ページの本文へ

Hitachi
お問い合わせお問い合わせ

ハイライト

第2回前編では,「倫理資本主義」(Ethical Capitalism)はアダム・スミスが唱えた本来の資本主義への原点回帰であること,さらには,プラネタリーバウンダリーという状況下において「人類社会の集合の中での倫理・道徳」に留まることなく,その集合を包摂する「自然界全体に立脚する新たな倫理・道徳」を打ち立てる必要性があることを述べました。すなわち私たちは今,原点回帰としての人の道と,それを包摂する地球上で生存するための自然界の理法,その二つを同時に見据えながら倫理を模索することを要請されていると思います。それは,より普遍的な倫理・道徳へのアプローチだと思われます。
一方,本年2024年は,日立鉱山に見られた典型的な「倫理資本主義」の神髄を,着実に踏襲した日立製作所の創業者,小平浪平翁(1874-1951)の生誕150周年にあたります。そこで今回は,小平浪平翁に焦点を絞って,「倫理資本主義」の実現を考えてみたいと思います。

目次

執筆者紹介

小泉 英明

小泉 英明

  • 日立製作所名誉フェロー,日本工学アカデミー顧問(前上級副会長)。
  • 1971年東京大学教養学部基礎科学科卒業,同年日立製作所計測器事業部入社。1976年理学部に論文を提出し,東京大学理学博士。環境・医療などの分野で多くの新原理を創出し,社会実装した。2000年基礎研究所所長,2003年技師長,2004年 フェローを経て,2017年より名誉フェロー。東京大学先端科学技術研究センター フェロー・ボードメンバー,国際工学アカデミー連合(CAETS)理事,中国工程院外国籍院士,東京大学3部門で客員教授,米国・欧州・豪州などの各種研究機関や財団のボードを兼任・歴任。近著に『アインシュタインの逆オメガ:脳の進化から教育を考える(Evolutionary Pedagogy)』(パピルス賞受賞作品,文藝春秋社刊)。

小平浪平翁はどのような経緯で電気工学を専攻したのか

若き日の小平浪平翁が記した『晃南日記―小平浪平遺稿』や,平塚図書館に残る資料を精査すると,明治時代のベストセラー『食道楽』(くいどうらく)で著名な作家・新聞編集長の村井弦斎(1864-1927)は,約1年間の訪米直後の1886年〜1887年に栃木に滞留。その間,半年間ほど小平家に寄宿し,儀平・浪平兄弟の家庭教師を務めました(後述する弦斎の父,漢学者村井清は,澁澤栄一(1840-1931)の子どもの篤二・歌子・琴子らの家庭教師。小平浪平翁はその後,村井弦斎を生涯の師として尊び,米国帰りの師を通じて海外の「第一次情報」を学び,また,未来の世界を担う電気工学を専攻する決意が固まっていく過程を知ることができます。

例えば,1896年4月5日の日記によると,小平浪平翁は麻布に住んでいた村井弦斎を朝8時という早い時刻に訪れています。そして,村井弦斎から「今日は玉川へ遠足に行こう。」と言われます。恵比寿ビールの工場横を通り,目黒不動尊を越えて,二子玉川まで歩き,多摩川の清流を望みながら亀屋(当時の文化人サロン)でアユ料理を食べて,さらに丸子橋まで川沿いを歩いた。寮に戻ったのは消灯後の夜11時だったということです。

たまたま,筆者が生まれ育ったのが世田谷の駒沢ですので,この遠足コースには馴染みがあり,亀屋を含めてすべて明瞭に頭に描けます。そして,二人は一日中話し続けていたことが容易に想像できるのです。村井弦斎との関係から,小平浪平翁が研究開発を最初から真剣に考え,同時に日立鉱山創業者の久原房之助翁の理想に心酔したことが拝察されるのです。1912年,小平翁は弦斎を日立鉱山・日立製作所に招き,3日間にわたり現場を詳しく紹介して指導に報いています。

コラム1
小平浪平翁の『晃南日記―小平浪平遺稿』

小平浪平翁は,高等小学校の高学年から晩年に至るまで,日記を書く習慣を続け,その総数は70数冊に上ります。一部は戦災で焼失するも,第一高等学校に在籍していた20才の1月から,東京帝国大学工科大学電気工学科(現・東京大学工学部)在学中の26才の5月までを記した約6年半に亘る日記を収めたものが,『晃南日記―小平浪平遺稿』として1954年に公開されています。

若き日の小平浪平翁は,勉学以上に芸術やスポーツにも興味を持ち,多感であると同時に,これから何をすべきかについて真剣に悩み,考え続けていたことが垣間見られます。また,日立鉱山創業者の久原房之助翁(1869-1965)に深く傾倒した理由が見えてくるようにも思えます。

小平翁は『日立製作所史』の冒頭(序)に,「・・・感謝の念を禁じ得ないのは久原房之助氏及び鮎川義介氏の恩顧である。久原氏には個人的にも小坂鉱山以来知遇を受けた。日立製作所の発足は久原氏の力によるものであり, 日立の今日あるのは両氏の指導べんたつに負うところすこぶる多い。」と記しています。

一方,小平翁は,日立鉱山創業者の久原翁よりも先に逝去されましたが,逝去の翌年の1952年に発行された『小平さんの思ひ出』(小平浪平翁記念会)に,久原翁は次のように書いています。「・・・大体僕と小平君との交情は前後を通じて五十年に亘る。初めて小坂で知りあい後に日立に来てくれた。時に気に入らぬ事を言い合う事があっても,交情は終始微塵もゆるいだ事はなかった。恐らく奥さんが一番能く知っておられると思うが,移り変わりの多い世の中に珍しいといってもよい程のものであったと思う」。

この関係の背景として,両氏が同じ理想を共有していたことが,『晃南日記―小平浪平遺稿』からも見えてくるように感じます。

コラム2
『二十世紀の豫言』と村井弦斎

村井弦斎は,三河吉田藩の漢学者(儒者)の家に生まれましたが,父の村井清は西洋文化を早期に学ばせたいと弦斎に英才教育を施しました。1873年に東京外国語学校(現・東京外国語大学)が開校すると12歳で特別入学。20歳で英字新聞の懸賞論文に選ばれ1年間渡米。米国の科学技術を,直接,見聞しました。帰国後,1895年に郵便報知新聞(4大紙の一つであった報知新聞の前身)編集長となりましたが,報知新聞は1901年1月2日及び3日号で,100年後の2001年がどのような世界になっているかという『二十世紀の豫言』(科学技術の未来予測)を特集しました。弦斎は今でいうSF作家・ジャーナリストであり,科学技術によるユートピアを夢見ていた節があります。小平浪平翁との深い個人的な関係から(コラム1参照),弦斎が若き日の小平翁に与えた影響は多大であったことが,『晃南日記―小平浪平遺稿』からも読みとれます。

この『二十世紀の豫言』は村井弦斎が書いたという指摘が,郷里の豊橋図書館や平塚図書館などを含めてなされています。100年後の2001年には23項目の預言のうち12項目が実現,5項目が一部実現,実現しなかったものは6項目という評価を,2005年の文部科学省科学技術白書はしています。しかし,預言の文言を精査しますと,さらに一部が実現している可能性があります。確かにまったく実現していないのは「人と獣の会話自在」という項目だと一般には言われています(AIでの研究は進んでいますが・・)。「買い物便法」は一部実現と評価されていますが,現在のネットでの迅速購入は一部実現どころではありません。このように『二十世紀の豫言』は予測精度の高いものだったのです。これは海外にもほぼ例をみないものとされています。実現された多くは,電気・電子の研究開発が基礎となっています。

上記の二つのコラムで当時の事実関係を記したように,村井弦斎と親密な関係にあった小平浪平翁はかなりの遍歴を経て,1906年に日立鉱山に入社しました。その時,1901年に発表された『二十世紀の豫言』を手にしていたはずです。この予測は,かなり精度が高かったことが100年後に判明しました。黎明期の技術開発に専念した人々の中にいて,100年後に起こる預言書を手にして経営判断した指導者が日立製作所の創業社長であったと考えるのは,あまりにも穿った考え方でしょうか。この点については、さらに調査が必要と思います※)

