎年調査・発表している世界の報道自由度ランキングで,日本はこのところ順位を落とし続けており,2021年は67位,2022年は71位まで低下しました。報道の自由度はさまざまな項目で評価,点数化されていますが,ランキングが低いということは公開性も低いと言え,危惧すべき課題であると思います。ちなみに2022年の上位国は1位から順にノルウェー,デンマーク,スウェーデン,エストニア,フィンランド,アイルランドとなっており,北欧諸国が多くを占めています。スウェーデンの新型コロナ対策も,政策の公開性・透明性が高かったので,最終的には正しい議論ができたのです。それはより良き未来への原動力です。

スウェーデン政府は2022年1月,原子力発電所から出る高レベル放射性廃棄物の最終処分場の建設計画を承認しました。地下500 mの施設に10万年間保管する計画です。スウェーデンの世論調査では,国民の約8割が原子力発電を支持していると報道されています。その背景には,政府と自治体,企業による地元住民への定期的な説明会や見学用の施設などによって国民の理解を深めてきたこと,安全審査機関が高い独立性を有することや,些細なトラブルも政府に報告・公表される仕組みが整っていることなどが挙げられます。スウェーデンに先行して最終処分場の建設を開始したフィンランドも同様ですが,利点だけでなく問題点も開示し,その解決に向けた努力を国民がしっかり見ているのです。

私自身,東日本大震災(2011年3月11日)の直前直後まで,原子力委員会の研究評価部会の委員でした。具体的数値と論文を以て,原子力発電所の安全性研究にさらに注力するべきという発言を繰り返していましたが,ご理解をいただくにはまだ時間が掛かるという印象を受けました。

プロパガンダに惑わされないために重要なのは「第一次情報」にできるだけ多く触れることです。緒方貞子先生(日本人初の国連難民高等弁務官,1927-2019)は日本に入ってくる第一次情報の欠落を大変に心配していました。私自身,日本の外で起こっていることに関する情報を直接得ることに腐心しています。さまざまな国際会議や海外でのアドバイザーの機会を全面的に活用して,正確な情報を得るように心がけています※9)

※8)倫理と道徳

倫理(Ethics)と道徳(Moral)は,前者がギリシャ語,後者がラテン語の語源から生まれた近い関係にありますが,哲学者によって定義が異なることがあります。ここではカントの「道徳」概念を用いますが,さらにこのシリーズの中で詳述します。

※9)「第一次情報」の重要性

例えば,CAETSは各国の科学技術を中心とした第一次情報が得られる貴重な場であると考えています。このアカデミー連合には,31の国々を代表する理工学アカデミーが厳密な審査を受けて加盟しています。そのBoard of Directorを15年間に2期務められたことは幸運でした。目下のウクライナの問題では,ロシアの侵攻に反対する国連総会決議に賛成しなかった5か国もこのアカデミー連合には含まれ,それらの国々と直接議論できることは,客観性・中立性を担保するためにも重要だと考えています。9月にパリ-ヴェルサイユで行われた2022年CAETS総会にも日本工学アカデミー小林喜光会長の名代として出席し,各国のアカデミーとも議論しました。

次回以降に向けて

私が那珂工場に勤務していた若き日のことです。返仁会(旧名は変人会。博士号取得者の集まり)に誘われた折,「自分は変人ではないので入らない」と,うかつにも口を滑らせてしまいました。それが運悪く幹部へと伝わり,「そんなことを言う奴こそ変人だ。変人会でとことん働かせる」と大目玉を食らい,シンポジウムの企画・実行などを任されて大変な思いをしました。後日,その幹部の一人,浅野弘氏(元日立製作所副社長,1925-2003)から,見せたいものがあると呼ばれ,執務室のシンプルな書棚を丁寧に見せてもらったことがあります。

その書棚は,最上段は現場のことや自分自身が直接聞いた第一次情報,中段は信頼できる人や原著からの第二次情報,下段は信頼できそうな第三次情報として分類され,各段は左から右にいくにつれ,最新情報から以降のものに並ぶように整理されていました。私は「秘密のノウハウ」に触れたように感じ,できれば自分の頭も「現場」を出発点とし,このノウハウをお手本に整理したいと考えました。以来,「現場」と「第一次情報」を大切にすることを常に心がけています。

今回の連載シリーズでも,例えば,フランシスコ教皇や習近平主席,あるいはマハティール首相の発言について記述することがあると思いますが,それは自分が直接,実際に伺った第一次情報です※10)。第二次情報は原著を当たるか,実体験した方々に直接確認した内容です。第三次情報もできるだけ情報源が明確に分かるように記していきたいと思います。

インターネット上の言説だけでなく報道でも事実と異なる内容が少なくない昨今,そうした姿勢が重要であると考えます。

新型コロナへの対応でも触れましたが,「指導層と現場との乖離」がウクライナを含む現代の諸問題の根底にあると考えています。その背景には,情報化世界の落とし穴と忖度があると考え,次回へとつなげたいと思います。

※10)偶然の出会いから,また次の出会いへ

Photo by H.KoizumiIVAの創立100周年記念晩餐会は,ストックホルム市庁舎にて2019年秋に開催されました。招待者が全員起立する中を,旗手を先頭にしてカール16世グスタフ国王・シルヴィア王妃両陛下が前方の階段を降りて来られました。

2005年,スウェーデンでの招聘講演の後,シルヴィア王妃陛下からのご質問にお答えする著者

海外の多方面の方々とお会いしたのは偶然であり,こちらからお願いしたケースはほとんどありません。例えば,スウェーデンとのつながりも,多くの偶然が重なっています。国王陛下とはアカデミーの関係が多いのですが(国王は前述のIVAの庇護者),シルヴィア王妃とは陛下が国際育児賞を受賞された際に,記念講演「脳と保育」の依頼を受けて,御前で一時間ほどお話ししました。その際に脳の発達に関する種々のご質問を賜ったのがきっかけです。また,2019年のIVA100周年記念の際には,「AIと倫理」のシンポジウムで,議論が平行線に立ち至った際に,最後に手塚治虫先生がめざしておられた「涙を流すようなロボット(鉄腕アトム)」を東洋の理想(温かい心こそ倫理)として一言ご紹介したことが,記念晩餐会でダニエル王子殿下から話しかけていただくきっかけとなりました(配偶者はヴィクトリア皇太子:次期スウェーデン女王)。「先ほどのAIシンポジウムでは最後にまとめてくださいましたね」とおっしゃり,さらに,シルヴィア王妃が保育や子どもたちの人権を守る活動をしているように,いずれは自分も健やかな心身を保つような仕事で貢献したいと言われました。後から知ったのですが,ダニエル王子殿下はかつてスポーツジムの経営者をされていたそうで,とても誠実な人柄とお見受けしました。このような偶然の出会いが,次の出会いへとつながっていくのです。

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