※)
村井弦斎は1904年,湘南の平塚に16,400坪の土地を得て転居,本格的な作家活動に入った。菜園・果樹園を有する村井邸は,やがて食や文化のサロンとなり,小平浪平翁,大熊重信(弦斎夫人多嘉子の従兄),鈴木三郎助,岩崎弥之助らが集った(平塚市図書館資料)。弦斎逝去後の1932年に,小平浪平翁は親しかった弦斎未亡人多嘉子から頼まれて広大な敷地の多くを譲り受け,盟友高尾直三郎(副社長)とともに往時の姿を残しつつ,それぞれの別荘を建てた。日立の大きな将来構想は湘南の地で論じられ,醸成された旨,今も残る石碑に刻まれている。時は日立製作所創業20数年目,自主開発製品の品質の高さが認められ,輸出が始まった頃である。

倫理資本主義に必須なもの

ここではさらに踏み込んで,倫理資本主義を実現するために何が必要かを考えていきたいと思います。倫理・道徳を実現するためには,現実的な強さが必須です。高邁なことをいうだけでは世界に通用しません。

倫理にもとる行動は,結局,極度の自分中心の考え方,あるいは心の弱さから生じることが多いと感じられます。マズローの社会性の階層図を,自然科学の視座から見た図(第1回後編図3)を作って,三角形で示した階層の頂点に倫理,そして利他性を加えました。

清貧と言うように,いくら貧しくても強く生きている素晴らしい方々もいらっしゃいますが,人間はなかなかそのように強くはなれないこともあるのが現実だと感じます。

企業も同じで,強さと覚悟があれば,倫理資本主義を実践することが可能だと思います。企業を持続可能にする強い財務を実現するために,強靭な土台・人財・教育が必要です。特に製造業では,強靭な体質を築くために,先見性のある研究開発が必須です。

小平浪平翁は製造原価を正確に把握する努力から始めました。研究開発においても,長期的にも強い研究開発を可能とするためには,短・中・長期の研究コストの分析が大切です。研究開発は10年,20年,30年と考えねばなりませんから,より俯瞰的な視座が必要となりますが,投資分析などでは,研究開発の原価計算は,実態とかなり乖離があると感じています。前述の『二十世紀の豫言』のようにはなかなかならないのです。一時,一般的な中央研究所不要論が現れた際には,研究開発投資の多くが5年程度で評価されたケースがあり,現実的ではありませんでした。

コラム3
AIなどの汎用技術がGDPに寄与するフェーズ

第2回前編で述べたIVA (王立スウェーデン工学アカデミー)の100周年記念の際に,ブリニョルフソンMIT教授が,イノベーションとGDP (Gross Domestic Product)に寄与する生産性について優れた講演を行いました。社会に大きな貢献をするAI(Artificial Intelligence)を含めた汎用技術[General-purpose Technologies: GPTs(用語が紛らわしいので注意)]は,研究開発の初期には経済効果が見えない。産業が具体化した後に,社会から当該技術の重要性が認識されるという内容です。

その中で,将来が見込まれるAIの研究コスト分析(2018年まで)の実態が示されました。その中では,AI全体のGDPに占める割合は,ほぼゼロでした※)

※)
Erik Brynjolfsson, “Artificial Intelligence and the Modern Productivity Paradox : A clash of Expectations and Statistics, IVA 100th Anniversary (2019). (Firstly reported in 2015).

AIが産業にGDPとしてほぼまったく寄与していなかったのは,Chat GPTなどの生成AIが爆発的に普及した2023年から,たった4年前(最初の論文は8年前)の指摘でした。世界の中央研究所や基礎研究所が批判に晒されましたが,その際の費用対効果分析も,意味のないほど短期間の成果で分析したもので反省すべき点は多いと思われます。

実際に,今年2024年に入ってからも,生成AIに関する世界の事業展開には目を見張るものがあります。極めて大きな投資も動きだしていますし,倫理への動きも,例えば欧州委員会の規模で進みつつあります。

この第2回中編の主題は,シュンペーター(Joseph Alois Schumpeter,1883-1950)が考えた「イノベーションを原動力とした資本主義」と,本来の「倫理資本主義」は,どのようにしたら結合できるかです。この主題を小平浪平翁の生誕150周年の機会に考えてみることでもあります。

近代産業の黎明期に見られた研究開発の萌芽

近代産業の黎明期に起きた事柄は付録にて後述しますが,本年2024年に生誕150年を迎える小平浪平翁は,『晃南日記―小平浪平遺稿』の中で,「余の脳は詩人的なり。多感詩人の脳漿なり」,そして「世界の舞台に於いて余の力を振はむことを欲する」と,自らの長所と夢を記しています。

この若き日の小平浪平翁の自己観察からすぐに思い出されるのは,ラジウムを発見したことでよく知られるキュリー夫妻の夫,物理学者のピエール・キュリー(Pierre Curie,1859-1906)です。妻のマリー・キュリー(Marrie Curie, 1867-1934)は夫のピエールを「詩人のような物理学者」と評しています[原著:”Pierre Curie: With Autobiographical Notes by Marie Curie“, 渡辺慧訳:『ピエール・キュリー伝』(1959)]。

これは後述する誘導電動機の発明者であるニコラ・テスラとも通じるものがあります。

コラム4
詩人のような科学者と評されたピエール・キュリー

ピエール・キュリーは,「キュリーの原理」(対称性の保存則)という現在の素粒子論の基盤になるような発見とともに,多くの実用的な発明を残しています。「圧電現象」の発見や水晶振動子や超音波装置の発明,磁性に関する「キュリーの法則」や「キュリー温度」,さらには発見したラジウムの放射線応用の癌の治療法などの多くの独創的な仕事を残した天才です。事故で早逝しなければ,量子論や一般相対論にも貢献したのではないかという物理学者もいます。後述しますが,日立製作所の原点ともされる誘導電動機の原理を発想したニコラ・テスラ(Nikola Tesla,1856-1943)も,正に詩人の脳をもった天才でした。エジソンのような発明家も大切ですが,後世にいつまでもそのまま生き続ける発明発見は,「詩人の心と脳」を持った科学者・技術者によるものが多数存在するという興味深い事実があります。

小平浪平翁は心が共鳴する久原房之助翁との偶然の邂逅によって,その夢を確実な現実の世界へともたらしたと考えられます。それは,正に,「Think globally, act locally」として,大きな思想の下に,まず,小さな創業小屋を造り,そこに小平翁が看破した将来が期待される人財を集めたと思われます。実際に,盟友高尾直三郎氏や現場に強い馬場粂夫氏,さらには大学の夏休みに実習で訪れた東京帝国大学の後輩,安川第五郎氏を強く誘って,最初から検査係長として採用したのも,その好例だと思われます(1912年)。逆に安川第五郎氏側からその行動を見てみると,当時の志ある若者の姿が見えてきます。安川氏は小平翁に惜しまれつつも,日立を去って米国に渡り,Westinghouse Electric and Manufacturing Company社(現Westinghouse社)でさらに学んで,合資会社安川電機製作所(現株式会社安川電機)を創立しました。

よく知られているように,日立の最初の一歩は,小平翁らによって苦心して製作された3台の5馬力誘導電動機です。当時の国際状況を見渡しますと,よく言われる苦心惨憺して自力で達成した誘導電動機純国産化は目標へ向けた第一歩であって,将来の大きな夢を実現させるための出発点であったと考えられます。小平翁は真似を嫌ったことでも知られています。あくまでも,自主独立の気概を大切にしたのです。

後述しますが,実際,1926年には米国に誘導電動機応用の家庭電化製品として扇風機の輸出を開始し,技術の高さが海外にも知られました。

ニコラ・テスラという天才と誘導電動機の発明

誘導電動機を発明したのは,アドリア海に面した東欧のクロアチアの天才,テスラで,最初のアイデアが閃いたのは28歳の1882年のことでした。テスラは,送電を含む総合システムが交流か直流かで,エジソン(Thomas Alva Edison,1847-1931)と大論争を繰り広げました。テスラは発明家であるに留まらず,生涯を通じて宇宙規模で物事を考えている夢見る詩人のような科学者・技術者でした。エジソンは直流に固執しましたが,テスラは交流の本質的な魅力を強く感じていました。電磁誘導現象を活用すると,発電機と電動機,そして両者をつなぐ送電も変圧器を介して,美しい対称性を持つのです。この思考法は,キュリーの原理(対称性保存則)が閃いた上記のピエール・キュリーと通じるものがあると筆者は感じています。結局,1893年のシカゴ万博では交流が採用されました。三相交流は,電線一本あたりの電力供給効率が高く,しかも発電機と誘導電動機は,空間を通しての電磁誘導現象によって,整流子のような機械接触部分が一切不要になるからです。テスラは振動・波が物理現象の本質と考え,光がすべての根源であると考えました。量子物理学にも一般相対論にも独自の見識を持っていたと考えられます。

図1|クロアチアの首都ザグレブの繁華街にあるニコラ・テスラの像と,鉄道駅に近いニコラ・テスラ記念工業博物館図1|クロアチアの首都ザグレブの繁華街にあるニコラ・テスラの像と,鉄道駅に近いニコラ・テスラ記念工業博物館一般にエジソンは多くの発明で広く知られるが,その特許による強い縛りを逃れて,米国西部の地に映画都市ハリウッドが生まれたり,テスラによる交流発電・送電システムが生まれたりした。クロアチアはテスラを誇りとしてこのテスラを記念する博物館を建て,クロアチアの若者は例えば電気自動車のRimacが社※)を起業した。写真は筆者撮影。

※)
Rimac Automobile:企業して10年程で急成長し,最高時速420kmを超え,1.81秒で時速100kmを超えるような電気自動車を一般乗用車として市販している。

コラム5
ゲーテの詩から天啓を受けた誘導電動機の発明

自著『My Inventions』の中で,テスラは次のように述懐しています。テスラがブダペスト(ハンガリー)に滞在した1882年に,夕方の公園を散歩中,素晴らしい夕陽が沈むのを見て,『ファウスト』の一節,Sunset Speech(ゲーテの詩の中でも最も美しい一節)を口に出していました。その詩の一部は次の内容です。

夕日の光を受けてかがやいているのを御覧。
日は段々いざって逃げる。きょう一日ももう過去に葬られ掛かる。
日はあそこを駆けて行って,また新しい生活を促すのだ。
己のこの体に羽が生えて,あの跡を
どこまでも追って行かれたら好かろう。
そうしたら永遠なる夕映(ゆうばえ)の中に,
静かな世界が脚下に横わり,
高い所は皆紅に燃え,谷は皆静まり返って,
白銀(しろかね)の小川が黄金(こがね)の江に流れ入るのが見えよう。
(森鷗外 訳)

筆者も,12,110行もある『ファウスト』の詩の中に,上記の一節をやっと探し当てた時には,テスラが常に宇宙の視座から日常を見ていたことを直感しました。

心を震わす金色の夕陽のあとにやがて静寂(しじま)が訪れる。その静寂の先には,さらに美しい夕暮れが広がっている。それは私の心に見える。自分は地球に乗って回転し,やがて朝焼けの東の空に昇り来る太陽を見る(筆者解釈)。

これは地球が誘導電動機の回転子そのものであることを暗示しています。地球は宇宙に浮きながら回転している。回転磁界を造る固定子の中に,電気的な接触なしに,地球のような回転子を浮かべれば良いのです。振動する磁場は回転子に電流を誘起して回転を促します。本当に美しいシステムです。

テスラは,この詩の一節を口ずさみながら,公園の地面に木の枝で誘導電動機の図面を書いたと述べています。1882年のことですが,翌年の1883年に,ストラスブルグの工場で自ら試作し,誘導電動機が実際に回転することを確認しました。また,後に正式に発表した際(1888年)に使用した図面は,地面に書いた図面とまったく同じものだったと自著で述べています[Nikola Tesla, “My Inventions”, Electrical Experimenter magazine (1919)]。

日立製作所の黎明

コラムで述べたように,誘導電動機のテスラによる発明は,基本アイデアを得たのが1882年ですが,その後の実験にて確認・改良して特許取得は1888年でした。小平浪平が純国産の5馬力誘導電動機の製作に成功したのは,テスラのアイデアから28年後の1910年のことです。

小平翁は,将来の電化社会を見据えて一度は東京電燈社(現在の東京電力)に入社したのですが,わが国の現実を目の当たりにすることになりました。最先端の仕事の実態は,海外メーカーであるGE社(米国), Westinghouse社(米国), Siemens社(ドイツ),Escher Wyss社(スイス)などの水車・発電機を輸入して使用することで,さらにそれらの装置の据え付けを指揮するのは,海外から派遣された外国人技師の人達でした。

小平翁は,東京帝国大学工科大学電気工学科時代に「我国工場の幼稚なるに驚き・・・」と『晃南日記―小平浪平遺稿』に記しています。表面的な華々しさではなく,日本の実態を冷静に見据えていたからこそ,久原翁の日立鉱山に移って,着々と準備したと考えられるのです。

図2|日立マークに重ねた誘導電動機の原理図2|日立マークに重ねた誘導電動機の原理日立マークは小平浪平創業社長の独自のデザインによるもので,日立製作所創立以前から氏によって考えられていた。「◉」で表記された古代文字(象形文字)の「日」と,人が両手足を広げた姿を前から見た「立」の組み合わせである。一般に太陽とその光を背景にした日立の存在をイメージしたとされるが,筆者には誘導電動機と発電機の原理が同時に籠められたものではないかと思われる。

現在,誘導電動機の消費電力は世界の消費電力量全体の 40〜50% を占めるとされ,国内においても,消費電力量全体の約 55%,産業用エネルギーでは約 75% を占めるとの推定もあります※)

※)
https://www.jema-net.or.jp/jema/data/S5238(20211220).pdf

2005年の日本の総使用電力量9,996億kWhは,モータ57.3%(動力32.9%,空調・冷蔵関連24.4%),照明13.6%,電熱9.5%,IT機器4.7%,その他14.7%という電力消費内訳となっています※)

※)
https://www.sicalliance.jp/data/doc/1504061424_doc_5_1.pdf

この数値からも,正に世界は交流システムで動かされていると言っても過言ではありません。電池で駆動する電気自動車のモータでも,現在は交流が主流であって,電気産業全体を象徴した日立マークには,深い意味があることを再認識したいと思います。

並行する世界に冠たる挑戦

一方,久原翁が指揮して完成させ,しかも後世の環境対策の手本になった150 mを超す高さの煙突は,当時,世界一の高さで,しかも大変な工夫を凝らした初の鉄筋コンクリート製の煙突でした。純国産で1914年の着工からわずか1年の短工期で完成したのは,決断と創意工夫,そして世界一の技術が日立の地に存在した証であり,驚くべきことだと思います。しかも,その駆動力は「倫理」にあったのです。

図3|日立鉱山に残る開発煙突群と大煙突図3|日立鉱山に残る開発煙突群と大煙突高さ155.7 mの大煙突は写真右のように,当時の常識を覆して,山の稜線上に建設された。煙突先端の標高は500 mに迫る。それによって高層の上昇気流に重い亜硫酸ガスを載せて,高層大気中での希釈が実現された。

この大煙突と同時に,当時から硫酸としてのガスの固定化も図られていましたが,それが実用化したのはずっと後のことでした。この驚異の煙突は1993年までの約80年間,台風にも地震にも耐え続けて大切な役割を全うしたのです。今でこそ,1/3の高さとなりましたが,薄い白色の煙をはきながら稼働を続けています。

当時は鉄鋼の溶接という技術すらなかった時代で,例えば,タイタニック号が氷山と接触して想定外の沈没をしたのは1912年の出来事です。ちょうど日立の大煙突工事が開始される直前でした。当時は鋼板の溶接技術はまだなく,タイタニック号の船体の鋼板は錬鉄のリベットで接合されていたのです。氷山との接触でリベットが跳ね飛んで鋼板が広くはがれたことが原因でした(沈没船の調査によって判明)。図4にタイタニック号の鋼板がリベットで接合されている写真を示します。

図4|タイタニック号の後尾部分図4|タイタニック号の後尾部分船腹に張られている鋼板はリベットでつながれている。1912年当時,鋼板の溶接技術はまだなかった。このリベット群が,氷山との接触によって外れて大量に浸水した。この写真で,船首と共に補強された船尾の二列のリベット群が見える。

当時の日本の4大銅山を調べると,公害対策はそれぞれまったく異なっています。別子銅山は,倫理を求めてやはり大変な苦労をしています。精錬所を移動させても改善が望めずに,1936年には,亜硫酸ガスを硫酸として固定するという正攻法で公害を改善するべく努力した例もあります。しかし,実際に成功したのは日立鉱山だけでした。鉱山だけでなく,殖産企業の中には水俣病や第二水俣病まで起こしたものもあります。現代の倫理からは,そのような企業には,製造装置を納入すること自体を控えるべきであったという意見もあるのです。

倫理を根底に置いた研究開発
―目標は国産から輸出へー

1923年には関東大震災が発生しました。亀戸の電機工場が半壊しましたが,北茨城には被害がありませんでした。日立工場に全国から好条件で注文が集中する中,小平翁は営業担当者を集め,次のように方針を話しました。「いま,この大災害のために,日本の頭部ともいうべき京浜地方は実に惨憺たる状況にある。この際,われわれは京浜地方の復興を第一の任務とすべきである。みだりに他の地方からの注文を受けて工場をふさいではならない。全工場の全能力を発揮して,一日も速やかに復興が図られなければならぬ」と。すぐに被災地東京の鉄道省神田変電所へ試作中の回転変流器を納入し,これにより東京から御茶ノ水駅間の電力供給を再開させました。また,東京市電用の回転変流器・電動機の納入と修繕を行い,都市電気設備インフラの整備に協力。変電設備や変圧器などをできる限り増産して,それらを京浜地方に向けて急送するなど,復興事業に集中しました。利益を優先するよりも,「社会のために」という倫理資本主義の精神が,実際に示されたわけですが,結果的には日立の事業を拡大することにつながりました。

1926年には,輸出第1号製品として扇風機30台をアメリカへ輸出し,日本の工業のグローバル化の先駆者となりました。

小平翁は企業を公器と考えていて(企業は社会のために在る),久原翁の倫理資本主義の思想を確実に受け取ったと考えられます。社会に貢献するためにも,財務基盤をしっかりさせて企業を存続させることが必要です。「営業の基礎は原価計算にあり」として,早くから原価計算を確実なものとする努力を積み重ねたことは,日鉱記念館に遺された帳簿資料を見ても明らかです。一時的に社会に役立ってもそれが持続しなければ意味がありません。それは企業の最も重要な点であることは言わずもがなです。さらに,1918年,早くも研究係を造ったのは「現在のことも行うが,10年,20年後を目標とした研究を行う。」という小平翁の考えが基盤にあったからだと思います。

前述した1901年に発表された『二十世紀の豫言』は,100年後に日立製作所の研究成果が結実したものも少なくありません。2024年の最近でも,科学技術政策の中に多くの影響を与えています。

小平浪平翁の頭の中では,早くも文理融合が始まっていたと捉えられます。

「日立製作所の独立志向の精神は,技術面でも際立っている。東京電気・芝浦製作所がジェネラル・エレクトリック(GE)と,三菱電機がウェスティングハウス と,富士電機がジーメンスと技術提携し出資を受けたのに対して,日立製作所は,創業当初から『自主技術による電気機器国産化』を標榜した。1919年9月,小平が久原に対し,日立製作所の久原鉱業からの独立案を提出した際,久原は,分離独立を急ぐのであれば,海外電機メーカーとの提携(ジーメンス社が候補とされた)を指示した。また,友人であった渋沢元治(名古屋帝国大学初代総長)からも,小平の方針は,「無謀」と言われた。しかし,小平は,こうした助言に応ずることなく,自主技術開発方針を貫いた。」※)

「そのような経営方針のもと,日立製作所では,独立から3年目となる1914年に試験係を設置し,自主技術開発と製品の進歩改良を進めるとともに,設計業務と製作業務の連携の強化を図った。」

※)
石井普:日本における電機産業の発展史−(2)研究開発体制の形成と技術導入の影響,『学習院大学 経済論集』,57巻,第4号(2021)

久原翁の国際的な視座からの指示にもかかわらず,小平翁が自主技術開発方針を貫き成功したのは,出藍の誉に値することかも知れません。ここで,日立製作所は小平創業社長の双肩に託されたと言っても過言ではないように思えるのです。浅学菲才の筆者から見れば,「倫理資本主義」の理念を貫いて,前代未聞の世界一の高さの煙突を山頂近くに建てる久原翁の発想こそ奇想天外に思えるのですが……。

この小平浪平翁の実直でありながらとてつもない器の大きさに,周囲の人々はついていくのが本当に大変だったのではないでしょうか。

内輪の視座からでなく,日本の電機産業の状況は客観的にも下記のように記録されています。再度,石井普氏の資料を引用します。

「日立製作所の場合には,導入技術よりも独自技術の開発への志向性がより強く,研究部門の自立性が早くから重視されていた点が特徴的である。そうした志向性の延長線上に計画されたのが,他の二社(東芝・三菱電機:筆者注)に比してユニークな,中央研究所設立の試みであった。日立製作所の中央研究所は,1942年4月に設立された。太平洋戦争中の発足となったが,建設計画が本格的に開始したのは,1939年7月である。設立にあたっては,小平浪平のイニシアティブが大きく,『現在のことも行うが,10年,20年後を目標とした研究を行う』ことを目的に,基礎的研究の拡充が強調された。」小平翁の頭にあった中央研究所の目的は基礎研究だったのです。

図5|『日立評論』第一号(1918年発行)から1,000号(2005年発行)へ図5|『日立評論』第一号(1918年発行)から1,000号(2005年発行)へ技術誌『日立評論』が創刊された1918年は,久原鉱業所日立製作所の試験係が試験課に昇格し,新たに研究係が設置された年である。『日立評論』1,000号記念号は2005年に出版され,同時に『日立評論』創刊千号記念シンポジウムが東京ビッグサイトで開催された。(写真右側は,上から庄山悦彦日立製作所第7代社長(1936-2020), Charles "Chuck" M. Vest(1941-2013) MIT総長,筆者)

日立グループに資する研究所群

「1918年,試験係が試験課に昇格し,試験係・研究係の2係に再編される。この研究係が日立製作所における日立研究所の起源とされる。試験課においては,その設置当初から,工場からの独立,中立公正な立場での検討が重視され,そのうちの研究係においては自主技術開発理念が常に強調された。その後,1934年に研究係は研究所へと昇格し,研究体制が大きく拡充されるに至った。さらに,1939年には,職制上,研究所が日立工場から分離され,日立・多賀・水戸3工場の共通の研究機関として独立し,本社直属となった。なお,研究係・研究所では,初期においては,主として新製品の開発が中心であり,特に電気材料,絶縁物の改良・国産化の推進に向けた研究が行われた。その後,1932-1933年頃になると,電気に関する現象の理論的究明,基礎研究が重視され,理学部出身者も採用されるようになった。」※)

「基礎研究を重視したことから,研究所の運営にあたっては,その経費支出の方法としては,次のような形がとられた。すなわち,研究題目別に関係工場に振替える方式をとるのではなく,一定基準の配賦率によって本店の経費から一括支出されることとなったのである。もっとも,初代所長の馬場粂夫は,『工場との連絡を密にする』ことを強調していたとされるから,中央研究所と事業部門との関連のあり方については試行錯誤の過程が続いたものといえるだろう」

社内史もこの研究論文に記載されているように,第一次情報を確認しながら編纂することが肝要かと思われます。

※)
石井晋:日本における電機産業の発展史 (2)研究開発体制の形成と技術導入の影響『学習院大学 経済論集』第57巻,第4号(2021)

図6|日立製作所中央研究所(2000年頃)図6|日立製作所中央研究所(2000年頃)中央研究所は国分寺崖線上にあり,多摩川に注ぐ野川の源流となる湧水がいくつもある。湧水には当時,山葵(わさび)が自生し,武蔵野の原生林を一部に残している(筆者撮影)。

中央研究所では,主に電子・光子を中心として研究が進みました。トランジスタ,コンピュータ,レーザー,計測機器などがこの研究所から生まれました。日立中央研究所については多くの資料が公表されていますので,詳細は割愛します。

21世紀の日立基礎研究所へ

図7|日立基礎研究所(Hitachi Advanced Research Laboratory:HARL,2010年頃)図7|日立基礎研究所(Hitachi Advanced Research Laboratory:HARL,2010年頃)基礎研究所は比企丘陵の丘の上にあり,40万平米の広大な敷地に建つ。新時代の研究所として,1990年に設立された(1985年に国分寺の地に創立された後,鳩山に移転して本格稼働した)。天皇陛下が皇太子時代に行啓された際に,この池には白鳥が似合うと,皇居から2対の白鳥を賜った(筆者撮影)。
この研究所は基礎研究所と命名されたが,基礎研究と応用研究の相違は,研究開始後に結果を出す時間軸で規定されている。

図8|21世紀の基礎研究所へ向けた基本方針図8|21世紀の基礎研究所へ向けた基本方針21世紀を見据えた2000年当時の日立基礎研究所(Hitachi Advanced Research Laboratory)を俯瞰的に位置付ける際に筆者が作った図である。空間と時間を宇宙とプランク長・プランク時間の拡がりの中で考えた。当時の日立基礎研究所は,100万ヴォルトの超高圧電子顕微鏡による50ピコメートル(10‐12 m)の空間分解能と,超短パルスのレーザー干渉計による50アット秒(10-18 s)の時間分解能という世界最高の計測技術を保有していた。人間の思考を物理計測する世界最先端技術を日立中央研究所(Hitachi Central Laboratory)から一部移管したのもこの頃である。

2000年当時,筆者は日立基礎研究所の第4代所長(General Manager)として広汎な基礎分野を担当するとともに,プレイング・マネージャーとして「脳科学とその応用」を中心とした研究グループと一緒に活動していました。直接担当していたグループは,それまでのMRI(Magnetic Resonance Imaging:磁気共鳴描画)を基礎にした機能計測と機能的MRI (fMRI), 磁気共鳴結果描画(MRA), 機能的磁気共鳴描画(fMRI)の研究開発を1982年から開始・継続していたので,2000年頃からの基礎研究所では,それらの基礎を背景に進めました。

物質の計測から,生きた人間の心の働きの計測まで,それは自然科学と人文学・社会科学をつなげる作業になるのです。ただ,自然科学と人文・社会科学の枠を超えて議論をするということではありません。自然科学の手法で,思考している現生人類の脳の働きを物理計測し,それによって哲学や思想が生まれる脳の働きを実測して,自然科学と人文・社会科学をつなげるという過去の歴史になかった試みです。一言でいえば,それまで主観として扱われた内容を客観として,論理的に議論することが可能となるのです。さらに,科学的な学習・教育など,広範な応用が期待できます。

この試みは海外からは高く評価され,例えばMIT Review誌からは,2001年度の世界4大ブレークスルーの一つとして選定されました※)

※)
「先端脳機能イメージング:日立基礎研究所の脳科学から教育改善へのアプローチ」(MIT Review,R&D 2002: Advanced Brain Imaging Hitachi Advanced Research Labs’ brain science applications program breaks the mold with research to improve education through brain imaging)。

重要な「第一次情報」を得るには,「Give and Take」ではなく,「Give,Then Take」が必要だと考えます。基本的な権利化は必要ですが,さらに重要なのは,その後に情報を世界に発信して,多くの人々と共有することであると感じています。新しい考えを発信することによって初めて,海外からも有益な「第一次情報」が集まってくるのです。また,ご指導はその分野の最先端にいる方に直接頂戴することが肝要です。たった一言で十分である場合も多いのです。MIT Technology Review誌が世界に発信してくださったお陰で,数多くの重要な研究者が協力してくださるようになりました。その結果として,予測精度もさらに上がります。

しかも,生きた脳の働きを観測できる手段が実現できたことは,学術分野に刺激的な一石を投じたことになります。なぜならば,自然科学も人文社会科学も,日常の社会も「思考」が根幹にあって,行動を含めたすべてが「脳」によって動かされているからです。「脳」の働きを明らかにすることは,すべての人間の営みに大小のさまざまな変化をもたらすことができるからです。

競合企業にも開放した日立中央研究所・同基礎研究所合同研究会

脳科学とその応用分野は,典型的な分野横断型の研究になるので,単独の企業や大学だけでは効果的な研究はなし得ません。そこで必然的にオープンイノベーションになったのが,1990年代の初頭でした。1994年に科学技術庁フォーラムの後を受けた異分野研究者交流フォーラム(新技術事業団主催)で,「脳機能計測」のセッション取りまとめを行った直後の1995年1月25日に,第3回日立中研研究会「脳精神科学の基礎と応用」を日立中央研究所講堂で開催しました。趣旨は「21世紀の科学技術の基礎と目される脳精神科学の最先端を脳の階層別に概観・理解する。この脳神経科学基礎論をベースに,広汎な脳科学応用分野を予見し,かつその萌芽について具体的な議論を深める。また,学際的な研究協力体制の重要性から,実際に異分野研究者間の交流を深める場として活用していただく」と書きました。そして,全国の国立・私立大学と国立・公立研究所から,世界から見ても中心的な研究者をお招きすると同時に,多くの競合他社をもお招きして,将来を漏らすことなく俯瞰することを試みました。日立中央研究所講堂に参集された企業は計18社になりました。

その5年後にも,特に学術界の皆様から再度開催を要望されたので,2000年には日立基礎研究所と合同で再度開催しました。20世紀のはじめに,将来の脳神経科学の基礎と応用を見極める会議となりました。

図9|産官学連携の日立中央研究所研究会(2000年は日立中央研究所と基礎研究所の合同開催)図9|産官学連携の日立中央研究所研究会(2000年は日立中央研究所と基礎研究所の合同開催)

製品競争段階前の基礎研究開発における企業連携

民間企業の競争は熾烈で,常に研究開発は互いに秘密裡に行われていると,一般的には思われがちですが,競合以前の段階では互いに連携するのが国際的にも通念となっています。なぜなら,例えば特許は「千三つ」と呼ばれ,1,000件の特許を出願しても,本当に役立つ特許は,そのうちの3件くらいだというのが実態です。研究開発は,大規模な企業から,SME(Small and Medium-sized Enterprise),Spin-off,Spin-out,Start-upといったさまざまな企業で,夜に日を継いで進んでいます。論文は,一つの新しい事実が見つかれば,一つの論文として発表できたり,注目されたりしますが,製品はそのようなわけにはいきません,いくつもの魅力あるアイデアが総合されたものであっても,ただ一つだけ問題点が残っていれば,市場からは受け入れられません。ですから研究開発の初期段階で,多くの企業が競うことは効率が悪いのです。市場競争に入る前には,互いに連携し協力しあって,その分野が将来発展するか否かを見極めることが大切です。

黎明期の「第一次情報」を共有するために,多くの大企業も正式な企業間の契約を結んで基礎研究を進めることも多いのです。例えば私の日立製作所の医療装置の研究室でも,ドイツのSiemens社の優秀な若手研究者を招いて,1年〜2年の期間を共同研究しました。さらに,米国のGE社やオランダのフィリップス社の中央研究所を訪問して,多くの研究室を訪ね学ばせていただいてきました。コンプライアンスとは異なる倫理の基本ではないかと思います。基礎研究は協力しあっても,その後,市場競争のフェーズに入った後は,互いにさらに進んだアイデアを生む努力を続け,特許で権利化して競い合うのです。それが,新しい分野を世界に展開するうえで,とても役に立ったのです。

かつては,ベル研究所やIBM研究所のように多くのノーベル賞受賞者を出した所謂「中央研究所」の最盛期も存在しました。当時,各社の基礎研究所所長のほぼ全員が数か月ごとに研究開発の根本を真剣に話し合ってきた基礎研究所懇談会という試みが実際に存在した時期もありました。(コラム6

図10|1995年に開催された日立中央研究所研究会で,筆者が講演(同時に出版)した高次脳機能計測の進展予測と,それを用いた新分野の出現の予測図10|1995年に開催された日立中央研究所研究会で,筆者が講演(同時に出版)した高次脳機能計測の進展予測と,それを用いた新分野の出現の予測「方法論の視座から見た高次脳機能計測」(Higher-order Brain Function Analysis from the Viewpoint of Methodology)と題し,高次脳機能計測の進展と,それによって新たに出現する新分野を講演で予測。2015年の時点(20年後)で,実際にどのような形で具現化されたかを本図に重ねて示した。

図10にまとめられているように,1995年に提示された脳神経科学の未来予測は,20年後の2015年には,ほぼどれも顕著な結果が生み出されたり,国内外でも具体的な研究開発が開始されたりしています。

英文の図10の具体的な予測には下記の趣旨が記述されています。

  1. MRI:磁気共鳴描画の機能的磁気共鳴描画(fMRI)を含む各種の応用計測, 新たな近赤外光トポグラフィ(NIR-OT)の自然な状態下での心の計測,さらに脳磁図(MEG)も実用装置化する。それらは社会実装され,最初に精神科応用を含む医療応用(Medicine)に用いられるようになる。
  2. 新しいInformation・Communication・Control Technology:情報・通信・制御技術の各分野に応用される。
  3. 新しいAI (Artificial Intelligence:人工知能)やRobotics(ロボット工学)の新展開に寄与するようになる。
  4. Sensation (感覚)の定量計測を可能として,感性・理性への応用展開が可能となる。
  5. Education:科学としての教育という斬新な展開が可能となる。
  6. さらに,脳機能(特に高次脳機能)を生きた人間で計測することに重点を置いて,自然科学と人文・社会科学の融合を計るようになる。

図10では,さらに,20年後の2015年に実現したか否かの結果を重ねて表示しています。上記の項目1〜6に対して,結果は次のようになりました。

  1. 計測装置を持たない面談・問診を主とした精神科領域に,気分障害(鬱病・双極性障害・統合失調症)を峻別する初めての装置として社会実装された。また,癲癇の焦点除去手術をするために焦点の計測を非侵襲的に可能となり保険収載された。それらは薬事法認可とともに健康保険にも収載され日常臨床に使用されるようになった。
  2. 拘禁状態(意識があっても身体のすべてを動かすことができない植物様状態)の筋委縮性側索硬化症(ALS)患者との意思疎通を可能とした。また,新たなリハビリテーションの分野を開いた。
  3. 脳の基本的状処理である超並列同時分散処理(RPDP: Realtime Parallel Distributing Processing)を原理とした世界最高速の脳型半導体チップを実現させた(深層学習AIが準Realtimeで求められるRobotics応用も目的の一つ)。
  4. 感性を具体的に定量化し応用する研究開発プロジェクトが大型国家プロジェクトでも実現した。
  5. 脳科学を基調とした学習・教育が,新たな分野として研究開始され,OECDのグローバル・プロジェクト(Learning Sciences and Brain Research)が2000年から約10年間にわたって推進された。また,学術誌『Mind, Brain and Education』(心・脳と教育)がBlackwell(現在,Springer)から2005年に創刊された(米国出版協会からBest Journal of the Year賞を受賞)。
  6. 「異分野の架橋・融合」,「分野横断研究」,「超学際研究」,「環学性」(Trans-disciplinarity)などの名称で,脳科学を基調とした多くの自然科学と人文・社会科学を結合した研究が進んだ。

なぜ,かなり多くの予測がその通りになったのでしょうか。

一番の原因は,第1章から述べてきたように,海外の最先端の方々に多くのご指導を賜った結果だと思います。本当の最先端にいる人々とはどのような人々でしょうか。それは,今,まだ分かっていない理由や分かっていない根拠を正確に知っている人々です。深く突っ込んだ議論を繰り返した多くの国際会議で,心から実感したことでした。そのような人々が,思いがけない機会に不思議と集うことになって,さらに新たな概念の共有がなされたと思います。

2000年時点で日立基礎研究所が傾注しなかった分野:高温超電導と金融工学

高温超電導と金融工学は,当時,重要先端分野として大変注目されていて,日立基礎研究所でも取り上げるべきだという強い意見がありました。しかし,頑なに取り上げなかったのは理由がありました。

まず,「高温超電導」についてです。日立製作所のMRIプロジェクトでは,超電導磁石式MRIを1986年に最初に純国産化した経験があって,当時,世界の高磁場関係分野の中心的研究者と強いつながりができました※)

※)
超電導の基礎研究には長い歴史があるが,社会生活に超電導現象が活用されたのはMRIの超電導磁石が初めてである。絶対零度に近い高価な液体ヘリウムの自動回収システムや長期間の超電導状態の安定した保持には大変な困難があった。

磁石に関する2大研究所と言われてきた米国MIT高磁場研究所(FBNML:MIT's Francis Bitter National Magnet Laboratory)と仏国グルノーブル高磁場研究所(LNCMT: Laboratoire National des Champs Magnétiques Intenses)が,世界最高磁場競争で抜きつ抜かれつあった頃です。当時は,超電導式と水冷式を合体させたハイブリッド磁石で,定常磁場強度が30 T(テスラ)強のあたりが世界最高でした。フランスの研究所長は天才的な数学者で,複雑な球関数をコンピュータで近似計算せずに解析的に解いてしまいました。

一方のMITの研究所長は,基礎から実用まで精通していたナリンジャー教授(Leo J. Neuringer,1929-1993)でした。MITに出かけるたびに,黒板を使いながら白熱の議論をしてくださいました。先生との徹底的な議論から,高温超電導は20〜30年程度では,一般的な社会実装ができないと結論付けたのです(基礎理論だけでなく原価計算もやりました)。日立基礎研究所では,高温超伝導の長期的な基礎研究は一部のみ継続したのですが,大規模な研究体制には最後まで移行しませんでした。

もう一つの「金融工学」に注力しなかったことにも理由があります。1990年の初頭の頃から,日立ケンブリッジ研究所を訪問するたびに,歴史・経済学研究所のエマ・ロスチャイルド所長(Emma Rothschild)にご教示をいただき続けていました。配偶者は,トリニティ・カレッジのアマルティア・セン(Amartya Sen)学長(Master)だったのです。アマルティアさんは,厚生経済学の創始者で,1998年にノーベル経済学賞を受賞しました。エマさんは,2001 年に「Economic Sentiments: Adam Smith, Condorcet, and the Enlightenment」という名著を記しました。お二人とも金融工学の対極にいる経済学者です。本シリーズの中での一貫したテーマである「倫理資本主義」はこの頃からの産物です。

金融工学は,やがて経済を暴走させ,リーマンショックへとつながっていったことは,今ではよく知られています。

当時はなかなか理解されませんでしたが,最後まで頑固にこの二つのテーマに注力しなかったのは,結果的には良かったと感じています。

コラム6
基礎研究所所長懇談会とオープンイノベーション

筆者が日立製作所基礎研究所の所長(General Manager)を務めていた2000年前後に活動していた組織です。10数社の「基礎」という名がどこかに入っている民間研究所が,各社持ち回りで会場を提供し,そのつど見学会や討議・懇談の計画を立てて他のメンバーを招くという形式でした。他社の基礎研究開発の仕組みを学び,研究の基本や将来動向を徹底的に議論して,互いに良いところを学び,共有しようとしたのです。今でいう「協創」や「オープンイノベーション」を日本の民会企業全体として具体的に推進しようとした四半世紀前の試みでした。やがて米国型資本主義の考えから「中央研究所不要論」が叫ばれるようになり,リーマンショックも勃発して,現在まで「基礎研究所」が継続して存在しているのは日立製作所のみとなりました。興味深いことに,当時,基礎研究に関する部門を保有していたところは,現在も活発に企業活動を継続しているところが多いのです。

存続を賭けて実践された企業倫理

倫理資本主義とは,一見困難な道のりのように見えますが,これを上手くやり遂げた好例が日立製作所創業の母体となった日立鉱山です。

戦前の重工業発展期に多くの事業を手掛けた久原房之助翁は,藤田工業赤沢銅山(のちの日立銅山)を買い上げ,山奥でも従業員と家族が豊かに暮らし,かつ,事業が地域の繁栄にも貢献するような「産業ユートピア」を夢見てその創出に挑戦しました。福利厚生の拡充や娯楽施設の建設など理想の具現化に努めますが,最も苦労したのが「人(すなわち地域住民)に迷惑をかけない」という倫理・道徳の問題でした。

というのも当時,足尾銅山に代表されるように鉱山には鉱毒問題が付きもので,日立銅山も例外ではありませんでした。銅を製錬する際に発生する亜硫酸ガスは空気より重く,煙突から排出しても下に流れ出てしまうため,地域の農家,特にたばこ栽培に大きな被害を与えてしまったのです。

初めは被害にあった農作物を買い取るという金銭の補償によって問題に対処していましたが,その金額は膨れ上がり経営が立ち行かなくなるほどでした。戦時中は銅の需要が高く非常に儲かったため,ともすると企業の論理が優先され,公害を無視したまま事業を続ける経営者も少なくありませんでした。しかし久原翁は社会に迷惑をかけるくらいならば,事業は止めるべきだと考えました。

そうして事業の存亡を賭け,煙害の問題そのものを解決しようと建設されたのが,当時世界一の高さを誇り,今も日本公害史の金字塔となっている日立大煙突です。当時はガスを硫酸の形で回収する技術がまだなかったため,高い煙突を作り,ガスを上昇気流に乗せて上空で薄めることによって煙害を食い止めようとしたのです。気流の流れを把握するため,風船(今でいう気象観測用ゾンデ)を使用して高層の気象観測を重ね,また当時珍しかった鉄筋コンクリートの使用を試みながら155 mもの大煙突を完成させました。そして当時としては画期的な水準で煙害を激減させることに成功したのです。

図11|久原房之助翁が揮毫した「苦心惨憺」の碑図11|久原房之助翁が揮毫した「苦心惨憺」の碑銅の需要が急速に増す中で,鉱山の宿命でもある周辺地域の住民と事業を良い形で共存させるために,久原は実際に苦心惨憺した。高邁な言葉を残す創業者も多いが,この「苦心惨憺」という言葉は,揮毫した久原翁の考え方と人柄を現わしているようだ。

地域住民に迷惑をかけずに共存共栄をめざすという「人類社会の集合の中での倫理・道徳」の実践が,そのまま,公害問題に正面から向き合い環境負荷を軽減させるという,人間を含むより大きな「自然全体に立脚した倫理・道徳」の実践につながった非常に稀有な実例だと言えるのではないでしょうか。

日立製作所の黎明期と倫理(日立倫理の源流)

日立グループの黎明期を調査すると,当初から「倫理」 への強い理想を備えていたと感じられるのです。本調査の契機となったのは,『戦後日本公害史論』を上梓した宮本憲一先生(元滋賀大学学長)からの指摘でした。 日立鉱山や日立製作所の黎明期は,日露戦争(1904-1905)後の産業勃興期に始まります。小平浪平翁は東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業すると,藤田組小坂鉱山に入社して発電所の建設に携わりました(1900)。小坂鉱山での上司であった久原房之助翁は,1905年の12月12日に茨城県の赤沢銅山を買取り,21日には日立銅山として開業しました。久原翁は萩出身の叔父:藤田伝三郎(藤田組総帥,1841-1912)の命を受けて,1891年藤田組小坂銅山へ入りましたが,黒鉱の自溶製錬法をいち早く取り入れて大きく成功しました。しかし,内紛により小坂銅山を離れ新天地日立へと赴いたのです。一方,同じように小坂銅山を離れてから,日立へ赴任するまでの小平翁の経緯(広島電燈から東京電燈へ異動,そして渋沢元治との猿橋大黒屋会談等々)は,多くの書物で知られているので割愛します。むしろ,東京電燈(現在の東京電力)を辞してまで,久原翁の声掛けに再度応えたのですから,その久原翁の人となりに大きな魅力があったと想像します。公害史の中で久原翁の行動を見ていくと,宮本先生の指摘のように,企業の良心として環境対策に正面から取り組んだと感じられます。

図12|1908年当時の日立鉱山と,電気機械修理工場図12|1908年当時の日立鉱山と,電気機械修理工場日立製作所の創業者である小平浪平翁は,1906年,久原鉱業所日立鉱山に工作課長として入社した。それから2年後の1908年の日立鉱山の状況をこれらの写真が示している。左の写真は,当時の日立鉱山採鉱所で大雄院という地名にあって,鉱山の中心部をなしていた。右上の写真は,当時の小平浪平工作課長とその課員である。右下の写真は,日立製作所の発祥の地にあたる日立鉱山工作課電気機械修理工場である。

製錬時の環境汚染とその対策

水銀によって脳神経系を破壊される水俣病が「地球環境問題のグラウンドゼロ」とされることがありますが,日本ではその前にさらに足尾銅山の鉱毒問題があったのです。国会議員の田中正造が明治天皇に直訴(1901)したことでも知られますが,製錬時の亜硫酸ガスは大気より2倍以上も重く,降り注いで周囲の環境に甚大な被害を与えます。田畑だけでなく森林も死に,禿山からは土砂が流出する。天井川となった渡良瀬川は大洪水を繰り返し,環境対策のために渡良瀬川遊水池も造られました。しかし,2015年秋にも大洪水に見舞われたのは記憶に新しいと思います。このような公害の歴史の中で,日立銅山は例外だったことを,前述の宮本先生の指摘から学びました。筆者自身,40年以上前から水俣病の原因である有機水銀の迅速かつ正確な計測に没頭しましたが,その後,家族を連れて日立の神峰山付近をよく歩きました。日立銅山のズリ(低品位鉱石の捨て場)から宝石のような結晶を見つけたりしましたが,周囲に公害特有の現象は予想外に少なかったのです。これが日立銅山に 興味を持った最初の理由でした。

久原翁は小坂銅山の経験を生かし,日立周辺でも数か所の発電所を建設して多くを電化し,また大型モータで駆動する圧搾空気を坑内での動力源としました。発電・変電・送電設備,動力源としてのモータ,輸送用の軌道と小型ながらも電気機関車,深い坑道へのリフト(エレベーター),暗い坑道の電燈照明,空気式削岩機,元素分析装置,測量用光学機器,気象観測機器と通信装置など,現在の日立グループのミニチュアに相当する実体がそこにはあったと思います。さらに,鉱山で働く人々の生活へと展開され,社宅,食堂,売店,病院,学校などの福利厚生施設の充実へと発展しました。一方で,周囲に住む人々の生活に気遣い,公害補償は最初から被害額と見舞い金を足して毎年支払われました。しかし,増産に次ぐ増産に,補償額は膨らみ経営困難に立ち至ったのです。銅の生産という言い訳を言えたはずの戦争の時代に,苦心惨憺の末に造られた「日立大煙突」は,日本公害史に打ち立てられた「金字塔」だと前述の宮本憲一先生は述べました。

図13|日立鉱山の往時をしのぶ名残図13|日立鉱山の往時をしのぶ名残0.05 gから50,000 gまで高精度で測れる大型天秤(左上)。鉱石の分析ほか,正確な計測は,すべての基盤である。煙害を防ぐための高層気象の計測も,測量の光学機器も,やがては計測器事業へとつながっていく。左下は,地下の縦坑への昇降機を巻き上げる部分である。動力はモータであり,やがて電力事業や生産設備,そして家庭電化製品用モータともつながっていく。蒸気機関の次に来たのは電気モータの時代であった。右上は鉱山の宿命であった公害へ早くから対処するために,排煙が植物に与える影響を観察した環境実験小屋であり,右下は,鉱山に働く多くの人々やその家族のための福祉施設として設計された共楽館という劇場で使用されていた劇場用映写機である。共楽館は,東京の歌舞伎座を参考に工場建築を取り入れて設計され,設計と施工は鉱山の技師らが担当した。著名な歌手などによる舞台の他に,多くの映画を低価格で楽しめた。

もちろん亜硫酸ガスの完全捕捉技術の完成には時間を要したので,煙の遠隔地拡散の 問題がたばこの葉などに現れたことも事実です。大雄院の製錬所から尾根に沿って煙を導く「百足煙道」,政府の技術委員会の設計がまったく役に立たなかった「第3煙突」,そして苦心惨憺の結果として完成し,そのてっぺんが海抜480.7 mを誇った「日立大煙突」の基底部三分の一は現在も残っています。

1972年には亜硫酸ガスを全量硫酸として回収する設備が完成し,完全無公害化を達成したのです。筆者が日立大煙突を訪れたのは,この直後からでした。役目を終えた「日立大煙突」は,基底部の三分の一(57 m)を残して,1993年に,突然,自然な形で自ら倒壊しました。

倫理を掲げない企業は生き残れない

これはひとえに第1章中編で触れた「歴史性」,すなわち,歴史上偶然表れた久原房之助翁という人物の信念に負うところが大きいかもしれません。「企業は社会のためにある」と考え,私欲も少なかったように思われます。そういう信念を持った人物がたまたま歴史上表れ,赤沢銅山を購入し,あのような偉業を成し遂げました。

それでも「過去に一度は成し遂げた」という事実は,現代に生きる私たちに明るい希望をもたらします。今の資本主義に欠陥があることは周知のとおりです。しかしより良い代替案が見つかるまでは,それを改善して用いていくほかありません。そしてその改善策の一つが,倫理に基づく本来の資本主義へと回帰する道なのです。しかもそれは久原翁のように,事業の存亡を賭けて本気で臨むものでなければいけません。事業で環境に負荷をかけ続けながら,それに対する免罪符を得るために行うような取り組みでは意味をなさないのです。

コラム7
経済格差とSDGs

最近になって,Nature誌がSDGsに関する論説を掲載しました。“Reducing inequality benefits everyone - so why isn’t it happening?”: Nature 620, 468 (2023)という表題の論説です。

2023年7月に67か国の研究者が,アントニオ・グテーレス国連事務総長とアジェイ・バンガ世界銀行総裁に公開書簡を送り,「極端な不平等の拡大に対処する努力を倍加する」よう求めたことが契機になっています。

新しい倫理のシリーズでも,概念図を示して世界の経済格差の実態を示してきました。国連の17の持続可能な開発目標(SDGs)のうち,10番目の目標「格差の是正」が進展していないことに対して,書簡の中では「ほとんど無視されている」とまで書かれています。

筆者もこの問題は,SDGsの本質を考えるうえで,重要だと思います。SDGsのバッジを付けて胸を張るのは,行動するための意思表示の第一歩かも知れませんが,一人ひとりができることを具体的にするのがSDGsだと思います。まさに“Think globally, act locally”です

Natureの文献: 寶金清博、鈴木教洋、小泉英明による鼎談;
Nature, 559, No. 7868, 22 July 2021.
Listening to locals is key to building Society 5.0

コラム8
医学生や薬学生による格差に関するレポート

慶應義塾大学医学部教授で慶應義塾大学グローバル・リサーチ・インスティテュート(KGRI)第4代所長の安井正人先生が「医学生のための哲学講座」というオムニバス形式の講座を主宰しています。受験を終えて入学してきた新鮮な心の状態で,医師の本当の務めとは何だろう,と考えてもらうために創られた講座です。そろそろ5年近くになりますが,毎年,前期の前半にこの講座のお手伝いをしています。今期,私の授業では,広い意味での「格差」の問題も取り上げてみました。オクスファムのデータを基にして描いた図(第1回後編図1)では,世界の総人口が新たに手に入れた富のうち,裕福な1%の人々が,すべての富の80%以上を得ているのです。そして,貧しい世界の半数の人々は,すべての富の1%しか享受できていません。この格差・不平等は,すでに倫理の限界を超えています。すべての人々が生きるために必要最低限の収入が得られているうえでの格差だったらまだ許せるでしょう。しかし,現実には最貧国の多くの子どもたちが飢えや医療を受けられずに死んでいることを考えれば,一生使いきれない富に溺れている富裕な人々は,倫理が欠落していると言われても反論の余地はないでしょう。世界の1%の富裕者が,自分の得た富の1%を寄付すれば,世界人口の半数が相当する貧困層の収入は倍増するのです。この事実は医学者・薬学者をめざす新入生の心を打ったようです。主宰の安井先生と相談して,レポートのテーマは,「どうしたら富裕者に自分がその年に得た富の1%を拠出してもらえるか」としました。レポートで知った若い人々の新鮮な考えに,今度は私が心を打たれました。この結果は,ぜひ整理して,どこかに公表したいと考えています。

ともすると,企業が「倫理」や「利他」を掲げることは理想論のように受け取られてしまうこともあります。しかしこれは理想論でも何でもなく,過去に実現したことなのです。そしてそれを成し遂げた日立が「倫理」を訴えることに大きな説得力があり,同時に,社会に対してそうした行動を広める責任を負っていると言えるでしょう。

第2回前編でも名を挙げたマルクス・ガブリエル氏は「今後,倫理を掲げない企業は収益を上げることができず,存続できなくなるだろう」と述べています。そのうえで,これからの企業は,健全な経営のために欠かせない税務や財務と同様に,「倫理」についても専門職を設ける必要性があると主張しています。この考えには私も同感です。倫理企業としての伝統を引き継ぐ日立において,私がこれまで20年以上携わってきた役割の一つも「倫理の専門職」ということだったのかも知れません。事実,脳機能計測や国家プロジェクトによるコホート研究という人間に関わる究極的な実験で,最初にいつも問題となってきたのは,研究対象者の方々の人権でした。その結果,世界で最も厳しく進んだ内容で知られるフランス国立倫理委員会で,フランスでの乳幼児脳機能計測の許可申請書を認可いただいたり(2000年初頭),脳機能計測実験の日本の省庁での最初期の倫理委員会の組織づくりに加わったり(1990年代)してきました。また,脳研究の国家プロジェクトの研究統括や領域総括などの立場で,新たな倫理委員会を作ることに注力してきました[2000年代の「すくすくコホート」(Japan Children’s Study:JCS)ほか]。日本放送協会(NHK)の放送文化研究所が進めた「子どもに良いメディア」コホート研究プロジェクトでも,倫理委員会委員長代理を務めました。

第2回中編の最後に:日立源流の鉱石は,日本最古の物質と判明

日立製作所の社史は,日立鉱山の修理小屋建設を日立製作所の創立として説き起こされることが多いのですが,客観的な科学史として成立させるためには,正確な記録と第一次情報を基にした思想の源流を明らかにすることが必要です。

修理小屋は,久原鉱業所日立鉱山の一角に在ったのです。それは現実世界を俯瞰していた久原房之助翁と,同じ思いと志を持った小平浪平翁の心そのものだったと思います。ですから,修理小屋は日立製作所の本当の原点でした。

久原房之助翁は常に世界を見ていて,時に果敢に日本を飛び出して行きました。考えが,テスラと同じ宇宙規模なのです。当時,「惑星」と言われたのも不思議ではありません。

本稿第1回前編から述べているロシアのウクライナ侵攻とも,関係しない話ではないと感じています。

さらに不思議なことが起こるもので,久原房之助翁が最初に魅力を感じて購入した赤沢鉱山は,最近の同位体分析の結果,古生代カンブリア紀(約5.4億年前から約4.9億年前)に形成されたことがわかってきました。最近まで,このように古い地層は日本に存在しないと考えられてきたので,日立鉱山の鉱石や周辺の岩石の年代分析は極めて興味深い状況にあります。新たな地質年代として「人新世」が叫ばれる中にあって,ほとんどの門(生物分類の大項目)が突然発生し,さまざまな生物が現れたカンブリア紀に話がつながっていくのはとても興味深いことです。

中でも,日本最古であると分かってきたのが,日立鉱山不動滝鉱床です。Re-Os放射性同位体による年代測定から,約5.3億年前というカンブリア紀初期に形成されました※)

※)
T. Nozaki et.al, “Re-Os Geochronology of the Hitachi Volcanogenic Massive Sulfide Deposit:The Oldest Ore Deposit in Japan”, Economic Geology (2014).

さらに,日立鉱山不動滝鉱床の坑道内から採取した鉱石試料の中から,2019年に新しい鉱物が発見されて,「日立鉱」(Hitachiite)と命名されました。高温超電導とも関係があるかもしれない物質です※)

※)
T. Kuribayashi et.al., “Hitachiite, Pb5Bi2Te2S6, a new mineral from the Hitachi mine, Ibaraki Prefecture, Japan”, Mineralogical Magazine (2019).